道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2010年04月

使徒時代の信者は皆聖霊を受けた。受霊の徴として異言を語った。受霊者は皆異言をもって祈った。これは昔も今も変わらない事実であり、我らの体験である。 霊なる神が、ご自身の御霊を我らに与えて内に宿り給う。これが「受霊」ということである。 内住された御霊は、我らを用いて祈り、また我らの為に執り成しの祈りをしてくださる。その時、口を突いて語らされる祈りの言葉が異言である。

● ヨハネ傳4章23,24節

真の礼拝者の、霊と真とをもて父を拝する時きたらん、今すでに来たれり。父は斯くのごとく拝する者を求めたまふ。 神は霊なれば、拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり。

● コリント前書14章15節

我は霊をもて祈り、また心をもて祈らん。我は霊をもて謳ひ、また心をもて謳はん。

● ロマ書8章26節

我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御霊みづから言ひ難き歎きをもて執成したまふ。

● エペソ書6章18節

常にさまざまの祈りと願いとをなし、御霊によりて祈り

● ユダ書20節

されど愛する者よ、なんぢらは己が甚潔(いときよ)き信仰の上に徳を建て、聖霊によりて祈り

聖餐式

コリント前書11章23~26節

今週の証 先週に引き続き、救いの御業が為され感謝です。 またお便りやメールを頂き、主が恵み祝しておられることを感謝しています。

S 姉妹は、ライブで歌った歌の音源を YouTube にアップロードしました。 なかなか良いです。 お仕事も祝されますように。 ハレルヤ !

● エゼキエル書47章1~12節

彼われに言ひけるは 人の子よ汝これを見とめたるや(6節)

凡そ此河の往ところには諸(もろもろ)の動くところの生物みな生ん 又甚だ衆多(おほく)の魚あるべし 此水到るところにて醫(いや)すことをなせばなり 此河のいたる處にては物みな生べきなり (9節)

カルデヤ人の地に捕囚の身になっていた祭司エゼキエルに主の御手が臨んだ。神は異象の中に彼をイスラエルの地へ携えて行き、高い山の上に降ろされた。彼が見るとそこに一つの邑(まち)が建っていた。そして手に麻縄と間竿を持った人(御使い)が門前に立っていた。(同書40:1~4)

御使いは彼を案内して邑に導き入れ、手にした間竿をもって門や建物を測って行った。その邑は四方形で、東西南北に門があった。 その内側には神殿や廊間、脇間そして方形の至聖所が設けられていた。

御使いは彼を携えて東に向う門に到った。すると神の栄光が東より顕われ、東向きの門より来たって室内に充ちた。(43:1~4)

暫くあって御使いが彼を東向きの門に連れかえると門は閉じていた。そして主が言われるには 『 此門は閉おくべし 開くべからず 此よりは誰も入るべからず イスラエルの神ヱホバ此より入りたれば是は閉おくべきなり 』 と、人の出入りが許されぬ門になっていた。(44:1,2)斯て外壁に面する東向きの門は特別な存在となった。

内庭にも東向きの門があった。ここは普段は閉じていて、安息日と新月に開かれて礼拝の場所となっていた。君主は門の敷居で礼拝し、民は門の入り口で礼拝した。彼らは北門(または南門)から入ってを礼拝し、反対側の門から出て行く定めがあった。(46:1~10)

概略の説明を終えたので、47章の本題に入ろう。

御使いは彼を内庭の東に向う門の所に連れてきた。すると彼は神殿の敷居の下から水が湧き上がって東の方へ流れているのを見た。その水は神殿の右の方より出でて祭壇の南側から流れていた。 そこで御使いは彼を北の門から外壁伝いに東門の所まで連れてきた。すると彼はそこで驚くべきものを見た。先ほどの水が恰も外壁を貫くが如く、門の右側から流れ出ているではないか。

御使いは東に向って進み測り縄を以って1000キュビトを測り、彼に水に入らせたところ水は踝骨(くるぶし)に及んだ。更に1000行くと膝に及び、また1000行くと腰に達し、更にまた1000行くと最早渉ることができない河となり、泳ぐほどの水嵩となった。この河の水量は一体どこから来たというのだろう。支流の水を集めたのだろうか。否そのようなものは無い。この水はただ神殿の中のただ一点、即ち神の栄光が輝いた所、礼拝が行われている処から湧き出た水であるということだ。神の恵みと祝福は恰もこの水の如く我らを満たすものである。

御使いは彼に言った。 『 人の子よ 汝これを見とめたるや と。

我らの救いは、主イエス・キリスト以外の何者からも来ない。

他の者によりては救を得ることなし、天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり (使徒行傳4:12)

