道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2010年05月

雅歌 第2章(全章)

彼われをたづさえて酒宴(さかもり)の室(いへ)にいれたまへり その我上にひるがへりたる旗は愛なりき

わが佳耦(とも)よ わが美しき者よ 起ていできたれ

磐間(いはま)にをり 断崖の匿處(かくれどころ)にをるわが鴿よ 我になんぢの面(かほ)を見させよ なんぢの聲を聞かしめよ なんぢの聲は愛らしく なんぢの面はうるはし

 生後間もなく、母が天に召されたA姉妹。それから五十数年の歳月が過ぎて、父も召された。生前の母を知る人はいないかと、長い間 尋ね求め続けてきた。今となっては知る人は、ただ一人・・・。

” 此のともがら黙さば、石叫ぶべし!”

聖餐式

● コリント前書5章6~8節     同10章16,17節    同11章23~26節

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証 教会の車庫の前の歩道は、熱源が灯油式のロード・ヒーテイングでしたが、このたび電気式に変える工事をして完成しました。経費の節減が見込めます。 [E:car]

  = 病は癒されるべきもの。寿命は神からのもの。=

● マルコ傳1章29~33節

日いりてのち人々すべての病ある者・悪鬼に憑かれたる者をイエスに連れ来り、全町(ひとまち)こぞりて門に集る。イエスさまざまの病を患ふ多くの人をいやし・・・

● マタイ傳10章1, 5~8節

イエスその十二弟子を召し、穢れし霊を制する権威をあたへて、之を逐ひ出し、もろもろの病、もろもろの疾患を医すことを得しめ給ふ。

・・・・病める者をいやし、死にたる者を甦へらせ、癩病人(らいびょうにん)をきよめ、悪鬼を逐ひいだせ。

● 使徒行伝3章6,16節

ペテロ言う 「金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に与ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め」

斯てその御名を信ずるに由りてその御名は、汝らの見るところ識るところのこの人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は汝等もろもろの前にて斯る全癒を得させたり。

● 出エジプト記15章26節

・・・我わがエジプト人に加へしところのその疾病(やまひ)を一つも汝に加へざるべし 其は我はヱホバにして汝を医す者なればなり

● イザヤ書53章3節

そのうたれし痍(きず)によりてわれらは癒されたり

● マラキ書4章2節

されど我名をおそるゝ汝らには義の日いでて昇らん その翼には医す能(ちから)をそなへん 汝らは牢よりいでし犢(こうし)の如く躍跳(おどら)

● ヘブル書13章8節

イエス・キリストは昨日も今日も永遠までも変り給ふことなし。

聖餐式

● ヘブル書9章11~28節

この故に彼は新しき契約の中保(なかだち)なり。  ー15節ー

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後からの証

今日は、ささきひとえ姉妹 (本名T姉) のライブに行ってきました。ピアノとベースとドラムの伴奏つきで、ヴォーカルの姉妹の歌声を聴きました。姉妹の本業はヴォーカル・コーディネーター。教える対象は、プロ歌手を目指す人ではなく、歌が大好きなアマチュアの人たちにどうすれば楽しく歌えるか指導するのが仕事ですとおっしゃる。御主人の兄弟の良き理解と協力のもと、DVDの教材を作ってインターネットで発売したり、個人レッスンをしたり、家事・育児をしながら多忙です。その傍ら、自ら若い頃にやっていたライブでの歌をもう一度という志です。

演奏曲目は、この間 YouTube にアップした「かもめはかもめ」のほか「クライ・ミイ・ア・リバー」、「おぼろ月夜」など幅広いジャンルを、軽妙なトークを交えて数曲。アンコール!! の声も上がって久し振りにプロの歌声に酔いました。祝福あれ!!

● テモテ後書4章2節

なんじ御言を宣伝へよ、機を得るも機を得ざるも常に励め。

● コリント前書9章16,17節

われ福音を宣伝ふとも誇るべき所なし、已むを得ざるなり。もし福音を宣伝へずば、我は禍害(わざはひ)なるかな。

● 使徒行傳18章24節~19章7節

『 なんぢら信者となりしとき聖霊を受けしか 』

 北海道にも遅い春の訪れと共に花が咲き、鳥が舞い、色々なものがやって来ました。

昨日の午後、教会の前庭に出ていると 「イエス・キリストは救い主です」 と大音量を響かせて車が徐行しながら近づいて来ました。

あの車の主に真の福音を伝えようと思い、私は近づいてきた車に合図をした。彼は了解して安全な場所を選んで車を停め、運転席の窓を開け顔を見せた。初老の兄弟だった。

車体には 「 イエス・キリストは 道 真理 命 」 とあり 、大きく 「 聖書 」 と書かれていた。

「こんにちは。 私は、教会の牧師ですが、どちらから来られたのですか?」

ー 彼は、スピーカーをオフにした。マイクで呼びかけているものだとばかり思っていたが、そうではなく、テープかCD が音源だった。尤も運転上その方が安全だろうと納得。

