道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2010年10月

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● 創世記32章より

10 我わが杖のみを持ちてこのヨルダンを濟(わた)りしが 今は二隊(ふたくみ)とも成にいたれり

神の祝福は大いなるものである。私達も出発点では殆ど何も持っていなかった。しかし年を経るほどに次第に与えられ、霊肉共に満ち足りた恵の中に置かれるようになった。これ一重に主の恩寵である。感謝を忘れてはならない。

28 其人いひけるは汝の名は重ねてヤコブととなふべからずイスラエルととなふべし 其は汝神と人とに力をあらそひて勝たればなりと 

ヤコブは兄エサウと再会するに際して復讐されるのではないかと恐怖を感じた。家族や家畜をそして自分自身をどうやって守ろうかと手立てを尽くし、兄の怒りを和らがそうと贈物も整えた。更にただ一人になって神と向き合い必死になって祈った。その時のことを聖書は、

24 ヤコブ一人遺りしが 人ありて夜の明けるまで角力(ちからくらべ) と記している。

彼は腿の関節を外された。彼の中に在る自負心や、力みなど凡そ人間的な物が木っ端微塵に打ち砕かれたのであろう。彼は虚しくされたが、唯一の望みは神が嘗てかれに約束された御言葉であった。-6節、12節ー

ヤコブはこの祈りに勝利し、神よりイスラエルという名を戴いた。イスラエルとは、「神の戦士」という意味である。

そしてヤコブは神より祝福を受け、無事に兄エサウとの再会を果した。

聖餐式

● コリント前書5:6~8  同書10:16,17  同書11:23~26

   [E:note]   喜び称え 主の聖名ほめよ 

       十字架に死にて 甦りたり     

       初穂となりて 我らを救い     

       御国の民と 集めたまえり    

                   -霊讃歌48番 2節-

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● マタイ傳18:18

誠に汝らに告ぐ、すべて汝らが地にて縛(つな)ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり。

神が教会に与えておられる特権です。即ち教会で祈れば天に通じ、地上で罪を赦せば天で赦されます。また地上で罪を留めれば天でも留められます。病める者に油を注いで祈れば主の御手が置かれて癒されます。教会と天国とは一体なのです。

● 同書18:19、20

また誠に汝らに告ぐ、もし汝等のうち二人、何にても求むる事につき地にて心を一つにせば、天にいます我が父は之を成し給ふべし。二、三人わが名によりて集る所には、我もその中に在るなり。

教会は、牧師一人、信者一人から始まります。

懼るな小さき群よ、なんぢらに御国を賜ふことは、父の御意なり」 ールカ傳12:32ー

とたとえ人数は少なくても、主は共にいて下さいます。そして牧師と信者の二人でも、或いは夫婦二人、親子二人であっても、心を一つにして祈るならば、天にいます神は成就すると約束しておられるのです。祈りの束は太く強力で、神の御手を動かすことができるのです。

二、三人が主の名によって集う所に、臨在があり、主は共にいて、見ておられ、聞いて下さるのです。 

教会=エクレシア=召し集められた者の群、とはそういう所です。

聖餐式

● 出エジプト記12:1~20

7 その血をとりて其之を食ふ家の門口の両旁の(はしら)と鴨居に塗るべし 8 而して此夜その肉を火に灸て食ひ 又酵 いれぬパンに苦菜をそへて食ふべし・・・11 是ヱホバの逾越節(すぎこし)なり

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証 1

江別のN姉妹のお宅に、副牧師と一緒に車で家庭集会に行きました。姉妹は江別の開拓時代からの信者で、救われて50年以上になります。ご主人は旧国鉄時代に失明し、苦難の最中に救われ、続いて姉妹も救われました。ご主人は盲学校に進み、鍼灸マッサージを習得して開業しましたが、早くに召されました。

残された姉妹は、女手一つで息子さん方を育て、それぞれの道に進みました。今は高齢ですが、住み慣れた家で一人暮らしをしています。

家庭集会では霊讃歌127番ーイザヤ書35章よりーを歌い、イザヤ書35章を開いて拝読しました。

集会が終ると、姉妹は次の間から手書きの紙を取り出して来ました。にこにこしながら「先生、これを見てください」と言います。見ると3枚の便箋にボールペンでそれぞれ歌詞が書かれていました。その一曲目が霊讃歌127番の歌詞でした。正にその集会で読み歌った所とピッタリです。姉妹はいつ書いたのか覚えていませんが集会の最中に思い出して持ってきたということでした。