これ河は 『 生命の水の河 』 である。この川沿いには多くの樹木が育ち、月々新しい果を結ばせ、その葉は枯れず、薬となる。また多くの魚が群れをなして泳ぎ、海に注げば海の水さえも醫える。なぜか?その水が凡てを生かす水で、神の聖所から出ている故である。

● ヨハネ黙示録22章1~5節 で、ヨハネはエゼキエルが見たのと同様な黙示を見た。

御使また水晶のごとく透徹れる生命の水の河を我に見せたり。この河は神と羔羊との御座より出でて都の大路の眞中を流る。河の左右に生命の樹ありて十二種の實を結び、その實は月毎に生じ、その葉は諸国の民を醫すなり・・・・

今我らの置かれている新約の時代において 『 生命の水 』 とは何であろうか。 主イエス・キリストが言い給うた聖霊、即ちイエスの御霊を受けることである。

イエス答えて言ひ給ふ 『 すべて此の水を飲む者は、また渇かん。然れど我があたふる水を飲む者は、永遠に渇くことなし。わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいづべし 』 (ヨハネ傳4:13)

『 人もし渇かば我に来たりて飲め。我を信ずる者は聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし 』 これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。 (ヨハネ傳7:37~39)

渇く者はきたれ、望む者は價(あたひ)なくして生命の水を受けよ。 (ヨハネ黙示録20:17)  

聖餐式

● ヨハネ傳6:47~58

今週の証 小樽港に着いたロシア船の船員から教会へ行きたいと電話がありました。車で迎えに行き、3人の兄弟方が教会で水と霊のバプテスマを受けて救われました。感謝です。救いの御業が続きますように!

● ピリピ書 第4章より

何事をも思ひ煩ふな、ただ事ごとに祈をなし、願いをなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。さらば凡て人の思にすぐる神の平安は汝らの心と思いとをキリスト・イエスによりて守らん (6,7節)

凡てを主にお任せし、祈りと讃美の生活をすれば、いつも心に平安が与えられ,主が共にいて下さる。大感謝!

如何なる徳、いかなる譽にても汝等これを念へ。・・・聞きしところ、見し所を皆おこなへ、然らば平和の神、なんぢらと偕に在さん。 (8,9節)

主の御旨に沿った言動をとっていれば恐れなし。神が共にいて下さるのが一番心強い!

我は卑賤(いやしき)にをる道を知り、富にをる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり。我を強くし給ふ者によりて、凡ての事をなし得るなり。 (12,13節)

イスラエルの民は、昼は雲の柱が離れずして導かれ、夜は火の柱が離れずして照らし、行くべき途を示された。善き御霊に教えられ、マナが口に与えられ、水が彼らの喉を潤した。彼らは神に養われ40年の間荒野の旅を続けることができた。その衣服も古びず、その足も腫れなかった。 空の鳥を見よ、野の百合は如何にして育つかをを思え、と宣う主に完全き信仰を寄せる者は恥しめられることはない。 (ネヘミヤ記第9章19~21節、マタイ傳第6章24~34節)

聖餐式

● 申命記 第21章22,23節

人もし死にあたる罪を犯して死刑(しおき)に遇うことありて 汝これを木に懸て曝すときは、翌朝までその體(からだ)を木の上に留めおくべからず 必ずこれをその日の中に埋むべし 其は木に懸らるゝ者はヱホバに詛はるゝ者なればなり・・・

● ガラテヤ書 第3章13,14節

キリストは我等のために詛はるる者となりて律法の詛より我らを贖ひ出し給へり。 録して『木に懸けらるゝ者は凡て詛はるべし』と云へばなり。 これアブラハムの受けたる祝福のイエス・キリストによりて異邦人におよび、且われらが信仰に由りて約束の御霊を受けん為なり。

主の十字架なかりせば、我らの罪は赦されず、御霊のバプテスマに与ることはない。ただ恩寵あるのみ!

今週の証 ①  S姉妹は、ご主人の転勤により、日高の静内に住まわれることになったので、備えられたマンションの部屋の聖別祭、感謝祭、祝福祭に行きました。途中の道筋はサラブレッドの生産地だけあって、牧場が続き、放牧された駿馬たちが昨秋名残の枯れ草を黙々と食み(ちょっと可哀相、いや逞しい)、寄り添う仔馬の可愛い姿も見えました。春の到来が待たれるところです。 姉妹から教会までは距離が遠くはなりましたが、2週に1度は安息日礼拝に通いますとの力強い言葉で、ハレルヤ。 エルサレムを愛する者は栄ゆべし!

