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神は我等を新約の役者(えきしゃ)となるに足らしめ給へり、儀文の役者にあらず、霊の役者なり。そは儀文は殺し、霊は活せばなり。 -コリント後3:6-

主は即ち御霊なり、主の御霊のある所には自由あり。 -同3:17-

コリント後書3章には、旧約の役者と新約の役者、即ち儀文の役者と霊の役者とが対比して記されている。

旧約の役者として取り上げているのが、モーセである。出エジプト記34:29~35には概略次のように記されている。

モーセが律法の板2枚を手に執ってシナイ山から下りた時、アロンとイスラエルの民はモーセの顔が光を放っているのを見て恐れて近づかなかった。モーセは彼らを呼び寄せ、神がシナイ山で己に告げられたことを語った。語り終えるとモーセは自分の顔に面帕(かおおおい)をかけて覆ったと。

コリント後書3章では、モーセのごとく律法の職に仕える者にも光栄を与えた神は、キリストによって義とされ、霊なる者とされた我等には更に大なる光栄を与えると記している。

御霊を持たぬ人が旧約聖書を読むとき、面帕が掛けられているために恐れがあり、真の意味が分からない。然し御霊を持てる人が読む時には、キリストによって罪赦され、義とされたことを知る故に恐れはなく、むしろ大いなる感謝の念を生ずる。それは主に在って面帕が取り除かれているためである。

我ら御霊を持つ者は、面帕の無い者であり、神を見奉る者である。

再度、記そう。

主は即ち御霊なり、主の御霊のある所には自由あり。我等はみな面帕なくして鏡に映るごとく、主の榮光を見、榮光より榮光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ像(かたち)に化するなり。 -同17,18節-