道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2011年02月

P1000877__2  玄関ホール

1 ヱホバよなんぢは我をさぐり我をしりたまへり 2 なんぢはわが坐るをも立をもしり 又とほくよりわが念をわきまへたまふ 3 なんぢはわが歩むをもわが臥をもさぐりいだし わがもろもろの途をことごとく知たまへり  そはわが舌に一言ありとも 視よヱホバよなんぢことごとく知りたまふ 5 なんぢは前より後よりわれをかこみ わが上にその手をおき給へり 6 かかる知識はいとくすしくして我にすぐ また高くして及ぶことあたはず

私たちの神様、イエス様は何と偉大なな神様なのだろうかとこの聖言を読んで思う。

ナタナエルが無花果の樹の下に居るを見ていたイエス様(ヨハネ伝1:47~50)、ザアカイの名前を知っていたイエス様(ルカ伝19:1~10)、トマスの疑いの言葉を聞いていたイエス様(ヨハネ伝20:24~29) 主なる神、イエス様の前には何一つ隠れるものはない。

こういう神様によって救われた私たちである。何をくよくよする事があるだろうか。ああ信仰薄き者よとお言葉が返ってくる。イエス様を見上げて大きな気持ちを持って進もうではないか。

7 我いづこにゆきてなんぢの聖霊(みたま)をはなれんや われいづこに往きてなんぢの前をのがれんや・・・

ヨナは二ネべに行って罪を責めよという神の命に逆らってタルシシ行きの船に乗ったが、無事に行けたかというとそうではない。船は大嵐に遭い、彼は責任を取って海中に投げ出された。神のみ前に不従順では御旨を行うことができない。

彼は神が備えた大きな魚に飲まれて救われ、その腹の中で悔改めの祈りを神に捧げた。彼は浜辺に吐き出され、再び原点に立ち戻って二ネべに行くことにな\った。神は用いようと定めた者を用い給う。使徒パウロがそうであったように選びの器を主は興し給うのだ。

16 わが體(むくろ)いまだ全からざるになんぢの目ははやくより之をみ、日々かたちづくられしわが百體の一つだにあらざりし時にことごとくなんぢの冊(ふみ)にしるされたり 17 神よなんぢのもろもろの思念はわれに寶(たふと)きこといかばかりぞや そのみおもひの総計(すべくくり)はいかに多きかな・・・

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証 

南アフリカ連邦の首都プレトリアから手紙がきた.ビロンバ・アサ二という兄弟からである。

彼は、1999年にタンザニアのニャルグス難民キャンプで愛媛教会の前田稔先生や同行の先生方に導かれ、イエス之御霊教会の伝道により水と霊の救いを受け、その後、根本教義や世々の経綸、聖書神学を学んで教会の奉仕者となり、以来伝道に励んでいるという。

今は、南アフリカに住んでいて、家々を回り、喜んで迎え入れてくれる人たちに救いを伝え、安息日礼拝に伝道した人たちを導いてクリスチャンにしているのだと書かれてある。ついては霊讃歌や聖書の支援をしてくれまいかという内容だった。

では、なぜこの手紙が私たちの教会に送られてきたのか。

2007年11月に、前田稔先生方の第7回マラウイ伝道があって、道央教会から義哉師が同行した。その時は南アフリカのヨハネスブルグ経由でマラウイへ行ったのだが、乗り継ぎに待ち時間があったので、皆でこの兄弟に会うために尋ねて行った。本人は不在だったが、家族に会うことができ、福音を伝え救いがなされた。その時持ち合わせていた伝道文書を手渡したのだが、それを見てこのたび道央教会宛に手紙を送ってきたのだと推測する。

汝の糧食を水の上に投げよ 多くの日の後に汝ふたたび之を得ん -伝道11:1-

とは、こういうことだろうか。

支援をと言っても、アフリカの言語の霊讃歌も聖書も私たちは持ち合わせていない。

それよりも大切なことは何かと言うに、イエス之御霊教会は、それぞれ自給自足の教会である。空の鳥を見よと仰せになったイエス様の聖言に從い、人に頼らず神のみを見上げ、祈りの中に必要が満たされる体験をしていく教会である。アフリカの人たちもヨーロッパ伝来の物質主義に馴らされた教会であってはならない。真の教会とは霊なる教会であって、イエス之御霊教会とは、その名の如く御霊の教会であり、霊のものを与えていく教会なのだ。

ペテロ言ふ 『 金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め  ー使徒行伝3:6ー

兎にも角にも、これは証だ。御霊の実が結んでいると考えるべきだ。主が更に働き、御霊の実の繁からん事を願って、この兄弟から手紙が来た事をアフリカ伝道の使命のために心血を注いでおられる前田先生御夫妻にお伝えした。少しでも福音の前進の為に役立つと幸いである。

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聖餐式

● へブル書9:11~22

Photo_2  神戸

● 詩篇73:28

神につかづき奉るは我によきことなり われは主ヱホバを避所として そのもろもろの事跡(みわざ)をのべつたへん

神戸で開かれた 「2011年 関西大聖会」 でこの聖言を戴きました。

講壇に立たれた先生方が、それぞれの教会に為された活ける神の御業を語られました。癒しの證あり、また伝道の證あり、

此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん -ルカ傳2:49-

此のともがら黙さば、石叫ぶべし -ルカ傳19:40-

と、主は我らに御自身を證して行くことを求めておられます。我らも世界に向かって主を證して行けるように祈り求めて行かねばなりません

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聖餐式

● コリント前書10:16,17

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教会に新しく車が一台献げられました。

ダイハツの TANTO custom 4駆 フル装備の、エコ軽自動車です。伝道のために用いたいと願っています。 ハレルヤ!