御霊の一致というのは凄いですね。恵まれました。

凡て神の御霊に導かるる者は、これ神の子なり ーロマ書8:14ー

証 2

N姉妹の家庭集会を終えたあと、近所のO兄姉宅に寄りましたが不在です。諦めて帰ろうと車を少し進めた処で、バックミラーにO兄弟の車が家の前に着くのが見えました。降りる姿を見るとお一人のようでO姉の姿は見えません。

バックして家の前に戻ると、何と筋迎えの家からO姉妹が、その家の奥様と一緒に出てきたではありませんか。これまたピッタリです。

「よく来てくださいました」と歓待されました。話の中でご夫婦共に病んでおられるということを聞きましたしたので、神癒祈祷をしました。お二人とも異言でとうとうとお祈りをされました。御霊の感動を受けて涙を流しておられました。

実はO姉妹は、昔看護婦さんをしていて、それも牧師夫人が入院していた時にお世話になった方です。召されたあと江別の教会を訪ねて来られたことがあり、その時に聖霊を受けました。そのあと自宅を訪ねて行った時にご主人にお会いし福音を語って、イエス様を伝え、お祈りして聖霊を受けました。そういうことでもう30年以上経ちます。

まだ聖霊だけの御夫婦ですので、この度は洗礼を受けるように勧めました。良き時に洗礼を受けて「水と霊」の全き救いに与られるよう願っています。

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● テサロニケ前書5:1~11

3 人々の平和無事なりと言ふほどに、滅亡にはかに彼らのうえに來らん、妊める婦に産の苦難の臨めるがごとし、必ず遁るることを得じ。 4 されど兄弟よ、汝らは暗に居らざれば、盗人の來るごとく其の日なんじらに追及くことなし。 5 れ汝等はみな光の子ども晝の子供なり。我らは夜に属く者にあらず、暗に属く者にあらず。 6 されば他の人のごとく眠るべからず、目を覚まして慎むべし。

イエス様の再臨はいつか。それは神御自身の外だれも分らない。その日は我らの待望の日である。いつであっても良いように心して、肉の欲に走らず、主の御旨を行い、御霊の実を結ぶよう努むべきである。

水と霊によって救われ、イエス・キリストを証して歩むことが大切である。

● ロマ書13:11~14

11 なんじら時を知る故に、いよいよ然なすべし。今は眠より覚むべき時なり。始めて信ぜし時よりも今は我らの救近ければなり。12 夜ふけて日近づきぬ。然れば我ら暗黒(くらき)の業をすてて光明(ひかり)の甲(よろひ)を著るべし。13 晝のごとく正しく歩みて宴楽・酔酒に、淫楽・好色に、争闘(あらそひ)・嫉妬(ねたみ)に歩むべきに非ず。14 ただ汝ら主イエス・キリストを衣(き)よ、肉の欲のために備すな。

● エペソ書5:1~14

8 汝ら舊(もと)は闇なりしが、今は主に在りて光となれり、光の子供のごとく歩め。

14 『眠れる者よ、起きよ、死人の中より立ち上れ。然らばキリスト汝を照し給はん 』

       今は末のとき 今は末の世

       悪魔は必死に 汝(な)れを窺う

       再臨近し再臨近し 備え如何や

       再臨近し 備えいかにや

                  ー 霊讃歌11番  今は末の時 ー

聖餐式

●ルカ傳22:7~23

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[E:impact] チリのサンホセ鉱山の落盤事故の救出に思う

イエス様が 「シロアムの櫓たふれて、圧し殺されし十八人は、エルサレムに住める凡ての人に勝りて罪の負債ある者まりしと思ふか。われ汝らに告ぐ、然らず、汝らも悔改めずば、みな斯の如く亡ぶべし」 と当時エルサレムで起きた出来事を例に挙げて話されたことがある。 ールカ傳13:1~5ー

