道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-


汝らが遭ひし試練(こころみ)は人の常ならぬはなし、神は眞實(まこと)なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試練に遭はせ給はず、汝らが試練に耐へ忍ぶことを得んために、之と共に遁るべき道を備へ給はん。 コリント前10:13

クリスチャンである私たちは、神様から愛されている、祝福されている、だから悩み・苦しみなどはない、と言えば大言壮語に過ぎる。

クリスチャンも病に罹ったり、抱えている問題は色々あるのだ。

しかし、神を信ずる者と信じない者とでは、神様は区別をすると言っておられ、信ずる者には何時も御愛の目が注がれ、助けの御手が伸べられ、遁れ道を備えて下さるのである。

そして、試練は私たちを強くし、万事に勝利して進む勇気を与える神の手立てなのだ。

信仰を堅く保ち、祈りを篤くして、勇ましく進もう。

然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖霊によりて神の愛、われらの心に注げばなり。 ロマ5:3~5




斯て彼らに言ひたまふ『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。信ずる者には此等の徴、ともなはん。即ち我が名によりて悪鬼を逐ひいだし、新しき言をかたり、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば癒えん』
語り終へてのち、主イエスは天に挙げられ、神の右に坐し給ふ。弟子たち出でて、徧く福音を宣傳へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言を確うし給へり。
 マルコ16:15~20

十字架につけられた主イエス様は、肉は殺されたが、霊では生かされ、霊にて往き、獄にある霊に宣傳へられた。これ等の霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が寛容をもて待ち給えるときに、従わなかった者たちである。死者の世界に福音が主御自身によって宣伝えられたのである。今日「身代わり洗礼」が為されているが、その真理を繙く聖言の一つである。 ペテロ前3:18~20

パウロは、前書15章で「福音」とは何かを示した。即ちキリスト聖書に応じて我らの罪のために死に、また葬られ、聖書に応じて三日目に甦り、ペテロと十二使徒に現われ給うた事だと記している。次には五百人以上の兄弟に同時に現れ給うたと、多くの証をもって主の復活の事実を力説している。この復活は順序に随い、先ず初穂なるキリスト、次はその来たり給うときキリストに属する者である。神の証として、霊と水と血との三つ合いて一つと成れるお方、即ち主イエス・キリストを持つことによりて永遠の生命その人に与えられるとヨハネ第一書5:5~11に記されている。

具体的に言うならば、主イエス・キリストが言い給うた「水と霊とのバプテスマ」を受けて救われることである。これによって主の福音は、我らの上に全うされるのである。

この完璧なる主の福音を高くかざして、伝道に励もうと思う。




それ十字架の言は亡ぶる者には愚かなれど、救はるる我らには神の能力(ちから)なり。
録して 『われ智者の智慧をほろぼし、慧き者の慧を空しうせん』 とあればなり。世は己の智慧をもて神を知らず(これ神の智慧に適へるなり) この故に神は宣教の愚をもて、信ずる者を救ふを善しと為給へり。
ユダヤ人は徴を請ひ、ギリシャ人は智慧を求む。されど我らは十字架に釘けられ給ひしキリストを宣傳ふ。
これはユダヤ人には躓物(つまづき)となり、異邦人に愚となれど、召されたる者にはユダヤ人にもギリシャ人にも神の能力、また神の智慧たるキリストなり。神の愚は人よりも智(かしこ)く、神の弱は人よりも強ければなり。

コリント前1:18~25

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。・・・わが談話も、宣教も、智慧の美しき言によらずして、御霊と能力との証明によりたり。これ汝らの信仰の、人の智慧によらず、神の能力に頼らん爲なり。 同2:2~5


この処、春なお遠い寒中ではあるが、お導きがあって、新しく色々な方が教会に来られる。導いた信者方が予め福音を語り、水と霊のバプテスマに就いて語って下さっているので、新しい方も水と霊を受ける心積りで来ておられるので、話の進め方は早い。

「ハレルヤ」と祈って聖霊待望会を始めると、直ぐにも聖霊が降り、異言に変わってお祈りを為れる。主イエス様が側に立たれて、御霊を注いでおられるのを感じ、畏れ、慄いて聖名を崇める瞬間である。

次いで、予め準備万端整えた洗礼式場に移っていただき、更衣室で洗礼衣に着替え、牧師の先導で水に入っていただく。皆さん、寒中ながら堂々と入り、「主イエス・キリストの御名によってバプテスマを施す」との声とともに全身浸礼を受ける。祝福の祈りを受けて水から出て、次は洗足式である。椅子に座り、用意した盥で左右の足を、同じく「主イエス・キリストの御名により」洗足し、「おめでとう!」 「ハレルヤ!」と喜びを分かち合う。

、最後に会堂に戻って「頌栄・祝祷」をし、救いに関わる式を終えるのだが、一人の人救われなば、天にて歓喜あるべしとある如く、教会にとってこの霊の喜びは何物にも代えがたいものである。

安息日礼拝、日曜聖会、祈祷会と道央教会では行っているが、平日も訪ねてくる方がおられ、お祈りや救いやがあって、イエス様が働いていらっしゃる事を感謝している。ハレルヤ!