「東北からです。数人のグループで全国を回っています。この車がホテルなんですよ」

と、にこっと笑ってカーテンで仕切られた後部座席の方を振り返った。

ー なるほど、それではしばれのきつい北海道に、冬は来れないわけですね。

「ほう、それで何と言う教会ですか?」

「教会ではなく、聖書の配布協力会です。イエス・キリストの物語を書いた冊子や文書を学校の前で子どもたちに配ったり、こうして放送をして歩いているんですよ」

「それで、信仰したいという人がいたらどうするんですか?」

「私たちの所には教会がないから、そういう人には自分の家の近くの教会に行ってもらっています。まあ、私たちは種まきだけやっていて、あとは神様にお任せしています。直ぐに教会に行かなくても何十年か経ってから行く人もいますからね」

「なるほど、或る人は播き、或る人は刈るというわけですね」

「そうです。それと、こうやって回る外に、街角に聖書の言葉を書いた看板を掛けさせてもらっています。そういう係りもいましてね」

(黒い下地の板に白い文字で書かれた 〔死後 審きを受ける〕 などという看板を思い浮かべる・・・)

「ああ、よく見かけますよ」

「私は全国あちらこちら回っていますが、教会の側を通っても、皆さん私たちのしていることには無関心を装っているようで、あなたのように声をかけてくる人は誰もいませんよ

( 神様のチャンス到来 ! )

「そうですか。ところで 《水と霊》 というのをご存知ですか?

「何ですか。それは?」

「イエス様が、ヨハネ傳3章5節で仰っている洗礼と聖霊のバプテスマのことですよ」

「ああ、洗礼なら若い時に受けました。聖霊も受けています」

「では、聖霊を受けたとき、異言を語りましたか?」

ー 彼は、一瞬きっとなって反論した。

「そういうことはないけれど、イエスを言い表しているのだから聖霊を受けていると思いますよ」

ー ヨハネ第一書4章2,3節をそのように解釈し、説く教会もある。 いや、殆どがそうだろう。旧きパン種なる間違った教理・神学は、人を聖書の教から引き離し、真の救いから遠避けてしまうものなのだ。

ー そこで、私は聖霊を受けるということはどういうことなのかを聖書に基づいて話し、聖霊を受けた徴は異言であることを証した。幸にも主は彼の心を開いてくださり、彼は私の勧めに従って聖霊を受けることに同意してくれた。 私は彼の肩に手を按き、聖霊待望会をした。 

「聖霊を受けるには、始めにハレルヤと言ってお祈りしてください。ハレルヤ、ハレルヤ・・・」

「ハレルヤ、ハレルヤ、ハレルヤ・・・・・・・・・」

ー 15分くらい祈っただろうか。 急に彼の祈りに力が篭ってきた。ハレルヤの祈りから、舌が縺れて異言に変わった。それから更に5分くらい祈った。

このゆえに神あだし唇と異なる舌とをもてこの民にかたりたまはん さきにかれらに言たまひけるは此は安息(やすみ)なり 疲困者(つかれたるもの)にやすみをあたへよ 此は安慰(なぐさめ)なりと -イザヤ書28章11,12節-

イエスは神の右に挙げられ、約束の聖霊を父より受けて 汝らの見聞きする此のものを注ぎ給ひしなり。 ー使徒行傳2章33節ー

「兄弟、聖霊を受けましたよ ! 」

ー 兄弟は喜んでくださった。この次遇うのは何時か分らないが、また次のステップに進むことを切望する。 主の御手に凡てを委ね、互いに祝福の言葉を掛け合って別れた。

この出会いを与えてくださった神に感謝する。

聖餐式

● ヨハネ傳6章47~58節

                
               P1000020
            


● イザヤ書第51章2節

なんじらの父アブラハム及びなんじらを生みたるサラをおもひ見よ われ彼をその唯一人なりしときに召し  これを祝してその子孫をまし加へたり。

イスラエルの民は、神ヱホバの命に従った信仰の父アブラハムと母サラから生まれ、神の選民となりました。

我らの所属するイエス之御霊教会教団も、イエス様に選ばれ、「我に従え」 との主のご命令に従われた初代監督村井じゅん先生と、二代目監督村井スワ先生ご夫妻から始まり、今日に至りました。これから先も "水と霊” の全き福音を異邦人の数満る時まで全世界へ宣べ伝える使命が委ねられています。

● イザヤ書52章6節

この故にわが民はわが名をしらん このゆえにその日には彼らこの言をかたるものの我なるをしらん 我こゝに在り

関東大聖会で頂いた聖言です。「我こゝに在り」 と宣うて厳かに顕われなさるイエス様、その聖名を畏れよ、その聖名を称えよ。

大聖会で拝聴した多くの活ける神の証を礼拝で語らせて頂きました。感謝です。ハレルヤ!

