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人もし死ば また生んや ーヨブ記14:14ー

とヨブは、我らに問かけている。

或る人々は、人は死んだらそれで終わりと思っている。だから面白可笑しく生きて、ハイ、さようならと、太く短く人生を過ごせば良いのだ考えている。果たしてそうだろうか。

ヨブの次の言葉に耳を傾けよう。

われ知る 我を贖ふ者は活く 後の日に彼かならず地の上に立ん わがこの皮この身の朽はてん後 われ肉を離れて神を見ん 我みづから彼を見たてまつらん 我目かれを見んに識らぬ者のごとくならじ 我が心これを望みて焦る   -ヨブ記19:25~27-

ヨブは、大変な病苦と試練の中で、やがて贖い主であるイエス・キリストが来られ、自分が主の御前に立つ日が来る。故に己の身がたとえ朽ち果てようとも、復活した新しい栄光體を頂き、その目を以って主を拝することができると希望を持っていたのである。これこそ復活を待ち望む信仰である。

神に対して永遠の生命を求めることこそ、人間の最大の所領となる。世の富も光榮もそれに比べれば塵灰に等しいものだ。

ラザロが死んだ時、主はマルタとマリヤを訪ね、『汝の兄弟は甦るべし』 と言われた。マルタが 『終りの日、復活の日に甦るべきを知る』 と言うと、主は、

『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか』 と言われた。-ヨハネ伝11:25,26-

そして、墓の中に眠るラザロに対し、一声高く 『ラザロよ出で来たれ』 と命じて、死人の中から甦らせたのである。

コリント前書15章は「福音の章」であり、また「復活の章」である。茲には、まづキリストの復活があり、次いでキリストに属する聖徒の復活があると記してある。即ち我ら真の教会に連なる者の事である。

視よ、われ汝らに奥義を告げん、我らは悉く眠るにはあらず、終りのラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパの鳴りて死人は朽ちぬ者に甦り、我らは化するなり。 -51,52節-

主の再臨の日は、信仰によりて善を為せし聖徒にとって生命に甦る日であり、肉体の贖われる日である。而してその運命は、

彼らは生きかへりて千年の間キリストと共に王となれり。(その外の死人は千年の終るまで生かへらざりき) これは第一の復活なり。幸福なるかな、聖なるかな、第一の復活に干る人。この人々に對して第二の死は権威を有たず、彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年のあひだ王たるべし。 ーヨハネ黙示録20:4~7ー

汝ら之を怪しむな。墓にある者みな神の子の声をききて出づる時きたらん。善をなしし者は生命に甦り、悪を行ひし者は審判に甦へるべし。-ヨハネ伝5:28,29-

今や我等は、その日のために予め救いの保証を戴いた。即ち聖霊の賜物である。これは奥義である。

此の奥義は汝らの中に在すキリストにして榮光の望なり。-コロサイ書1:27-

汝らと共に我らをキリストに堅くし、且われらに御霊を給ひし者は神なり。神はまた我らに印し、保証として御霊を我らの心に賜ヘリ。-コリント後1:21,22-

我らを此の事に適ふものとなし、その證として御霊を賜いひし者は神なり。ー同5:5ー

汝らもキリストに在りて真の言、すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これは我らが受くべき嗣業の保証にして、神に属けるものの贖はれ、かつ神の榮光に誉あらん爲なり。 -エペソ書1:13,14-

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聖餐式

コリント前書11:23~26