道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-



その昔、若き日に歌ったリバイバル聖歌 276番に、「偉大なる医者」という讃美があった。

       ♪ 偉大なる医者は 神のみ子エス
        その奇しき力 今もかわらじ
        君なるエスは 悩めるわれに
        いと近くませば 心はやすし ♪

イエス・キリストの伝道の始めについて、福音書にこう記されている。

イエス徧くガリラヤを巡り、会堂にて教をなし、御国の福音を宣べつたへ、民の中のもろもろの病、もろもろの疾患(わずらひ)をいやし給ふ。その噂あまねくシリヤに廣まり、人々すべての悩めるもの、即ちさまざまの病、苦痛(くるしみ)とに罹れるもの、悪鬼に憑かれたるもの、癲癇および中風の者などを連れ来りたれば、イエス之を医したまふ。ガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤ及びヨルダンの彼方より大なる群衆きたり從へり。
 マタイ4:23~25

イエス・キリストの伝道は、言葉のみによらず、病の癒しをはじめ、徴・不思議・奇蹟など御業の伴うものであった。

今日の教会においても「イエス・キリストは、昨日も今日も永遠までも変わり給ふことなし」と、神の御業が為されるので、それを信じて神癒祈祷や様々な祈りを行っている。

そのため講壇にはオリーブ油の入った瓶が置かれ、礼拝後は神癒祈祷が行われている。家庭集会などの際には、聖徒方の中に病める方がいれば、求めに応じて紳癒祈祷をするので、それに備えて、牧師は聖書と共に油瓶を携行するのが常である。 

〇 我はヱホバにして汝を医す者なればなり 出エジプト15:26

〇 我の外には神なし 殺すこと 活すこと 撃こと 癒すことは凡て我是を為す 申命記32:39

〇 ヱホバはなんぢがすべての不義をゆるし 汝のすべての疾をいやし 詩篇103:3

〇 汝等のうち病める者あるか、その人、教会の長老たちを招け。彼らは主の名により其の人に油をぬりて祈るべし。さらば信仰の祈りは病める者を救はん、主かれを起し給はん。 ヤコブ5:14,15

〇 愛する者よ、我なんぢが霊魂の栄ゆるごとく汝すべての事に榮え、かつ健かならんんことを祈る。 ヨハネ第三;2





ルカ伝8:40~56には、主イエス・キリストが為された二つの奇蹟が記されている。

一つは、ヤイロの娘が死んだ時に、主が生き返らせた御業であり、もう一つは、十二年間出血が止まらなかった女性が、病の癒しを切に願って御許に來た時に、主の癒しの力を頂いて快癒したという証である。

この二つの御業を主イエス様の側からみると、前者は、ヤイロの懇願を受けて娘の病の癒しのために出向かれたところ、事態は深刻になり、死んだという知らせを受けられたが、進んで行かれ、死せる身に霊を還らせて、瞬時に生き返らせたという、圧倒的な神の力を示すものであった。

後者は、イエス様にとっても思いもよらぬ出来事であった。一人の婦人がイエス様の後ろから近付き、衣の総にさわったのだ。彼女は十二年間出血が止まらず、医者のために全財産を使い果たしたが癒やされず窮していた。イエス様が来られたのをみて、救っていただきたいという一念で側に行ったのだが、御前に平伏して懇願する勇気も無かったのであろうか、後ろに来て御衣の総に触った。それは「御衣だに触るならば癒やされる」と心の中に言ったのである。その瞬間、あゝ出血は止み、病はいやされた。

主は言われた『我に觸りしは誰ぞ』 みな否と答え、ペテロたちは『群衆囲みて押し迫るなり』と言ったが、主は言われた。『我に觸りし者あり、能力の我より出でたるを知る』
これを聞いたこの婦人は自分が隠れ得ぬことを知って、戦き來りて御前に平伏し、觸りし故と瞬時に癒えた事を、人々の前で語った。
イエス言ひ給ふ『むすめよ、汝の信仰なんぢを救へり、安らかに往け』

そして、主は進み行かれて、ヤイロの許に行き、亡くなったばかりの娘を甦らせられたのである。

私たちも主の御力を戴きたいことが多くある。その時は自らの心の中にある妨げる思いや、人の目を気にすることなく、只管幼子の如くに主に求め、信仰に固く立って祈り、願って行くのが幸いである。そして主が与えて下さる最高の物を頂いて喜び、大感謝、大讃美をしていこうと思うのである。


汝らが遭ひし試練(こころみ)は人の常ならぬはなし、神は眞實(まこと)なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試練に遭はせ給はず、汝らが試練に耐へ忍ぶことを得んために、之と共に遁るべき道を備へ給はん。 コリント前10:13