Photo  ブドウの樹

へブル書2:3,4

3 我ら斯くのごとき大いなる救を等閑にして争でか遁るることを得ん。この救は初め主によりて語り給ひしものにして、聞きし者ども之を我らに確うし、4 神また徴と不思議とさまざまの能力ある業と、御旨のままに分ち與ふる聖霊とをもて證を加へたまへり。

主は、先ずニコデモに 「新生の道」 を語られた。

「まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生れずば、神の國に入ること能はず。」 -ヨハネ傳3:3-

と。

そして使徒たちは此れを伝承した。

「なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦を得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖霊の賜物を受けん。この約束は汝らと汝らの子らと凡ての遠き者、即ち主なる我らの神の召し給ふ者とに属くなり」 ー使徒行傳2:38,39ー

今日、聖書の預言に從って末の日に日本に出現した我ら 「イエス之御霊教会」 もまた此れを受け継ぐ者である。

● テトス書3:4~8

4 されど我らの救主なる神の仁慈と人を愛したまふ愛との顕れしとき、5,6 我らの行ひし義の業にはよらで、唯その憐憫により、更生の洗と我らの救主イエス・キリストをもて、豊に注ぎたまふ聖霊による維新とにて我らを救ひ給へり。

人が救われるのは、或る人々がただ信ずれば救われると言うが如きものではなく、神の愛と憐みにより、更生の洗 (水のバプテスマ) と、聖霊による維新 (聖霊のバプテスマ) に与ること、即ち 「水と霊のバプテスマ」 を受けることによって人は救われると聖書は教えている。これが確かなる救いである。この則に從って歩む者に幸いあれ!

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聖餐式

● へブル書2章より

9 イエスの死の苦難を受くるによりて榮光と尊貴を冠らせられ給へるを見る。これ神の恩恵によりて萬民のために死を味ひ給はんとてなり。10 それ多くの子を光榮に導くに、その救ひの君を苦難によりて全うし給ふは、萬の物の帰するところ、萬の物を造りたまふ所の者に相應しき事なり。

14 子等はともに血肉を具ふれば、主もまた同じく之を具へ給ひしなり。

Photo 鐘突堂

● マタイ伝6:25-34

31 何を食ひ、何を飲み、何を著んとて思ひ煩ふな。32 是みな異邦人の切に求むる所なり。汝らの天の父は凡てこれらの物の汝らに必要なりを知り給うなり。33 まづ神の国と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。

水と霊のバプテスマを受けて救われた我らクリスチャンは神の子供である。

汝らの父は求めぬ前に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。ー同6:8ー 

と主イエスは仰せになった。

イスラエルの民は、荒野の旅で食べ物がないと呟いた。モーセが祈り、神は応えて彼らにマナの与えて生かしめた。肉がないと言えば鶉が舞い降りてきた。また水がないと言えば、岩を打って水が出た。こうして神は彼らを生かしめたが、呟きの故に神の怒りを買い滅ぼされていった。

クリスチャンは斯くあってはならぬ。我らは神に祈れば応えられることを知っている。その体験がある。

鴉の子神にむかひて呼はり 食物なくして徘徊る時 鴉に餌を與ふる者は誰ぞや -ヨブ記38:41ー 

と神は言い給うた。

汝の口をひろくあけよわれ物をみたしめん・・・・神はむぎの最嘉をもてかれらをやしなひ磐よりいでたる蜜をもて汝をあかしむべし -詩篇81:10下、16ー 

と、アサフは歌い、

なんぢの口を、嘉物にてあかしめたまふ斯くてなんぢは壯健ぎて鷲のごとく新になるなり -詩篇103:5- 

と、ダビデは詠った。これ皆体験から出ている言葉である。

我らクリスチャンは、今の困難な時代にあっても世界の経済動向や、物価の変動に振り回されず、その時々に凡てを知り給う神が必要を満たして下さることを信じて祈って行けばそれで良いのである。

我らは、物欲に対して超然たれ!

11 われ窮乏によりて之を言ふにあらず。我は如何なる状に居るとも、足ることを學びたればなり12 我は卑賤にをる道を知り、富にをる道を知る。また飽くことにも、飢うることにも、富むことにも、乏しき事にも、一切の秘訣を得たり。13 我を強くし給ふ者によりて、凡ての事をなし得るなり。 -ピリピ書4:11-13- 

と、パウロは体験を記している。

同時に、我らは神の聖言に聴き従うことが、大切である。

● 神第一の生活をすること。

まず神の國と神の義を求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし

である。

● 什一献金をささげること。

信仰の父、アブラムが至高き神の祭司メルキゼデクより祝福を受けた時に諸ての物の什分の一を饋(おく)った様に、神の殿に奉げるならば、神は天の窓を開いて容るべきところなきまでに恩澤をそそぐと約束された。-マラキ書3:10-12-

● パン問題に対しては、養い給う神に対する確固たる信仰を持って進もう。

譏饉(うえどし)の日にもあくことを得ん ー詩篇37:19下ー

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聖餐式

● 詩篇37:7-9

● イザヤ書59:16

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