エリヤの昇天後、主は直ちにエリシャを用いられた。

エリコの町の人々はエリシャに言った、「見られるとおり、この町の場所は良いが水が悪いので、この地は流産を起すのです」。エリシャは言った、「新しい皿に塩を盛って、わたしに持ってきなさい」。彼らは持ってきた。エリシャは水の源へ出て行って、塩をそこに投げ入れて言った、「主はこう仰せられる、『わたしはこの水を良い水にした。もはやここには死も流産もおこらないであろう』」。こうしてその水はエリシャの言ったとおりに良い水になって今日に至っている。
 歴代下:19~22 これがエリシャによる第一の奇蹟である。

また、預言者のひとりの妻がエリシャに呼ばわって言った、「あなたのしもべであるわたしの夫が死にました。ごぞんじのように、あなたのしもべは主を恐れる者でありましたが、今、債主がきて、わたしのうたりの子供を取って奴隷にしようとしているのです」。エリシャは彼女に言った、「あなたのために何をしましょうか。あなたの家にどんなものがあるか、言いなさい」。彼女は言った、「一びんの油のほかは、はしための家には何もありません」。彼は言った、「ほかへ行って、隣の人々から器を借りなさい。あいた器を借りなさい。少しばかりではいけません。そして内にはいって、あなたと子供たちと一緒に戸の内に閉じこもり、そのすべての器に油をついで、いっぱいになったとき、一つずつそれをとりのけておきなさい」。彼女は彼を離れて去り、子どもたちと一緒に戸の内に閉じこもり、子どもたちの持ってくる器に油をついだ。油が満ちたとき、彼女は子供たちに「もっと器を持ってきなさい」と言ったが、子供が「器はもうありません」と言ったので、油はとまった。そこで彼女は神の人のところへきて告げたので、彼は言った。「行って、その油を売って負債を払いなさい。あなたと、あなたの子供はその残りで暮らすことができます」。 同4:1~7

エリシャが主の名によって行った奇蹟、不思議は数多く記されてある。貧しい人からイスラエルの王に至るまで神の栄光を見させ、またスリアのナアマン将軍が病を癒されることを望んでやって来た時には、きれいに癒やして帰らせた。その凡ての人々が救われ、癒され、生ける神の御業を見たのである。

エリシャはエリアの後継者として、主のため人のために善き働きをして、使命を全うしたのである。


エリシャは、エリヤの後継者として神に選ばれ、エリヤにより膏を注がれ代わって預言者とされた人である。

牛を使って畑を耕しているところにエリヤが来て、その上に外套をかけた。エリシャは父母に別れを告げ、エリヤに從いこれに仕えた。「汝は我に従え」と召命の時である。
 列王上19:19~21

エリシャは、エリヤが昇天するときまで共にいて、エリヤの行う事を凡てを見て学んでいた。

今日は別れるという日が来たが、エリシャは何処までもついて行った。ヨルダン川に来たときにエリヤが外套を丸めて水を打つと水が左右に分れたので、二人は乾いた土の上を渡って行った。
 列王下2章

最後に別れる時が来た。エリヤが「あなたのために何ができるだろうか。何なりと願いなさい」と言うと、エリシャは「どうかあなたの霊の二倍の分け前をくださいますように」と答えた。 聖書協会共同訳

エリヤは「あなたは難しい願をするものだ。わたしが取り去られるのを見るならば、願はかなえられる。もし見なければ、願はかなえられない」と言った。

「我を信ずる者は我がなす業をなさん、かつ之よりも大なる業をなすべし、われ父に往けばなり」と言われた主イエス様の御言葉の如くである。
 ヨハネ14:12

火の車と火の馬が現れて二人を隔てた。エリヤは旋風に乗って天に昇り、エリシャは「わが父 わが父 イスラエルの兵車よ その騎兵よ」と叫んだ。そして自らの衣を掴んで二つに裂いた。

エリシャはエリヤの身から落ちてきた外套を持ってヨルダンの岸に立ち、水を打つと左右に分れたので、渡って戻ってきた。遠くから一部始終を見ていた預言者たちは「エリヤの霊エリシャの上にとどまる」と言った。

この日を境にして、主はエリシャと共に在り、神の人エリシャは御霊の力をもて数々の奇跡、不思議を行うようになった。エリヤに言った願のようになったのである。

私たちも、昇天後十日目のペンテコステの日に約束の御霊を注ぎ給うた主イエス様によって、御霊のバプテスマを受けて能力を得、また御霊の諸々の賜物を得た。それに從って尊い主の御用のために用いられるようになった。勇気百倍して用いられて行きたいと願うのである。


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