● 使徒行伝:8章31節
『導く者なくば、いかで悟り得ん』
● 出エジプト記: 第34章22~24節
年に三回汝の男子みな主ヱホバ、イスラエルの神の前に出べし
参照 = 出エジプト記: 第23章14~17節
聖餐式
● コリント前書:第11章23~26節
● 使徒行伝:8章31節
『導く者なくば、いかで悟り得ん』
● 出エジプト記: 第34章22~24節
年に三回汝の男子みな主ヱホバ、イスラエルの神の前に出べし
参照 = 出エジプト記: 第23章14~17節
聖餐式
● コリント前書:第11章23~26節
● 詩篇:第121編1~8節 -S姉宅、近隣の火災から守られ、感謝の証に思う-
ヱホバはなんぢを守りてもろもろの禍害(わざはひ)をまぬかれしめ 並(また)なんぢの靈魂(たましひ)をまもりたまはん
● ダニエル書:第3章24~27節
此人々の身は火もこれを害する力なかりき またその頭の髪は燥(や)けずその衣裳(きもの)は傷ねず 火の臭氣(におい)もこれに付ざりき (27節中程から)
● イザヤ書:第43章1~2節
なんぢ水中をすぐるときは我ともにあらん 河のなかを過るときは水なんぢの上にあふれじ なんぢ火中をゆくとき焚るゝことなく火焔(ほのほ)もまた燃つかじ
● ヨハネ傳:第9章1~41節 =盲目(めしひ)の癒し=
弟子たち問ひて言ふ『ラビ、此の人の盲目にて生まれしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか』 イエス答へ給ふ『この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れん為なり』(2,3節) ・・・・・・『ただ一つの事を知る、即ち我さきに盲目たりしが、今見ゆることを得たる是なり』(25節) ・・・・・・『なんぢ彼を見たり、汝と語る者は夫(それ)なり』(37節)
聖餐式
● コリント前書:第11章23~26節
● ヨハネ傳:第5章39節
汝らは聖書に永遠の生命ありと思ひて之を査ぶ、されどこの聖書は我につきて證するものなり。 =文語訳=
あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。 ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。 =新共同訳=
● イザヤ書:第51章1~2節
なんぢらが斫出(きりいだ)されたる磐となんぢらの掘出されたる穴とをおもひ見よ
● 詩篇:第136編23節
われらが微賤(いやし)かりしときに記念したまへる者にかんしゃせよ その憐憫(あわれみ)はとこしへに絶ゆることなければなり
● イザヤ書:第46章3~4節
なんぢらの年老るまで我はかはらず 白髪(しらが)となるまで我なんぢらを負ん 我つくりたれば檯(もた)ぐべし 我また負ひかつ救はん
● 詩篇:第71編5~9節
われ胎(たい)をはなるゝより汝にまもられ 母の腹にありしときより汝にめぐまれたり 我つねに汝をほめたゝへん
聖餐式
● イザヤ書:第59章16
● 雅歌:第4章16節
北風よ起れ 南風よ來れ 我園を吹きてその香氣を揚げよ ねがはくはわが愛する者のおのが園にいりきたりてその佳き果を食はんことを
● ヨハネ傳:第3章5節
イエス答へ給ふ 『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と靈とによりて生れずば、神の國に入ること能はず。
● イザヤ書:第28章9~13節
このゆゑに神あだし唇と異なる舌とをもてこの民にかたりたまはん さきにかれらに言ひたまひけるは此は安息(やすみ)なり 疲困者(つかれたるもの)にやすみをあたへよ 此は安慰(なげさめ)なりと されど彼らは聞くことをせざりき(11,12節)
聖餐式
● ルカ傳:第22章7~23節