 今日は、礼拝の中で独唱をしました。

先日、関東大聖会が終った日、新宿駅で信者方と別れたあと、主は私を多摩川の 是政 に導いてくださいました。ここは以前、東京教会の洗礼式が行われた場所です。 村井じゅん先生も此処で多くの信者さん方に主イエス・キリストの御名によって洗礼を施された事と思います。

1954年(昭和29年)4月の末のことですが、私の祖母ヨシ姉妹も、父榮藏兄弟の伝道によって東京教会に導かれ、村井先生の手により多摩川で洗礼を受けました。 父は肺結核で入院していたので、その前年の4月に私たち家族の中では一番最後に救われたのですが、自分の元気になった姿を母親に見せ、合わせて救いに導くのが一番の親孝行と思い、埼玉県の与野(さいたま市)に住んでいた祖母を訪ねたのでした。そして東京教会に連れて行き、村井先生にお会いして導きをお願いすると、喜んで聖霊待望会をしてくださり、受霊すると今度は電車で多摩川へ連れて行って、イエス・キリストの御名によって洗礼を施してくださったのです。それは村井先生が沖縄伝道に旅立たれる直前のことでした。

そういう事があって、私にとっても思い入れの多い場所でした。

電車で是政駅に着き、少し歩いて行くと多摩川に掛かる是政橋があります。長さは400mくらいでしょうか、白く塗られた立派な斜張橋です。 橋の上に立って下を見ると、河川敷が広がり一面草木で覆われていて、その中を堤防から川岸に向って降る小道が見えます。更に進むと川幅100m以上ある多摩川の上に出ました。夕日に照らされた川面には細波がたち、とうとうと流れています。目を向けると400mほど上流に視界を横切る南部線の鉄橋があり、その先には砂州を挟み左右に分かれる流れが霞んで見えました。洗礼は南武線の鉄橋の下で行われていたようです。

私はそこに立って過ぎ越し方に多くの救いが為されし事に思い、暫し感謝と祈りの時を持ちました。奇しくも村井じゅん先生が天に召されて40年、記念の節目に当るこの年、喜霊祭が行われた後に、主がこの地に導いて下さったことを感謝しました。

夕陽が落ち、その場を去りかけた時、自然と讃美が口から流れ出たのです。 それはリバイバル聖歌328番(聖歌88番) 「若草のまきばより」 でした。 随分長いあいだ歌ったことのない讃美でした。歌い始めると同時に御霊が上から臨み、私を覆い包んでくださったのです。 本当に嬉しく感謝が溢れ、余韻となって残るひと時でした。

今日は、その時のことを思い返して歌いました。 ハレルヤ!

御霊の感動によって霊歌や聖歌を歌わされることがありますが、本当に素晴らしい主の恵を感じます。 霊歌は異言の歌で、聖歌は分る言葉の歌です。

 「我は霊をもて謳ひ、また心をもて謳はん」 ーコリント前書14章15節

聖餐式

● コリント前書第5章7,8節   ● 同 書 第10章16,17節   ● 同 書 第11章23~26節

★ ゴールデンウイークは聖徒方と共に関東大聖会に参ります。主の祝福豊な大聖会でありますよう願っております。

● エペソ書2章20~22節

汝らは使徒と預言者の基の上に建てられたる者にして、キリスト・イエス自らその隅の首石(おやいし)たり。

● 同書 4章11~16節

彼は或人を使徒とし、或人を預言者とし、或人を傳道者とし、或人を牧師・教師として與え給へり。・・・・

● コロサイ書 1章18,24節

キリストは教会の首(かしら)であり、教会はキリストの體(からだ)である。

★ 主は、その教えに基き秋の雨として聖霊を注ぎ、初代キリスト教会を興された。使徒行伝第2章に記されている如くである。 而してこの末の世には、聖書の預言に応じて 春の雨として聖霊を注ぎ、再び真の教会を興された。唯一にして高き奥義を持つ教会、これがイエス之御霊教会教団であり、我らはこれに属する者である

聖餐式

● ルカ傳22章1~22節

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