道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2010年09月

◎ ヨシュアに就いて

● ヨシュア記13:1~7

1 ヨシュアすでに年邁(すす)みて老たりしが ヱホバかれに言たまひけらく 汝は年邁みて老たるが 尚取るべき地の残れる者甚だおほし 

イスラエルの民を引き連れエジプトを出てより40年。モーセは、カナンの地に入ることを許されず、ピスガの山頂で此れを見た後に死んだ。

主はモーセの後を継いだヨシュアに、ヨルダン川を渡ってイスラエルの子孫に与える地へ進み行けと命じられた。

そしてエリコ、アイを始め、エルサレム、リブナ、ラキシ等を攻め落とし、三十一の王国を平定するに至ったが、主は手を休めることなく更に奥地を攻め取れと命じ、八十歳を越えたヨシュアを叱咤激励するのである。

目的は何か。既にヨルダン川の手前に領地が決まった二つの支派(わかれ)とマナセの半ばを除く、九つの支派とマナセの残り半ばの産業となる領地を得るためである。

そして戦いを進め、五年後に遂に凡ての約束の土地を得て、籤引きをしてそれぞれの支派に分け与えることができた。

嗣業の土地を得ることは大きなことである。子々孫々に至るまでその耕地で生活することができるからである。

転じて新約の時代では、約束の地はどこか。神の国である。天国である。永遠の嗣業はそこにある。一人でも多く神の国に入るために力を尽せと聖書は奨めている。

カレブに就いて

● ヨシュア記14:6~15

9 その日モーセ誓ひて言ひけらく  汝の足の踐(ふみ)たる地は必ず永く汝と汝の子孫の産業となるべし 汝まったく我神ヱホバに従ひたればなりと・・・

10 視よ 我は今日すでに八十五歳なるが 11 今日もなほモーセの我を遣はしたりし日のごとく健剛(すこやか)なり  我が今の力はかの時の力のごとくして出入り戦闘(たたかひ)をなすに堪ふ 12 然らば彼日ヱホバの語りたまひし此の山を我に與よ

ヨシュアがイスラエルの支派(わかれ)に土地を与えた時に当り、カレブがヨシュアの許に来て、モーセが自分に与えると約束した土地を与えよと言った。

四十五年前のこと。主はモーセに告げて支派ごとに一人づつ領袖(かしら)を選び、イスラエルの子孫に与えるカナンの土地を探るように命じた。その中にヨシュアとカレブがいた。選ばれた十二人の者は、行ってカナンの地を探り、その地の果物を持って四十日後にモーセと民の許に戻り復命した。

その内十人は、カナンの地は誠に乳と蜜の流れる良き地であるが、そこに住む民は猛くかつ邑は堅固で大きく、巨人アナクの子孫がいてとても強い。攻め取れるものではないと神を忘れた不信仰な事を言って、民を動揺させた。

しかし、ヨシュアとカレブの二人は信仰の人である。正にそこは良い土地だ。是は乳と蜜の流れる土地だ。主が悦び給うならば此れを我らに賜うのだ。怖れてはならないと励ました。

結果はどうなったか。その時不信仰を抱いた二十歳以上の者は、荒野の四十年の旅路の間に死に失せ、信仰を守ったヨシュアとカレブの二人だけがカナンの地へ入ったのである。

カレブが与えよといった土地とは、アナク人、即ち巨人の住む土地であった。当然激しい戦いが予想された。しかし彼はひるまなかった。年齢が八十五歳になろうとも四十歳の時のように戦える、だから此のへブロンの山を我に与えよと言った。

彼は勝った。そしてヘブロンを手に入れた。信仰者への褒美である。

● マルコ傳16:15~20

全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣伝へよ。信じてバプテスマを受くる者は救わるべし。

我らも取るべき地の残れるもの甚だ多しと、ヨシュアとカレブの如く、信仰による勇気を持って進んで行こう !!

