道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

 

3 キリストの神たる能力は、生命と敬虔とに係る凡てのものを我らに賜へり。是おのれの榮光と徳とをもて召し給へる者を我ら知るに由りてなり。

4 その榮光と徳とによりて我らに貴き大なる約束を賜へり、これ汝らが世に在る欲の滅亡(ほろび)をのがれ、神の性質に與る者とならん爲なり。

5 この故に励み勉めて汝らの信仰に徳を加へ、徳に知識を、

6、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、

7 敬虔に兄弟の愛を、兄弟の愛に博愛を加へよ。

8 此等のもの汝らの衷にありて弥増すときは、汝等われらの主イエス・キリストを知るに怠ることなく、實を結ばぬこと無きに至らん。

9 此等のものの無きは盲人にして遠く見ること能はず、己が旧き罪を潔められしことを忘れたるなり。

10 この故に兄弟よ、ますます励みて汝らの召されたること、選ばれたることを堅うせよ。若し此等のことを行はば、躓くことなからん。

11 斯くて汝らは我らの主なる救主イエス・キリストの永遠の國に入る恩恵(めぐみ)を豊に與へられん。
                                                ペテロ後1:3~11

主イエス・キリストの直弟子であったシメオン・ペテロ。十二使徒の一人に選ばれ、主はどこに行かれるにもペテロとヤコブ、ヨハネの兄弟を伴ってくださった。それ故に主の一番近くにいて、御言葉を聞き、御業を見ていた人物である。

更に、一章の終りでは、変貌山で主の稜威を拝し、『こは我が愛しむ子なり、我これを悦ぶ』と栄光の中に神の御声を聴いたと証している。

そのペテロが、私たち主によって新たに生まれ、神の実子となり、救いの価値が如何ばかり尊く類なきかを知る者に対し、愈々主に近づき、キリストの御形が我が中になるまで追い求めるべきだと勧めている。

キリストの神たる能力は、生命と敬虔とに係る凡てのものを私たちに与えてくださった。これは人には為し得ぬことである。


主は栄光を受くべき唯一のお方であり、徳については一点の影も無い完全無欠なお方である。このお方が私たちに貴く大なる約束をしてくだっさった。即ち永遠の生命を与えるという約束である。

水と霊との全き救いを頂いた者は皆、この約束に与ることができる。その保証を受けているからである。

ただ、注意すべきことは、この世にある欲に囚われてはならない、それは主から目を離すことであり、堕落への道に繋がる。

主が私たちの贖いのために十字架にかかり、御血を流してくださったのだから、神を喜ばせることに心を用い、神の性質に与ることが大切である。

具体的には信仰から始って、徳を加え、更に徳に知識を、知識に節制を、節制に忍耐を、忍耐に敬虔を、敬遠に兄弟の愛を、兄弟の愛を拡げて博愛へと、階段を登るように、前向きに勉めて怠らず、益々励んで召されたること、選ばれたる事を堅うせよ、イエス様を見上げて進めよと励ましている。

その先には救い主イエス・キリストの永遠の国に入る恵みがあるからだ。

ペテロは、殉教の死が近いと示されていた。だが、主の再臨と聖徒の復活の日を思うとき、善き備えを為せよと後に続く者たちへ何くれとなく言い遺し、勧める必要を感じていたのである。



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斯てモーセ モアブの平野よりネボ山にのぼりエリコに対するピスガの巓(いただき)にいたりければ  ヱホバ之にギレアデの全地をダンまで見(しめ)し 南の地と棕櫚の邑(まち)なるエリコの谷の原をゾアルまで見したまへり 而してヱホバかれに言たまひけるは 我アブラハム、イサク、ヤコブにむかひ 之を汝の子孫にあたへんと言て誓ひたりし地は是なり 我なんぢをして之を汝の目に観ることを得せしむ 然ど汝は彼処に済りゆくことを得ずと  申命記34:1~4

6月21日は、夏至の日だった。(今年は気温が上がらず、夕方以降はストーブを点けたり消したりしている。)

そういうなか日中外出の途次、数年振りに「さっぽろテレビ塔」(147.2m)に昇った。エレベーターを3階で乗り換えて地上90.38mの展望台へ。

眼下に人口196万人の大都市「札幌」の眺望が広がる。観光パンフレットでお馴染みの西方向の山並みをバックにした風景を始め、思いのまま360度見渡せる。明治2年(1869)に開拓使が「札幌本府」の街づくりをした時に、丁度この辺り(南1条通と創成川)を基点に定めて、東西南北に区画したという。歴史的な意味合いも含めて正に絶好のビューポイントである。

初めて昇ったときは、札幌の人々が救われますように祈った。この度も同じく祈り心になった。

そして「教会はどの辺りかな?」と目で探したのだが・・・。市民なら「自分の家はどこかな?」と同じような気持ちになるのではなかろうかと・・・。


神の人モーセは、120歳の人生の最後にピスガの巓に立って、ヨルダン川を挟んだ対岸を見せていただいた。そこは主がアブラハムに対しイスラエルの子孫に与えると約束された地であった。モーセはカナンの地へ入ることを許されず、後継者ヨシュアに全てを委ねていった。