その ②  港での伝道で、久し振りにフリピン人の兄弟2人が教会に導かれ、水と霊のバプテスマを受けました。『人は水と霊とによりて生まれずば、神の国に入ること能はず』 感謝です。

列王紀略上 第3章5節

我何を汝に與ふべきか 汝求めよ

新学期を迎えました。 入学する子、進学する子, それぞれ希望に胸を膨らませて未知の世界に進んで行きます。 ソロモンも年若くして王位を継ぎました。主が彼に臨み、何を求めるかと尋ねた時、彼は神の民を治めるに必要な才知を求めました。これは神の御旨に適い、神に喜ばれて、才知のみでなく、彼が求めなかった富も貴きも長寿も与えるとのお言葉を戴きました。 子どもたちも、主に祝福されて、賢く健やかに成長して欲しいと願います。

● 詩篇 第121篇(全篇)

ヱホバは今よりとこしへにいたるまで  汝のいづると入るとをまもりたまはん

 デサービスセンターを開設された姉妹。 購入した介護用の車に乗って教会に来られました。その車の聖別祭と、産業の祝福を祈りました。

● マタイ傳 第6章33節

まづ神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし

証 3年ぶりに教会に来られた姉妹。お祈りの問題を沢山携えて来られました。凡て主が聴き応え、家族と職場の人たちが救いに導かれるように祈りました。

● 民数紀略 第6章22~26節  ⇒ 神がモーセに告げられた民を祝福する言葉

願くはヱホバ汝を惠み汝を守りたまへ 願くはヱホバその面(かほ)をもて汝を照し汝を憐みたまへ 願くはヱホバその面を舉て汝を眷み汝に平安を賜へと かくして彼等吾名をイスラエルの子孫(ひとびと)に蒙らすべし 然ば我かれらを惠まん

聖餐式

● マタイ傳 第26章36~46節

『わが父よ、もし得べくば此の酒杯(さかづき)を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が意(こころ)の儘にとにはあらず、御意のままに為し給へ』  (39節)

 [E:pencil]  このブログについて  [E:sign03]

 読者の皆様、お元気ですか。いつもブログを読んで頂きありがとうございます。

 このブログを開設したのは2008年4月1日ですので、丁度2年になります。 毎週1回、安息日の礼拝で開かれた聖言を載せています。(2008年12月以前の分は割愛しました… 時間があれば、記録をもとにダイジェスト版で復元するかも知れません)。


 ブログを始めたキッカケは幾つかあります。

 数年前に或る方から 「今はインターネットの時代ですよ。これを使って福音を発信しない手はありません。誰にでもできることではありませんが、やってみませんか?」 と声をかけられました。


 暫くそのままにしていましたが、やっと重い腰を上げて、ホームページを A 兄に頼んで立ち上げて頂いたのが7年前のことです。 訪問者がおられるのは、とても感謝なことです。


 そうこうするうちに B 兄から 「ブログを作ったらどうですか?」 という話がありました。そこで思い立ってパソコンに詳しい C 兄にお願いして出来上がったのが、このブログの原型です。随分色々な人たちのお力添えを頂きました。 感謝です!


 すると、教会から遠い外国に住んでおられる K 姉から 「待望のブログが出来ましたね」 と言う喜びのコメントを頂きました。 この姉妹は以前、電話で 「私は毎週安息日に一人で礼拝を守っています。聖書を読み、讃美をし、お祈りをしています。今週のはどの聖言を開かれたのですか?」 と問い合せてこられた方です。 機(おり)に合う良き証が与えられました。


 以前紙面を使った「教会だより」を作ったことがあります。幾つか原稿を書いて、それを元に謄写版のいわゆるガリ切りをやって、インキで手を真っ黒にして印刷して配ったものです。 その次はワープロで打って版下を作り、オフセット印刷をしてもらい配布しました。 それから随分経ちますが、いまだにそれを持っていて 「何度も読んで恵まれています」 という人たちに出会います。 自分もオリジナルを持っているので取り出して読んでみました。 そして思ったことは、二度と同じものは書けないという事でした。その時でなければ書けないもの、或いはその時でなければ出来ないものということがあるんですね。


 そういうことで、このまま行くのか、或いは形を変えるのか今のところ分りませんが、とにかく主の御手に導かれつゝ、これからもボツボツと精出して続けていこうと思います。 先ずは主のため、福音のため、そして自分自身の学びのためであり、また多少なりとも皆様のお役に立てれば幸いと思う次第です。


 どうか、時々アクセスしてみてください。宜しくお願い致します。主の祝福を祈りつつ。           ハレルヤ!

                      [E:house] 管理人より

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