Img006_4  霊讃歌25番 主の酒杯

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『わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が心の儘にとにはあらず、御意のままに為し給へ』 ーマタイ伝26:39ー

主イエス・キリストは我らの罪の贖いのために身を献げんとて、ゲッセマネの園で汗を血の雫のように流して祈られた。

イザヤ書53章には、主イエス・キリストの十字架の死が預言されている。

かれは虐待と審判とによりて取去られたり その代の人のうち誰か彼が活るものの地より絶れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり -8節-

また、主イエス御自身もこれを預言し、主を十字架に釘付けする事に組した大祭司カヤパさえも次のように預言している。

『視よ、我らエルサレムに上る。人の子は祭司長・学者らに付されん。彼ら之を死に定め、また嘲弄し、鞭ち、十字架につけん爲に異邦人に付さん、斯くて三日目に甦るべし』 -マタイ伝20:17~19- 主イエス・キリストの預言

『なんぢら何をも知らず、ひとりの人、民のために死にて、國人すべての滅びぬは、汝らの益なるを思はぬなり』 これは己より云へるに非ず、この年の大祭司なれば、イエスの國人のため、又ただに國人の爲のみならず、散りたる神の子を一つに集めん爲に死に給ふことを預言したるなり。 -ヨハネ伝11:49~53- カヤパの預言とヨハネの解説

救いの御業は、主イエス・キリストの外、何人も為し得ない。またその資格もない。正に救いは、主のお独り舞台である。

たれ一人おのが兄弟をあがなふことあたはず 之がために贖價(あがなひしろ)を神にさゝげ 之をとこしへに生存へしめて朽ざらしむることあたはず  ( 霊魂(たましひ)をあがなふには費いとおほくして 此事をとこしへに捨置ざるを得ざればなり)  ー詩篇49:7~9ー

ヱホバは人なきをみ 中保(なかだち)なきを奇しみたまへり 斯くてその臂(かひな)をもてみづから助け その義をもてみづから支へたまへり  ーイザヤ書59:16ー

十字架まで從える者は一人もいなかった。ペテロでさえ主の弟子であることを否んだ。

主はピラトに、我が国はこの世のものならずと言い、真理について証せんために世に来たと言われた。

極悪人バラバに代わって死刑の判決を受けた。同時に罪ある全ての人の為である。

苦痛の十字架上にあって、母と愛する弟子を見、母には、

『をんなよ、視よ、なんぢの子なり』

と言い、弟子には、

『視よ、なんぢの母なり』

と言って跡を託された。その優しさよ。

相共に十字架に掛けられた罪人の

イエスよ、御國に入り給ふとき、我を憶へ給へ』

との信仰の叫びに

『今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし』  -ルカ伝23:42,43-

と約束された。

十字架上で最後の言葉は 、

『事畢りぬ』  ーヨハネ伝19:30ー

であった。人としての主は、御旨を全うされたのである。 

我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。 -ガラテヤ書2:20-

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聖餐式

キリストも汝らの爲に苦難をうけ、汝らをその足跡に随はしめんとて模範を遺し給へるなり。彼は告藻を犯さず、その口に虚偽なく、また罵られて罵らず、苦しめられて脅かさず、正しく審きたまふ者に己を委ね、木の上に懸りて、みづから我等の罪を己が身に負ひ給へり。これ我らが罪に就きて死に、義に就きて生きん爲なり。汝らは彼の傷によりて癒されたり。  -ペテロ前書2:21~24-