今週、新聞やテレビを通して世界の耳目を集めた出来事は、チリ北部の都市コピアポに近いサンホセ鉱山で8月5日に起きた落盤事故のため、地下700㍍に閉じ込められた33人の作業員の救出だった。

事故から17日後、捜索用のドリルを引き上げたところ、その先端に「我々33人は生きている」という手紙が結び付けられていたことから救出作業が始まった。

当初救出はクリスマスまでかかると言われたが、懸命の掘削作業が続けられた結果、縦穴が貫通し、「フェニックス」と名づけたカプセルを使って全員救出されるに至った。69日振りに地上に生還した作業員たちが家族と抱き合って喜ぶ姿を見て本当に良かったと思う。

作業員の一人が、地下から家族に送った手紙の中で「ここは地獄だ。もう耐えられない」とあった。凡そ常人では律し難い状況を乗り越えたのは一人の現場監督が作業員たちを一つに纏めたからだと言う。彼は自力で地上に出ることは不可能だと確認し、発見されるまで持ちこたえられるように食料を僅かづつ分配し、全員が理解をもって従ったという。彼は常々沈着冷静で皆の信望を得ていた人物だと思う。

救出に当っても彼が一番最後になった。善い指導者は常に自分を最期にするものだ。

ー 初代監督の村井ジュン先生もそうだった。大聖会などで地方に行かれ、乗り物に乗る時は、いつも外の皆を先に乗せ、全員が乗り終えるのを見届けてから最期に乗られたものだった。ー

地上から地下に入った救出隊員は6人。皆勇気ある責任感のある隊員だった。最初に地下に入った救出隊員は特に選ばれた人で、彼は皆が地上に生還したあと、ただ一人で、残っている人はいないかと坑道内を確認した上で、最期に地上に戻ったという。偉いものだ。

数々の美談あり、人生の縮図ありのできごとだった。

これを映画化しようという話があるそうだ。手記を本にして出版したらという話もある。旅行に招待ましょう等引く手あまたな話もあるという。このようなことは果たしてよいのだろうか?

「この世の子らは己が時代の事には、光の子らより巧なり」  ールカ傳16:8ー

と主イエス様が言われたが、何か抜け目のない第三者たちが彼らを商業ペースに巻き込んで用いようとしていように思える。 当人達の気持ちはどうなのか?

「そっとしていて欲しい。」 「私たちはただの人です。」 「外にもこういう事故にあった人がいる。特別扱いにしないで欲しい。」 とは正直な声ではないだろうか。

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この出来事から、イエス様の救いのことを考えた。

この地上に居ながら、「 ここは地獄だ。」と思い悩んでいる人が大勢いる。「 ここから出たい。でも出ることができない。誰か救ってくれる人はいないか。」 と救いを求めている人が大勢いる。

この意味では、世界中の人が救われなければならないのだ。

そして救いを持ち行く伝道者は、イエス様の心を心とし、霊魂(たましい)を愛し、聖霊と救いの熱情に満たされて伝道に赴くべきである。

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● ヨハネ傳4:1~58

13 イエス答えて言い給ふ 『すべて此の水をのむ者は、また渇かん。14 然れど我があたふる水を飲む者は、永遠(とこしへ)に渇くことなし。わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命(いのち)の水湧きいづべし』

イエス様がユダヤからガリラヤに向う途中、サマリヤで会った女に言われた言葉である。

スカルの町に千年以上も前に先祖ヤコブの掘った由緒ある井戸があり、その水をこの地の人々は飲み続けてきた。謂わばヤコブ様のお陰の水なのである。

そこにイエス様が現れて、これよりもっと良い水があると言われたのだ。どれほど良いかと言うと、一度飲めば永遠に渇かない生命の水だと仰しのだ。

そんなに良い水なら私に下さいの女が言った。

「あなたが神の賜物とは何かを知り、私が誰なのか分るなら、その水を上げましょう」とイエス様が言われた。

この水とは何か? 答えは、ヨハネ傳7:37~39 に書かれてある。

37 人もし渇かば我に來りて飲め。38 我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし』 39 これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり

