● テモテ後書4章2節

なんじ御言を宣伝へよ、機を得るも機を得ざるも常に励め。

● コリント前書9章16,17節

われ福音を宣伝ふとも誇るべき所なし、已むを得ざるなり。もし福音を宣伝へずば、我は禍害(わざはひ)なるかな。

● 使徒行傳18章24節~19章7節

『 なんぢら信者となりしとき聖霊を受けしか 』

 北海道にも遅い春の訪れと共に花が咲き、鳥が舞い、色々なものがやって来ました。

昨日の午後、教会の前庭に出ていると 「イエス・キリストは救い主です」 と大音量を響かせて車が徐行しながら近づいて来ました。

あの車の主に真の福音を伝えようと思い、私は近づいてきた車に合図をした。彼は了解して安全な場所を選んで車を停め、運転席の窓を開け顔を見せた。初老の兄弟だった。

車体には 「 イエス・キリストは 道 真理 命 」 とあり 、大きく 「 聖書 」 と書かれていた。

「こんにちは。 私は、教会の牧師ですが、どちらから来られたのですか?」

ー 彼は、スピーカーをオフにした。マイクで呼びかけているものだとばかり思っていたが、そうではなく、テープかCD が音源だった。尤も運転上その方が安全だろうと納得。

「東北からです。数人のグループで全国を回っています。この車がホテルなんですよ」

と、にこっと笑ってカーテンで仕切られた後部座席の方を振り返った。

ー なるほど、それではしばれのきつい北海道に、冬は来れないわけですね。

「ほう、それで何と言う教会ですか?」

「教会ではなく、聖書の配布協力会です。イエス・キリストの物語を書いた冊子や文書を学校の前で子どもたちに配ったり、こうして放送をして歩いているんですよ」

「それで、信仰したいという人がいたらどうするんですか?」

「私たちの所には教会がないから、そういう人には自分の家の近くの教会に行ってもらっています。まあ、私たちは種まきだけやっていて、あとは神様にお任せしています。直ぐに教会に行かなくても何十年か経ってから行く人もいますからね」

「なるほど、或る人は播き、或る人は刈るというわけですね」

「そうです。それと、こうやって回る外に、街角に聖書の言葉を書いた看板を掛けさせてもらっています。そういう係りもいましてね」

(黒い下地の板に白い文字で書かれた 〔死後 審きを受ける〕 などという看板を思い浮かべる・・・)

「ああ、よく見かけますよ」

「私は全国あちらこちら回っていますが、教会の側を通っても、皆さん私たちのしていることには無関心を装っているようで、あなたのように声をかけてくる人は誰もいませんよ

( 神様のチャンス到来 ! )

「そうですか。ところで 《水と霊》 というのをご存知ですか?

「何ですか。それは?」

「イエス様が、ヨハネ傳3章5節で仰っている洗礼と聖霊のバプテスマのことですよ」

「ああ、洗礼なら若い時に受けました。聖霊も受けています」

「では、聖霊を受けたとき、異言を語りましたか?」

ー 彼は、一瞬きっとなって反論した。

「そういうことはないけれど、イエスを言い表しているのだから聖霊を受けていると思いますよ」

ー ヨハネ第一書4章2,3節をそのように解釈し、説く教会もある。 いや、殆どがそうだろう。旧きパン種なる間違った教理・神学は、人を聖書の教から引き離し、真の救いから遠避けてしまうものなのだ。

ー そこで、私は聖霊を受けるということはどういうことなのかを聖書に基づいて話し、聖霊を受けた徴は異言であることを証した。幸にも主は彼の心を開いてくださり、彼は私の勧めに従って聖霊を受けることに同意してくれた。 私は彼の肩に手を按き、聖霊待望会をした。 

「聖霊を受けるには、始めにハレルヤと言ってお祈りしてください。ハレルヤ、ハレルヤ・・・」

「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ・・・・・・・・・」

ー 15分くらい祈っただろうか。 急に彼の祈りに力が篭ってきた。ハレルヤの祈りから、舌が縺れて異言に変わった。それから更に5分くらい祈った。

このゆえに神あだし唇と異なる舌とをもてこの民にかたりたまはん さきにかれらに言たまひけるは此は安息(やすみ)なり 疲困者(つかれたるもの)にやすみをあたへよ 此は安慰(なぐさめ)なりと -イザヤ書28章11,12節-

イエスは神の右に挙げられ、約束の聖霊を父より受けて 汝らの見聞きする此のものを注ぎ給ひしなり。 ー使徒行傳2章33節ー

「兄弟、聖霊を受けましたよ ! 」

ー 兄弟は喜んでくださった。この次遇うのは何時か分らないが、また次のステップに進むことを切望する。 主の御手に凡てを委ね、互いに祝福の言葉を掛け合って別れた。

この出会いを与えてくださった神に感謝する。

聖餐式

● ヨハネ傳6章47~58節