クリスチャンである私たちは、神様から愛されている、祝福されている、だから悩み・苦しみなどはない、と言えば大言壮語に過ぎる。

クリスチャンも病に罹ったり、抱えている問題は色々あるのだ。

しかし、神を信ずる者と信じない者とでは、神様は区別をすると言っておられ、信ずる者には何時も御愛の目が注がれ、助けの御手が伸べられ、遁れ道を備えて下さるのである。

そして、試練は私たちを強くし、万事に勝利して進む勇気を与える神の手立てなのだ。

信仰を堅く保ち、祈りを篤くして、勇ましく進もう。

然のみならず患難をも喜ぶ、そは患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずと知ればなり。希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖霊によりて神の愛、われらの心に注げばなり。 ロマ5:3~5




斯て彼らに言ひたまふ『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣傳へよ。信じてバプテスマを受くる者は救はるべし、然れど信ぜぬ者は罪に定めらるべし。信ずる者には此等の徴、ともなはん。即ち我が名によりて悪鬼を逐ひいだし、新しき言をかたり、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば癒えん』
語り終へてのち、主イエスは天に挙げられ、神の右に坐し給ふ。弟子たち出でて、徧く福音を宣傳へ、主も亦ともに働き、伴ふところの徴をもて、御言を確うし給へり。
 マルコ16:15~20

十字架につけられた主イエス様は、肉は殺されたが、霊では生かされ、霊にて往き、獄にある霊に宣傳へられた。これ等の霊は、ノアの時代に箱舟が造られていた間、神が寛容をもて待ち給えるときに、従わなかった者たちである。死者の世界に福音が主御自身によって宣伝えられたのである。今日「身代わり洗礼」が為されているが、その真理を繙く聖言の一つである。 ペテロ前3:18~20

パウロは、前書15章で「福音」とは何かを示した。即ちキリスト聖書に応じて我らの罪のために死に、また葬られ、聖書に応じて三日目に甦り、ペテロと十二使徒に現われ給うた事だと記している。次には五百人以上の兄弟に同時に現れ給うたと、多くの証をもって主の復活の事実を力説している。この復活は順序に随い、先ず初穂なるキリスト、次はその来たり給うときキリストに属する者である。神の証として、霊と水と血との三つ合いて一つと成れるお方、即ち主イエス・キリストを持つことによりて永遠の生命その人に与えられるとヨハネ第一書5:5~11に記されている。

具体的に言うならば、主イエス・キリストが言い給うた「水と霊とのバプテスマ」を受けて救われることである。これによって主の福音は、我らの上に全うされるのである。

この完璧なる主の福音を高くかざして、伝道に励もうと思う。




それ十字架の言は亡ぶる者には愚かなれど、救はるる我らには神の能力(ちから)なり。
録して 『われ智者の智慧をほろぼし、慧き者の慧を空しうせん』 とあればなり。世は己の智慧をもて神を知らず(これ神の智慧に適へるなり) この故に神は宣教の愚をもて、信ずる者を救ふを善しと為給へり。
ユダヤ人は徴を請ひ、ギリシャ人は智慧を求む。されど我らは十字架に釘けられ給ひしキリストを宣傳ふ。
これはユダヤ人には躓物(つまづき)となり、異邦人に愚となれど、召されたる者にはユダヤ人にもギリシャ人にも神の能力、また神の智慧たるキリストなり。神の愚は人よりも智(かしこ)く、神の弱は人よりも強ければなり。

コリント前1:18~25

イエス・キリスト及びその十字架に釘けられ給ひし事のほかは、汝らの中にありて何をも知るまじと心を定めたればなり。・・・わが談話も、宣教も、智慧の美しき言によらずして、御霊と能力との証明によりたり。これ汝らの信仰の、人の智慧によらず、神の能力に頼らん爲なり。 同2:2~5


この処、春なお遠い寒中ではあるが、お導きがあって、新しく色々な方が教会に来られる。導いた信者方が予め福音を語り、水と霊のバプテスマに就いて語って下さっているので、新しい方も水と霊を受ける心積りで来ておられるので、話の進め方は早い。

「ハレルヤ」と祈って聖霊待望会を始めると、直ぐにも聖霊が降り、異言に変わってお祈りを為れる。主イエス様が側に立たれて、御霊を注いでおられるのを感じ、畏れ、慄いて聖名を崇める瞬間である。

次いで、予め準備万端整えた洗礼式場に移っていただき、更衣室で洗礼衣に着替え、牧師の先導で水に入っていただく。皆さん、寒中ながら堂々と入り、「主イエス・キリストの御名によってバプテスマを施す」との声とともに全身浸礼を受ける。祝福の祈りを受けて水から出て、次は洗足式である。椅子に座り、用意した盥で左右の足を、同じく「主イエス・キリストの御名により」洗足し、「おめでとう!」 「ハレルヤ!」と喜びを分かち合う。

、最後に会堂に戻って「頌栄・祝祷」をし、救いに関わる式を終えるのだが、一人の人救われなば、天にて歓喜あるべしとある如く、教会にとってこの霊の喜びは何物にも代えがたいものである。

安息日礼拝、日曜聖会、祈祷会と道央教会では行っているが、平日も訪ねてくる方がおられ、お祈りや救いやがあって、イエス様が働いていらっしゃる事を感謝している。ハレルヤ!


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