● エゼキエル書47章1~12節

彼われに言ひけるは 人の子よ汝これを見とめたるや(6節)

凡そ此河の往ところには諸(もろもろ)の動くところの生物みな生ん 又甚だ衆多(おほく)の魚あるべし 此水到るところにて醫(いや)すことをなせばなり 此河のいたる處にては物みな生べきなり (9節)

カルデヤ人の地に捕囚の身になっていた祭司エゼキエルに主の御手が臨んだ。神は異象の中に彼をイスラエルの地へ携えて行き、高い山の上に降ろされた。彼が見るとそこに一つの邑(まち)が建っていた。そして手に麻縄と間竿を持った人(御使い)が門前に立っていた。(同書40:1~4)

御使いは彼を案内して邑に導き入れ、手にした間竿をもって門や建物を測って行った。その邑は四方形で、東西南北に門があった。 その内側には神殿や廊間、脇間そして方形の至聖所が設けられていた。

御使いは彼を携えて東に向う門に到った。すると神の栄光が東より顕われ、東向きの門より来たって室内に充ちた。(43:1~4)

暫くあって御使いが彼を東向きの門に連れかえると門は閉じていた。そして主が言われるには 『 此門は閉おくべし 開くべからず 此よりは誰も入るべからず イスラエルの神ヱホバ此より入りたれば是は閉おくべきなり 』 と、人の出入りが許されぬ門になっていた。(44:1,2)斯て外壁に面する東向きの門は特別な存在となった。

内庭にも東向きの門があった。ここは普段は閉じていて、安息日と新月に開かれて礼拝の場所となっていた。君主は門の敷居で礼拝し、民は門の入り口で礼拝した。彼らは北門(または南門)から入ってを礼拝し、反対側の門から出て行く定めがあった。(46:1~10)

概略の説明を終えたので、47章の本題に入ろう。

御使いは彼を内庭の東に向う門の所に連れてきた。すると彼は神殿の敷居の下から水が湧き上がって東の方へ流れているのを見た。その水は神殿の右の方より出でて祭壇の南側から流れていた。 そこで御使いは彼を北の門から外壁伝いに東門の所まで連れてきた。すると彼はそこで驚くべきものを見た。先ほどの水が恰も外壁を貫くが如く、門の右側から流れ出ているではないか。

御使いは東に向って進み測り縄を以って1000キュビトを測り、彼に水に入らせたところ水は踝骨(くるぶし)に及んだ。更に1000行くと膝に及び、また1000行くと腰に達し、更にまた1000行くと最早渉ることができない河となり、泳ぐほどの水嵩となった。この河の水量は一体どこから来たというのだろう。支流の水を集めたのだろうか。否そのようなものは無い。この水はただ神殿の中のただ一点、即ち神の栄光が輝いた所、礼拝が行われている処から湧き出た水であるということだ。神の恵みと祝福は恰もこの水の如く我らを満たすものである。

御使いは彼に言った。 『 人の子よ 汝これを見とめたるや と。

我らの救いは、主イエス・キリスト以外の何者からも来ない。

他の者によりては救を得ることなし、天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり (使徒行傳4:12)

これ河は 『 生命の水の河 』 である。この川沿いには多くの樹木が育ち、月々新しい果を結ばせ、その葉は枯れず、薬となる。また多くの魚が群れをなして泳ぎ、海に注げば海の水さえも醫える。なぜか?その水が凡てを生かす水で、神の聖所から出ている故である。

● ヨハネ黙示録22章1~5節 で、ヨハネはエゼキエルが見たのと同様な黙示を見た。

御使また水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊との御座より出でて都の大路の眞中を流る。河の左右に生命の樹ありて十二種の實を結び、その實は月毎に生じ、その葉は諸国の民を醫すなり・・・・

今我らの置かれている新約の時代において 『 生命の水 』 とは何であろうか。 主イエス・キリストが言い給うた聖霊、即ちイエスの御霊を受けることである。

イエス答えて言ひ給ふ 『 すべて此の水を飲む者は、また渇かん。然れど我があたふる水を飲む者は、永遠に渇くことなし。わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいづべし 』 (ヨハネ傳4:13)

『 人もし渇かば我に来たりて飲め。我を信ずる者は聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし 』 これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。 (ヨハネ傳7:37~39)

渇く者はきたれ、望む者は價(あたひ)なくして生命の水を受けよ。 (ヨハネ黙示録20:17)  

聖餐式

● ヨハネ傳6:47~58

今週の証 小樽港に着いたロシア船の船員から教会へ行きたいと電話がありました。車で迎えに行き、3人の兄弟方が教会で水と霊のバプテスマを受けて救われました。感謝です。救いの御業が続きますように!