モーセとイスラエルの民は、エジプトのラメセス出発した後、40年間に41カ所を巡って営を張り、ヨルダンに着いたとある。
 民数記略33章

7番目の宿営地であるシンの荒野では、パンが無いと呟きが出たが、主なる神はマナを天より降らせてくださり、以後カナンの地に住むまで絶えることがなかった。

10番目のレピデムと、32番目のカデシのチンの荒野では、飲む水がないと言って民はモーセと争った。前者では、主が「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたは岩を打ちなさい。水がそこから出て、民はそれを飲むことができる」と言われ、モーセはそのようにした。(出エジプト17;1~7参照)然し後者では、主が「岩に命じ水を出させなさい」と言われたにもかかわらず、モーセは杖で岩を二度打った。水がたくさんわき出たのである。しかし主はモーセとアロンに、「あなたがたはわたしを信じないでイスラエルの人人の前にわたしの聖なることを現さなかったから、この会衆をわたしが彼らに与えた地に導き入れることができない」と言われた。(民数記略20:2~13参照) それ故、これをメリバ(争論)の水という。

岩とは、イエス・キリストであり、打たれるとは十字架であり、出た水とは生命の水である聖霊である。主は私たちの罪のためにただ一度十字に架り贖罪を為してくださった。完全な救いである。神のみが聖なることを現わされたのである。二度も打たれて十字架に架ると云うことは無いのである。


それから間もなくカデシを発ち、エドムの国の界なるホル山に営を張ったが、主の命によってアロンはホル山に登り、123歳で死んだ。エジプトを出て40年目の5月のことである。

モーセはその後、イスラエルの民に主の聖言を語り伝えてから、その年の中にピスガの巓に登り、120歳で死んだ。その目は朦(かす)まずその氣力は衰へざりきとある。 
申命記34:7


旅人の接待を忘るな、或人これに由り、知らずして御使を舎したり。 
                                                                                          へブル13:2

マムレの樫の木の傍らでアブラハムは昼の暑いころ天幕の入口に坐していた。目を上げて見ると、三人の人が彼に向って立っていた。
彼は走り出て迎え、地に身を屈めて言った。
「我が主よ 我若し汝の目のまへに恩(めぐみ)を得たるならば 請ふ僕を通り過すなかれ」と。
 創世記18章

彼は、旅人のために水を取ってこさせ、足を洗い、木陰に休ませ、妻のサラに言ってパンを焼かせ、自らは牛の群れに行き子牛の柔らかく良きものを選んで、若者に渡して調理させ、牛酪と牛乳と子牛の肉料理をもって、三人に御馳走したのである。

アブラハムは彼らの食事中かたわらに立って給仕した。その時の様子は、こうであった。

 
9 彼等はアブラハムに言った、「あなたの妻サラはどこにおられますか」。彼は言った、「天幕の中です」。
10 その一人が言った、「来年の春、わたしはかならずあなたの所に帰ってきましょう。その時、あなたの妻サラには男の子が生まれているでしょう」。サラはうしろの方の天幕の入口で聞いていた。
11 さてアブラハムとサラとは年がすすみ、老人となり、サラは女の月のものが、すでに止まっていた。
12 それでサラは心の中で笑って言った、「わたしは衰え、主人もまた老人であるのに、どうして子を産むことなどありえようか」。

13 主はアブラハムに言われた、「なぜサラは、わたしは老人であるのに、どうして子を産むことができようかと言って笑ったのか。
14 主にとって不可能なことがありましょうか、来年の春、定めの時に、わたしはあなたの所に帰ってきます。そのときサラには男の子が生まれているでしょう」。
15 サラは恐れたので、これを打ち消して言った、「わたしは笑いません」。主は言われた、「いや、あなたは笑いました」。
                               口語訳 創18:9~15

聖書には、サラのように子供になかなか恵まれない婦人のことが記されている。エルカナの妻ハンナやザカリヤの妻エリサベツがそうであった。子供は天からの授かりものと言う。夢や幻で子が与えられると告げられることもある。

幸いにもハンナは、「男の子を授けていただければ一生の間、神に献げます」という祈りが応えられてサムエルが生まれた。
エリサベツは、洗礼者の母となるべく、主が夫ザカリヤに預言し、約束し、時を与えてヨハネが生まれた。

アブラハムとサラは齢が邁(すゝ)み、99歳と89歳になっていた。だが、どれほど老いていたにしても、この二人からイスラエルの子孫が生まれることは、神が定めたことであった。サラはそのようなことは在り得ないと思って心のうちで哂(わら)った。主から不信仰な心を見抜かれたが、然し、神の言い給いしことは必ず成っていくのである。

