道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-



イエス言ひ給ふ 『我は復活(よみがへり)なり、生命(いのち)なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠(とこしへ)に死なざるべし、汝これを信ずるか』 ヨハネ11:25

主イエス・キリストは、ラザロを死後四日目に墓の中から甦らせ、これを見た多くの人が、これこそ救い主であると信じた。

そして、主イエス・キリストは自ら私たちの罪のために十字架に釘けられて死に、葬られて、三日目に復活された。即ち死に勝利し、死人の中から初穂となって復活されたのである。

復活された主はガリラヤに行き、十一使徒も行って主に謁見えて拝した。主は言われた。

『我は天にても地にても一切の権を與へられたり。然れば汝ら往きて、もろもろも國人を弟子となし、父と子と聖霊との名によりてバプテスマを施し、わが汝らに命ぜし凡ての事を守るべきを教へよ。視よ、我は世の終まで常に汝らと偕に在るなり』 マタイ28:18~20

教会は、主の御命令を果たす務めがある。喜びをもって進んで行きたい。



大祭司いふ 『われ汝に命ず、活ける神に誓ひて我らに告げよ、汝はキリスト、神の子なるか』 
イエス言ひ給ふ 『なんぢの言へる如し。かつ我なんぢらに告ぐ、今より後、なんぢら人の子の全能者の右に坐し、天の雲に乗て來るを見ん』
  マタイ26:63,64

総督、問ひて言ふ 『なんぢはユダヤ人の王なるか』 イエス言ひ給ふ 『なんぢの言ふが如し』  同27:11   

主イエス・キリストは、十字架に懸けられる前に二人の審判者による裁きを相次いで受けられた。先なる一人はユダヤ教の大祭司カヤパであり、後なる一人はロマの総督ピラトであった。

二人の尋問に対して主イエス・キリストは的確に答えられた。

大祭司の問いに対して、主はご自身の神性を言い表されたのである。それは何者も犯すべからざる絶対的なものであった。

総督の問いに対しては、ユダヤの民が長い間、待望していたユダヤ人の王であることを宣言されたのである。

これは真理であり、奥義である。

この世の司には之を知る者なかりき、もし知らば栄光の主を十字架に釘けざりしならん。
 コリント前2:8

御子は肉によれば、ダビデの裔より生れ、潔き霊によれば、死人の復活により大能をもて神の子と定められ給へり、即ち我らの主イエス・キリストなり。 ロマ1:3


御國のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傳へられん、而して後、終は至るべし。  マタイ24:14

今は何の時か、末の世である。罪の故に滅亡に日が迫っているが、同時に神の救いの御業が顕著に為されている時でもある。

教会に於いては、聖霊の働きが為され、水と霊との救いが行われている。その火が燃えさからんことを祈る。


なんぢら時を知る故に、いよいよ然なすべし。今は眠りより覚むべき時なり。始めて信ぜし時よりも今は我らの救近ければなり。夜ふけて日近づきぬ、然れば我ら暗黒の業をすてて光明の甲を著るべし。ロマ13:11,12 

神いひ給ふ『われ恵みの時に汝に聴き、救の日に汝を助けたり』と。視よ今は惠のとき、視よ今は救の日なり。  コリント後6:2

 

兄弟よ、われは既に捉へたりと思はず、唯この一事を務む、即ち後のものを忘れ、前のものに向ひて励み、標準(めあて)を指して進み、神のキリスト・イエスに由りて上に召したまふ召にかかはる褒美を得んとて之を追い求む。されば我等のうち成人したる者は、みな斯のごとき思を懐くべし。 ピりピ3:13~15

パウロは、先ず救われる以前の己が姿に就いて列挙する。

生後八日目に割礼を受けた、イスラエルの血筋、ベニヤミンの族、へブル人から出たへブル人、律法に就いてはパリサイ人、熱心については教会を迫害した者、律法によれる義については責むべき所なき者であったと言う。典型的な律法主義者であった。

それが故に、イエス・キリストの教えに敵対するを良しとし、クリスチャン迫害の先頭に立った人物であった。

だが、ダマスコにいるクリスチャン迫害の出かけた時、光の中にイエス・キリストの御声を聞き、回心せしめられたのである。アナニヤによってバプテスマを受けるや、百八十度変わってイエス・キリストを宣伝える伝道者となった。そのため昨日の仇は友となり、昨日の友は仇となった。

彼は言う。過去の益たりし事は、キリストにあって損であった、過去の凡てを失ったが、キリストを知った今は塵芥のごとく思うと。

律法の義ではなくして、キリストによる義を得た。イエス・キリストの復活と力とを知り、それに倣って進んで行くのだと指針を得た。

成長するクリスチャンの姿をここに見る。




わが恩恵(めぐみ)なんぢに足れり、わが能力(ちから)は弱きうちに全うせらるればなり。 コリント後12:9

パウロは、この聖言を記した十四年前に第三の天にまで取り去られた一人の人を知っていると言う、その人は肉体にてか、靈にてか知らぬが、パラダイスに取り去られて、言い得ない言葉、人の語るまじき言葉を聞いたという。

常人ではありえないような霊的体験をしたのは、他ならぬパウロ自身であったのだが、斯かる主よりの特別な黙示に与った者は、ともすれば自分は他の誰よりも恵まれ祝された者だと思いあがり、高慢に陥り易いものである。そこで主は彼を高ぶらせぬために、彼を撃つサタンの使いとして、彼の肉体に一つの刺を与えたというのである。

それが何であったかは明言していないが、「わが肉体に汝らの試練となる者ありしたれど汝ら之を卑しめず、又きらはず」と述懐していることから見れば、何らかの病を持っていたのであろうと思われる。
 ガラテヤ4:14  それ故にパウロは弱さを抱えている人であった。
救われている者ならば、自分には善きことのみがあるべきだ、それこそ証ではないか。苦難、患難、病いなどあっては証にならないのではないかと思うものである。しかし、ヨブを思い見とよとも聖書は言う。ヨブは「我ら神より福祉を受るなれば災禍をも亦受ざるを得んや」と信仰をもって言い表した。

パウロも病ある故に悩み、これがために三度まで之を去らしめ給わんことを主に求めたが、主は答えて言いたもう。『わが恩恵なんぢに足れり、わが能力は弱きうちに全うせらるればなり』と。この御言を頂いて、彼の煩悶は終わった。主の御旨が分かれば良し、あとは唯従うのみである。

キリストの能力の我を庇わんために、寧ろ大いに喜びて我が微弱きを誇らん。この故に我はキリストの為に微弱・恥辱・艱難・迫害に遭うことを喜ぶ、そは我よはき時に強ければなり。 と大勝利をして、パウロは進んだのである。ハレルヤ!


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