イエス様のが言われる賜物とは、生命の水である御霊のことである。

今日、多くの人たちが渇き切った心満たす水は何処へ行ったら得ることができるのだろうかと巡り歩いてている。

その水をイエス様が持っておられ、あなたに与えたいと思っておられるのだ。 ぜひ教会に来て約束の御霊をイエス様から戴いて下さい。

 23 されど眞の禮拝む者の、霊と眞とをもて父を拝する時きたらん、今すでに來れり。父は斯くのごとく拝する者を求めたまふ。24 神は霊なれば、拝する者も霊と眞とをもて拝すべきなり。』

サマリヤの人たちは、近くのゲリジム山で礼拝をしていた。ここはモーセによって祝福の山とされた所である。一方ユダヤの人々はエルサレムで礼拝をしていた。ここはソロモンによって神殿が建てられた所である。

では、今は何処か? 場所は限らない。 その場で心を神に向け、霊と真を尽くして祈れば、即祈りは神に届く。そして、霊の祈りとは、御霊によって異言で祈ることである。

聖餐式

● テモテ前書2:4~6

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● 列王紀略上19章

  12 火の後に 細微(ほそ)き聲ありき

  18 我イスラエルの中に七千人を遺(のこ)さん

イスラエルの王アハブと后イゼベルは、バアル像やアシラ像を拝む偶像教徒であった。  神の預言者エリヤは敢然としてこれに立ち向かう。

エリアはただ一人で、アハブが集めた偶像教の預言者八百五十人を相手に祈り比べをし、「火をもて応える神を神と為さん」と言った。偶像の神は応えなかったが、エリヤの祈りに応えた神は火を降した。民はこれを見て、「エホバは神なりエホバは神なり」と言い、偶像教の預言者達をキシヨン川で殺した。

アハブがこれをイゼベルに告げたので、エリヤは命が狙われることになり、逃げて南の広野に行った。そしてエニシダの下に坐して神に祈って言った「私の命を取って下さい」と。

だが神は、彼にパンと水を与えて励まし、「起きて食らえ、力を得て進み行け」 といわれた。彼はその食の力によって四十日四十夜歩き、神の山ホレブに行った。

ホレブの山とは、シナイ山のことである。嘗てモーセがこの山で神から十戒の石の板を戴いた山である。言うなれば、此処はイスラエルの信仰の原点であり出発点であった。

神がこの山に彼を導いたのはなぜか。思うにそれは十戒をイスラエルに授けた神が、唯一真の神である事と、イスラエルはこの神にのみ仕えるべき民である事との、神の確固たる御意思を示さんためである。

彼は始め洞窟に入って宿っていた。隠れるのに好都合と思ったのであろう。神は彼に「汝ここにて何を為すや」と問われた。エリヤは自分は神に対して熱心な者、それゆえに預言者達が殺されたように、自分も命が狙われていると答えた。

その彼に神は洞窟を出て山の上に立てと言われた。公に身を現して主を証する者でなければならない。

そして神は彼に御声をかけられた。

最初に大風が吹いた。その中に神は居られなかった。次に地震があったがその中にも神はおられなかった。その後に火があったが、その中にも神はおられなかった。その後に静かな細微な声があった。それが神の声であった。

神の声に就いては、

ラッパのごとき大いなる声を聞けり  ーヨハネ黙示録1:10ー

とも記されている所もあるが、我らの体験するところでは、聖霊が心のうちに働いて、細微な声で、聖書の御言をもって語られることが多い。

なんぢ右にゆくも左にゆくも その耳に これは道なり これを歩むべしと後邉にてかたるをきかん ーイザヤ書30:21-

とあるのは御霊の声のことである。

神はエリヤに、王を立て、後継の預言者にエリシヤを立よと命じられた。またイスラエルの中にバアルに膝を屈めぬ者7千人を遺すと言われた、エリヤは自分一人だけが神を信じ、迫害の中にいると思っていたのだが、外に七千人もの神に対して忠実な信仰者がいたのだった。

彼はエリシヤに出会い、上着を被せた。我が物となれの意である。エリシヤは父母に別れを告げてエリヤに従った。あたかも主の弟子たちが主イエス・キリストの「我に従え」の命に一切を棄てて従った如くである。

聖餐式

● ヨハネ第1書2:1,2

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