道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-



されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん。 ピリピ3:20

『なんぢら心を騒がすな、神を信じ、また我を信ぜよ。わが父の家には住居おほし、然らずば我かねて汝らに告げしならん。われ汝等のために處を備へに往く。もし往きて汝らの為に處を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん爲なり。汝らは我が往くところに至る道を知る』
トマス言ふ『主よ,何處へゆき給ふかを知らず、争(いか)でその道を知らんや』
イエス彼に言ひ給ふ『我は道なり、真理なり、生命なり、我に由らでは誰にても父の御許にいたる者なし』

ヨハネ14:1~6

先週、一人の愛する兄弟が天に召された。今日は聖言を記すに止め、証詞は後日に譲ろうと思う。  




大によばはりて聲ををしむなかれ 汝のこゑをラッパのごとくあげ わが民にその愆(とが)をつげヤコブの家にその罪をつげしめせ イザヤ58:1
 
なんぢ御言を宣傳へよ、機を得るも機を得ざるも常に励め。 テモテ後4:2


先日、中学・高校時の同期会があり、案内を戴いたので出席した。

札幌第二中学校(旧制)では五年間学び、高校三年となった。(その辺りの事は、「御霊の声」に記してある。)

同校には、札幌二中・札幌二高・札幌西高・定時制を含めた同窓会があるが、一方、同期会は旧友との交流の場所であり、昔日を思いだしながら、人それぞれに長い人生を歩んできて、積み上げられた大きな物を持っておられると感銘し、互いに気遣い温めあう変わらぬ友情を感じて一服の清涼剤を飲んだような心地がしたのである。

出欠はがきに、「ちょっと一言」という欄があり、近況を書くようになっていたので、胆振東部地震の直後に当地で大聖会が開かれ、多忙だったと証を記入したが、嘗ての紅顔の少年達も今は米寿を迎え、老春を謳歌する元気な方あり、一方、ご自身またはご家族に病の方あり、それぞれの思いを包まずに記してあった。

開催当日は記念撮影から始まって、配布されたプログラムに從ってスピーチや余興など幹事さんの巧みな司会により粛々と二時間に亘り進行し、最後は皆さん互いの健康と幸せを願って「万歳三唱」で終わったが、「ハレルヤ!」と叫びたい気分であった。

この度はこういうことで外出と相成ったが、福音を証するためには、家に留まっていてはならない。外に出ることだと思う。人に接し、何らかの接点を得る必要がある。お互いに心の琴線に触れあう所から始めれば良いのかなと思う。そこから「ハレルヤ」が始まり、救いに進むのだと思う。何事も主と偕に進もうと祈りつゝ。ハレルヤ!






バプテスマのヨハネは語った。

『我は汝らの悔改のために水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力あり、我はその鞋をとるにも足らず、彼は聖靈と火とにてバプテスマを施さん」
 マタイ3:11

この預言が成就するのは、主イエスが我らの罪のために十字架に磔り、死にてのち甦り、天に挙げられて後の五旬節の日であった。

五旬節の日となり、彼らみな一處に集ひ居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響、にはかに天より起りて、その坐する所の家に満ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて各人のうへに止まる。彼らみな聖靈にて満され、御靈の宣べしむるままに異邦の言にて語りはじむ。
 使徒2:1~4

時に敬虔なユダヤ人が天下の国々から来てエルサレムに住んでいたが、この音を聞いて来てみると、群衆はおのおの己が國語で使徒たちが神の大なる御業を語るのを聞いたのである。

驚き、惑う彼らにペテロは、ヨエルの預言を引いて「末の世に至りて、我が靈を凡ての人に注がん…」と語り、主イエス・キリストの福音を告げ、更に「イエスは神の右に挙げられ、約束の聖靈を父より受けて汝らの見聞する此のものを注ぎ給ひしなり」と語ったのである。 

「見聞する此のもの」とは何か、聖霊を受けた時に徴として語らされる「異言」の事である。

聖書を読むと、受霊の唯一の徴は「異言」であると明記している。下記の2聖句を見よ。 


ペテロ尚これらの言を語りをる間に、聖霊、御言をきく凡ての者に降りたまふ。ペテロと共に來りし
割礼ある信者は、異邦人にも聖霊の賜物のそそがれしに驚けり。そは彼らが異言をかたり、神を崇むるを聞きたるに因る。 
使徒10:44~46 

