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● ヨハネ伝9章
1 イエス途(みち)往くとき、生まれながらの盲人(めしひ)を見給ひたれば、2 弟子たち問ひて言ふ 『 ラビ、この人の盲目(めしひ)にて生まれしは、誰の罪によるぞ、己のか、親のか 』 3 イエス答へ給ふ 『 この人の罪にも親の罪にもあらず、ただ彼の上に神の業の顕れんためなり。・・・』
この世の中には、常人とは異なるハンデキャップを持った人が多くいる。そのことで本人が劣等感を抱いたり、いじめの対象になったりして、苦難の道を歩むことも多い。
一昔前までは 「かたわ者」 などという意地汚い言葉がこういう人たちに向けられていたが、今は差別用語として避けられるようになり、健常者に対し、心身の障害者と呼ばれるようになった。これは社会の良識であると思う。
ここで、主イエスと弟子たちが一人の盲人に出会う。彼は働くことができず道端に坐して物乞いをしていた。弟子たちはイエスに「誰の罪で生まれつきの盲人になったのか」と問うた。原因があっての結果だ、と思っての事だろう。
「因果応報」という言葉がある。仏教用語なのだそうだが、前世の悪行がたたり、宿命としてこうなったのだから諦めるより外ないと言うことだ。以前伝道に行った先の人が、目の前にいる猫を指して 「この猫は可哀相だ。きっと前世は悪い事をした人に違いない。だから今猫になって人から餌を貰って生きているのだ」と真顔で言ったのには驚いた。
イエス様はこう答えられた。「本人が罪を犯したからでも、親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人の上に現れるためである。・・・」と。
そしてイエス様は地に唾し、泥を作って彼の目に塗り、「シロアムの池に行って洗いなさい」と言われた。エルサレムには、ほかにも池があった。しかしイエス様は「シロアムの池」と指定されたのである。それは、シロアムとは 『遣わされた者』 という意味であって、天の父から世の救い主として遣わされた主イエス・キリスト御自身を指しているからである。ゆえに人は皆、救われるために、シロアムなる主イエス様の許に行かなければならない。
彼は信仰をもって主の御言葉に従がい、杖を突き、手探りでシロアムの池へ行き、そして目を洗った。ああ何たる歓喜か! 彼は生まれて始めて光を見たのだ。
キリスト教には諦めはない。なぜか。神は生きておられるからだ。主イエス様は我らの罪の贖いのために十字架にかけられて死なれたが、聖書の預言に従い三日目に死人の中から甦り、天に昇られて、そこから聖霊を注いで我らの中に住んで下さるからだ。だから神は愛なのだ。生命なのだ。光なのだ。希望なのだ。
彼はイエス様を信じないパリサイ人から迫害を受ける。信ずれば除名するというのだ。しかし彼はこれらの人々に向って言った。
『我はただ一つの事を知る。即ち我さきに盲目たりしが、今見ゆることを得たる是なり』
ー25節ー と。
得たる確信の大きさよ。我らも彼のように大胆にイエス・キリストを証していこう。
聖餐式
● コリント前書10:16、17
17 パンは一つなれば、多くの我らも一體なり、皆ともに一つのパンに與るによる。
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観劇 イ オ ラ ン タ ーIolantaー
S 兄弟のお招きを受けて、札幌教育文化会館で開かれたチャイコフスキー作曲:歌劇 『イオランタ』 のリハーサルを観る機会を得た。
このたびは、S 兄弟の演出により、オペラ歌手と室内楽団員と人形劇役者の三者が一体になった劇作りである。日本では珍しいが、外国では表現の一手法として用いられているそうである。
主人公 『イオランタ』 は盲目の姫である。父レネ王に愛されて幸せな日々を送り、自分が盲目であることに気付かない。美しい音楽を聴いて涙が流れる。『目とは涙を流すためにあるの?』 と、レオランタは訊く。
やがて、騎士ボオデモンが姫の前に現れて花をささげるが、姫には花の色が見えない。盲目であると知ったボオデモンは、イオランタに 『光は美しいもの。神の創れるもの』 と告げる。
医師ハキアの治療を受けることになったイオランタ・・・・・。