聖餐式

● ヘブル書13:11~15

12 この故にイエスも己が血をもて民を潔めんが為に、門の外にて苦難(くるしみ)を受け給へり。13 されば我らは彼の恥を負ひ、陣営より出でてその御許に往くべし

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信者さんの話  

仕事上毎日ブログを出し、それも全国に数多くの読者を持っている姉妹がいます。この方との会話の中で教えられることがありました。 姉妹によると珍しい話や、心をひきつけるような内容のブログを書いてもアクセス数は増えないそうです。

それよりも休まずにブログを出すのが良い。休むと覿面(てきめん)にアクセスがガタッと減り、挽回するのに時間がかかると言うのです。

継続は力なり !  ということなんですね。

● ルカ傳19:1~10

  それ人の子の來たれるは、 失せたる者を尋ねて救はん為なり

エリコの町にザアカイという人がいた。取税人の頭で富める人だった。

ユダヤ人の取税人は、ロマ人の税金取立て人の手先になって、民から税金を取立ていた。それゆえ排斥され、異邦人・罪人と同様に見做されていた。

ザアカイもその一人で、金銭的な報酬は多かったが、心は貧しかったことと思う。幸福は持ち物の豊なるにはよらないものである。

この町にイエスが来られた。イエスが素晴らしい神の御業をなさることは広く知れ亙っていた。誰もが一目イエスを見たいと思っていた。ザアカイもその一人だった。

しかし、彼には外の人とは違う所があった。それは単に好奇心からイエスを見たいと思ったのではなく、彼の心の飢え渇きを癒してくださるお方としてぜひ見たいと思っていたのである。

彼は、背が低かった。通りに出た時には、人垣でイエスの姿を見ることができなかった。 幸いに、すぐ側に桑の樹があった。それによじ登るとイエスの姿が見えた。彼がまじまじと見ていると、イエスが彼を認めて側にやってこられ、声をかけられた。

『 ザアカイ、急ぎおりよ、今日われ汝の家に宿るべし 』

何ということだろう。イエスは彼の名を知っておられたのだ。会うのは初めてである。 しかし、イエスは彼をご存知だった。

ヨハネ傳1:45~48には、イエスとナタナエルの初対面の時のことが記されている。イエスが、ナタナエルを指して 『 視よ、これ真にイスラエル人なり、その衷に虚偽(いつわり)なし 』 と言われたので、ナタナエルが 『 如何にして我を知り給ふか 』 と問うた時、イエスは 『 ピリポの汝を呼ぶまへに我なんぢが無花果(いちじくの樹の下に居るをみたり』 と言っておらる。イエスにとって凡てが先刻ご承知なのだ。

我らも、イエス・キリストが、我らを神の国の世継ぎとなさんため、多くの人々の中から、世のならざる先より選んでくださった者である。

ザアカイは急いで樹から降り、喜んでイエスを家に招き入れた。そして自ら持ち物の半ばを貧しい人たちに施し、強いて取ったものは四倍にして償うと心を込めて言ったのである。

『 きょう救いはこの家に来たれり、此の人もアブラハムの子なればなり。それ人のの来たれるは、失せたるものを尋ねて救はん為なり 』  と主は言われた。

ザアカイのように、我らもこの救いに与った。 この幸の故に満腔の感謝を主に捧げるものである。

聖餐式

● ヨハネ傳6:48~59

それわが肉は真の食物、わが血は真の飲物なり

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感 謝・1 この9月で救われてより早58年経った。心臓病と肺結核に打ち拉がれ, 自らを廃人と思い、希望を持てずにいた時に、主は教会の伝道会に導いてくださった。講師は、東京イエス之御霊教会の村井じゅん先生だった、ご自分の受霊体験を語り、「聖霊を受けよ」と勧めて祈ってくださった。 4日後、豊平川で主イエス・キリストの御名による洗礼を受けた。 これが始まりである