パウロ手を彼らの上に按きしとき、聖霊その上に臨みたれば、彼ら異言を語り、かつ預言せり。 
同19:6

聖霊のバプテスマを受ける事はキリストを信ずる者にとって必須条件である。何とならば、「キリストの御霊なき者はキリストに属する者にあらず」 ロマ8:9 である。

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今日の安息日礼拝をもって一人の兄弟を送り出した。

細かな話はさて置き、高齢になり、他県に住む御子息の許へ行くことになったのである。

人は心に己の途を考へはかる されどその歩履(あゆみ)を導くものはヱホバなり 
箴言16:9

神様が定めた時が来たと思い、御旨に從い、移転することになったのである。

幸いに移転先にはイエス之御霊教会があり、委ねることができるのは感謝なことである。

以前にも同様に長い信仰歴の姉妹を送り出したことがあるが、高齢化時代を迎えた今日身の振り方を考えねばならぬことは誰しもあることと思う。

高齢になってからの転地は、習慣の違いなどあって難しからうが、「郷に入れば郷に從え」の諺の如くであり、何よりも新しい地でご子息も誘って教会に通い、牧師先生のご指導に從い、信仰生活に励んでいただきたいと切に願い祈るのである。

長い間教会に通ってくださり、共に祈り、讃美をリクエストすると一番先に「何番」と答え、御言葉に從って歩んでくださった兄弟である。主が新たなる祝福を以て導いてくださるように願う。 

汝は年邁みて老たるが尚取るべき地の残れる者甚だおほし 
ヨシュア記13:1


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共に食事の席に著きたまふ時、パンを取りて祝し、擘(さ)きて與へ給へば、彼らの目開けてイエスなるを認む、而してイエス見えずなり給ふ。かれら互に言ふ『途にて我らと語り我らに聖書を説明し給へるとき、我らの心、内に燃えしならずや』  ルカ24:30~34

主イエス・キリストが復活された一週の初の日に、主の御使いが先ずマグダラのマリヤに現れ、次いで他の女たちに現れて主の甦り給いしことを告げ、その後主御自身がマグダラのマリヤに現れ給うた。

その日の午後、主はエマオ途上で、主の甦りのことを訝しげに語り合いつつ歩む二人の弟子に近づき現れ給うた。然し彼らの目は遮られてイエスたるを認めることができなかった。

主が彼らに「歩みつつ互に何を語りあっているのか」と尋ねられた時、返答は「主が復活されたと聞いたが信じられない」という言葉であった。この二人に対して主は歩きつつ聖書の預言を挙げて懇懇と説き示し給うたのである。

遂にエマオに着き、留らんとして、食事の席についた時、主がパンを取って祝し、擘きて与え給うと、瞬時に彼らの目が開かれ、単に旅の道連れと思っていた人が、さにはあらず主イエス・キリストであった事実を見せられたのである。

私たちも主の聖餐に与ることによって主イエス・キリストに触れ、より深く主を知り、福音の奥義を悟らされるのである。

そこで二人はエルサレムへ急遽帰りみれば、十一弟子や共なる人々が「主は実に甦り、シモンに現れられた」と喜びの真っ最中。二人も証して今道にてありし事柄と、パンを擘き給うによりてイエスを認めし事とを述べた。

そこに主イエスが忽然として現れ、すっくと中に立ち「平安なんぢらにあれ」と言い給うた。

霊をみているのではないかと恐れる弟子たちに、主は「我が手わが足を見よ、これ我なり。我を撫でて見よ、靈には肉と骨となし、我にはあり、汝らの見るごとし」と言われたのである。

歓喜と驚愕と不信に包まれた弟子たちを前にして、主は炙りたる魚一切れを食し給うたのである。

何と不思議な主のお体であろうか。これこそ、永遠に活きる「榮光體」である。

パウロは、コリント前書15章35節以下に記して斯く述べた。即ち「死人いかにして甦るべきか、如何なる體をもて來るべきか」と問い、「死人の甦りもまた斯くのごとし。朽つる物にて播かれ、朽ちぬものに甦へらせられ、卑しき物にて播かれ、光榮あるものに甦へらせられ、弱きものにて播かれ、強きものに甦えらせられ、血気の體にて播かれ、靈の體に甦へらせられん。血気の體ある如く、また靈の體あり」と。

我ら水と霊のバプテスマをうけた者は、主と同じく、甦りの日には、血気の體ではなく、靈の體に甦えらせられるのである。 感謝すべきかな、ハレルヤ

されど我らの国籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん 
ピリピ3:20,21

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