主は言われた。「我爲んとする事をアブラハムに隠すべけんや アブラハムは必ず大なる強き国民となりて天下の民皆彼に由て福(さいはひ)を獲(うる)に至るべきに在ずや 其は我彼をして其後の児孫(こどもら)と家族とに命じヱホバの道を守りて公儀(ただしき)と公道(おほやけ)を行しめん為に彼をしれり」と。
 創18:18,19

14 シオンの女(むすめ)よ歓喜(よろこび)の聲を擧(あげ)よ イスラエルよ樂(たのし)み呼はれ エルサレムの女よ心のかぎり喜び樂め

15 ヱホバすでに汝の鞫(さばき)を止め 汝の敵を逐はらひたまへり イスラエルの王ヱホバ汝の中にいます 汝はかさねて災禍(わざはひ)にあふことあらじ

16 その日にはエルサレムに向ひて言(いふ)あらん 懼るゝなかれシオンよ 汝の手をしなへ垂れるゝなかれと

17 なんぢの神ヱホバなんぢの中にいます 彼は拯救(すくひ)を施す勇士(ますらを)なり 彼なんぢのために喜び樂み 愛の餘(あま)りに黙し 汝のために喜びて呼はりたまふ    

                               ゼパニヤ3:14~17

14 シオンの娘よ、喜び歌え。
   イスラエルよ、喜び呼ばわれ。
   エルサレムの娘よ、心のかぎり喜び楽しめ。
15 主はあなたを訴える者を取り去り、
   あなたの敵を追い払われた。
   イスラエルの王なる主はあなたのうちにいます。
   あなたはもはや災を恐れることはない。
16 その日、人々はエルサレムに向って言う、
   「シオンよ、恐れるな。
   あなたの手を弱々しくたれるな。
17 あなたの神、主はあなたのうちにいまし、
   勇士であって、勝利を与えられる。
   彼はあなたのために喜び楽しみ、
   その愛によってあなたを新たにし、
   祭の日のようにあなたのために喜び呼ばわれる」。

                               口語訳 ゼパニヤ3:14~17  

主なる神、イエス・キリストの御霊を中に持つ者は幸いだ。
神の実子となり、アバ父よと呼ぶことができる。
たとえ困苦艱難の世にあろうとも、
主が中に在ませば懼るゝに足らぬ。
勝利は我らと共にあり、ハレルヤと歌おう!



詩篇第37篇  ダビデのうた

悪をなすものの故をもて心をなやめ 不義をおこなふ者にむかひて嫉(ねたみ)をおこすなかれ
かれらはやがて草のごとくかりとられて青菜のごとく打萎るべければなり
ヱホバによりたのみて全をおこなへこの國にとゞまり眞實(まこと)をもて糧とせよ

16 義人のもてるもののすくなきは 多くの悪しきものの豊かなるにまされり
17 そは悪しきものの臂(かひな)はをらるれど ヱホバは義きものを扶持(たすけさゝへ)たまへばなり
18 ヱホバは完全(まったき)もののもろもろの日をしりたまふ かれの嗣業(ゆづり)はかぎりなく久しかるらん
19 かれらは禍害(わざはひ)にあふとき愧(はぢ)をおはず 饑饉(うゑどし)の日にもあくことを得ん
                                       
23 人のあゆみはヱホバによりて定めらる そのゆく途をヱホバよろこびたまへり
24 (たと)ひその人たふるゝことありとも全くうちふせらゝことなし ヱホバかれが手をたすけ支へたまへばなり
25 われむかし年わかくして今おいたれど 義者のすてられ或はその裔の糧こひありくを見しことなし

詩篇37篇は、ダビデ王が正しき者の幸いに就いて記している。

また、正しき者と悪しき者の命運を比べて記している。
なぜ、この世に悪しき者が多くいて蔓延るのか、なぜ栄えるのか、矛盾のようにさえ思えるときがある。
ダビデも同じく苦難を体験した。サウルに追い回され、何度も危機に遭った。何故にこのような目に遭うのかしばしば思ったことであろう。
しかし、最後には勝利した。それは自分の手にはよらず、神の手によってであった。

正しき者は国をつぐが、悪しき者は絶滅されるとダビデは重ねて記している。
 
(9,22,28, 34, 38節)

     ♪ 悪しきものの謀略(はかりごと)にあゆまず
      罪人の途にたたず
      嘲るものの座にすわらぬ者は さいわいなり
      かかる人は主の法をよろこびて
      日(ひる)も夜もこれをおもう
      かかる人は水流(ながれ)のほとりにうえし樹の
      期(とき)にいたりて実をむすび
      葉もまた凋(しぼ)まざるごとく
      その作(なす)ところ皆さかえん
      その作ところ皆さかえん
      ハレルヤ主よ汝の泉は涸れ(かれ)
      永遠(とこしへ)までも湧き溢る 湧き溢る ♪  
                   霊讃歌140番 教 訓 (詩第一篇)



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