もし始めの確信を終りまで堅く保たば、我らはキリストに与る者となるなり。 
へブル3:14

感謝・2 礼拝後、信者方が誕生祝いをしてくださった。ありがたいことである。霊と肉の誕生日が2日違いなので、合わせた喜びを味わう。

司会の I 兄弟が会を進めてくださり、折り詰め弁当や果物・飲み物の食事の後、証会があって、恵まれた証を聞いた。救われた時の証や、この教会に始めて導かれて来た時の証など、一人一人がイエス様に愛されていると思った。

記念品を頂き、慕ってくださる兄弟姉妹が大勢いることを感謝し、皆が一つになって更に主のため福音のために用いられる教会になろうと勧めた。

● ヘブル書1章

 神は曽て御子を立てて萬の物の世嗣となし、また御子によりて諸般(もろもろ)の世界を造り給へり。  御子は神の榮光のかがやき、神の本質の像(かた)にして、己が権能(ちから)の言(ことば)をもて萬の物を保ちたまふ。また罪の潔をなして、高き處にある稜威(みいつ)の右に座し給へり。 4 その受け給ひし名の御使いの名に勝れるごとく、御使いよりは更に勝る者となり給へり。

パウロの書簡の中で冒頭の挨拶抜きで本題に入っているのが、ヘブル書である。それ故にインパクトが強い。

第1章の主意は、神の御子イエスと御使いとの対比であり、如何に御子が勝れたお方であるかを、七つの聖句を引用して解き明かしている。

先ず始めに、旧約時代に神は多くの預言者を用いて民に語られたが、新約時代には御子によって語られたと述べ、御子の権威が絶大であることを示している。

何が故に斯くも高きお方なのか。それはヨハネ傳1章に次のように記されている。

1 太初(はじめ)に言(ことば)あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 2 の言は太初に神とともに在り、 3 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。・・・ 14 言は肉体となりて我らの中に宿りたまへり、我らその栄光を見たり、実に父の独子の栄光にして恩恵と真理とにて満てり。

すなはち、神は言=ロゴスなること。その言が肉体を持って救い主となり、この世に現れ給うたのが、神の独子なるイエスであると我らは知るのである。然るが故に最高の権威を持つお方なのだ。

聖書は問う。「その名は何ぞ、その子の名は何ぞ、汝これを知るや」と。(箴言30:4)

その名はイエス。 神の名は何かと問うならば、主イエスご自身が言われた 「聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名の中に彼らを守りたまへ」 の如く 《イエス》 とは、御子の名であると同時に、父の名でもある。

旧約聖書に「われはヱホバなり是わが名なり」(イザヤ書42:8)とある、しかし新約聖書には、このヱホバなる名は記されておらず、代ってイエスの名が称えられている。なぜか、それはイエスとは、「ヱホバ救い」という意味だからである。

パウロは、御子に就いて斯く言う。

『 神よ、なんぢの御座は世々限りなく、汝の国の杖は正しき杖なり。』 。(8節)

また、言う。

『 主よ、なんぢ太初に地の基を置きたまへり、天も御手の業なり。』 。(10節)

真に、我らのイエス・キリストは、神であり、主で在し給う。

我らは、救い主であり、永遠、不変の存在者、権威者であリ、真の神で在し給う イエス・キリストを、心一杯讃め称えつつ歩んで行こう。

聖餐式

● へブル書2:5~18

14 子等はともに血肉を具ふれば、主もまた同じく之を具へ給ひしなり。

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 パソコンが重くなりました。 SOS !   

ブログを作ってくれたS 兄弟に電話をすると早速飛んで来てくれました。パソコンを開いてあちこち調整し、明日は部品を見つけてきてくれるとのこと。良くなることと期待しています。

そういう中で、遅くなりましたが、何とか今日のブログができました。 凡てのこと感謝せよ !

 翌日追記す==何と軽快になったことか !    兄弟がメモリーを持って来て、パソコンに入れ替えると、昨日のまでのことがまるで嘘みたいに、息を吹き返し、元気一杯なパソコンになりました。 ハレルヤ、ハレルヤ、 大感謝です ! 

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