道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2011年03月

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  インドネシアイエス之御霊教会         洗礼式場

● マルコ伝16:15

『全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣伝へよ』

インドネシア大聖会に主が与えられた聖言である。

教会の講壇と、会場のホール正面に日本語とインドネシア語で掲げられていた。

主イエス・キリストが使徒たちに、また我らに命じられた聖言である。忠実にこの聖言を実行するのが我らの使命である。

御再臨近き今、我らはいよいよ使命感に立って前進していきたいと思うのである。

● マタイ伝24:7~14

・・・また處々に飢饉と地震とあらん、これ等はみな産みの苦難の始なり・・・

御国のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傳へられん、而して後、終は至るべし。

インドネシア教会の牧師パルリアン先生が、大聖会と大聖会の前後の安息日礼拝で開かれた聖言である。

日本の地震と津波による大震災の状態は、インドネシアでもそのままテレビで見ることができた。大変な災害が日本を襲った。世界の目が日本に注がれた。大聖会でもこの話題が語られた。

津波による福島第一原発の事故は、放射性物質の拡散を生み猶予すべからざる状況になっている。誰もが心を痛めている出来事だ。こういう時に直接であれ、間接であれ何かをしたいと誰もが思っている。自分にとって何をすべきだろうか。

教会にとって時代を超えて不変なものは、救いの福音を宣伝えることだ。この使命に生きることが真の教会の行うべきことだ。我らは真の福音 ”水と霊” を宣伝えることを躊躇してはならぬと思う

● ヨハネ第一書3:16~18

主は我らの為に生命を捨てたまへり、之によりて愛といふことを知りたり、我等もまた兄弟のために生命を捨つべきなり・・・若子よ、われらは言と舌とをもて相愛することなく、行為と真実とをもて為べし。

札幌と松戸で人工透析の医療法人クリニックを開いているH兄姉。このたびの大震災で病院が被害を受けた宮城県の患者さんを松戸のクリニックと養護施設に受け入れることになった。

行政からの早急な要請であったが、国内トップクラスの透析医療機器と、養護施設を備え、熟練したスタッフがいて受け入れ態勢は申し分ない。故郷を遠く離れて見ず知らずの地に来られる患者さん方が、安心して透析治療を受けられるよう祈りを持って励んでおられる。いろいろと大変な御苦労もあることだろう。私たちも祈りを以って支えていきたく思う。

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聖餐式

● コリント前11:23~26

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感謝!

昨日と今日の二日続けて聖霊待望会と洗礼式が行われた。昨日は兄弟。今日は姉妹である。それぞれ主に從って歩み、祝福を受けて素晴らしい人生が与えられるように願って止まない。

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道央イエス之御霊教会-設立感謝祭・祝福祭ー1981.3.21

  道央イエス之御霊教会設立30周年・新会堂献堂10周年 

             感 謝 集 会   3月19,20日

● 詩篇16:6

準縄(はかりなわ)はわがために楽しき地におちたり 宜われよき嗣業(ゆづり)をえたるかな

1981(昭和56)年3月21日、23年間伝道した江別から、札幌市白石区の現在地に移り、道央イエスの御霊教会を設立した。この地は牧師の両親が居宅(上の写真)を建て、空地に教会建設を願って20年間祈り続けていた土地である。

同年6月29日、村井スワ監督によって、道央イエス之御霊教会設立感謝祭・祝福祭が行われた。

1983(昭和58)年、北海道知事によって宗教法人の認可を受け、1986(昭和61)年、最初の会堂建設を行い、翌年1月22日村井スワ監督によって献堂式が行われた。    

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最初の会堂・献堂式ー1987.1.22

この間、1991(平成3)年より10年間、北海道大聖会の主催教会として用いられた

また、4名の献身者が与えられ、現在各地で牧師として主の御用をしている。

● イザヤ書56:7

わが家はすべての民のいのりの家ととなへらるべければなり

1997年頃より 「祈りの家、大聖会、伝道」の3本の柱を立て、新会堂建設の必要性を感じて祈り始めた。

2000年6月の北海道大聖会を機に新会堂建設の道が開かれ、資金が与えられ、同年9月着工し、12月竣工した。

翌2001年3月20日、村井純基監督司式により献堂式が挙行された。

● エゼキエル書6:60

我汝の若かりし日に汝になせし契約を記憶(おぼ)え 汝と限りなき契約をたてん

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献堂10周年を迎えた現在の会堂・2008年に撮影 

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聖餐式

● マタイ伝26:17~30

P1000902  地震の惨状を報じた北海道新聞

● マタイ伝24:3~14

7 民は民に、国は国に逆ひて起たん。また処々に鐖饉(ききん)と地震とあらん、 これ等はみな産の苦難の始なり。

★ 昨日の午後2時46分に起きた地震、外出先でゆらゆらと5分以上も長く揺れた。教会に帰ると余震があった。テレビを点けて見るとマグニチュード8.8もある巨大地震だった。(13日に気象庁が9.0に修正した。1900年以降世界で4番目とのこと。最大級の地震である)。

震源は岩手県沖から茨城県沖まで、南北500キロ、東西200キロもある。明治以来観測史上最大の大型地震だという。

間もなく自衛隊のヘリコプターによる空撮が始まり、津波が仙台市の南、名取川を遡る様子がでた。防潮堤を乗り越えた大津波は、船も、家も、車も、何もかも根こそぎ押し流していく。田も、畑も、先祖伝来の地をお構いなしに飲み込んでいく。ただ息を呑んで見つめるばかり・・・。

火災、停電、通信不通,更に大きく壊滅的な被害を受けた町々もある。亡くなった人、行方不明の人が多く、言うべき言葉もない・・・。

首都圏の交通機関が止まり、歩いて家路につく人、施設に泊まる人、正に未曾有のできごとだ。

地震で自動停止した福島第一原発も、津波による被害を受けて憂慮される。放射能の問題もある上、電力不足に陥る心配もある。

地震の名称も被害の様相が分かるに從って変わり、最初は気象庁が発表した「東北地方太平洋沖地震」だったが、マスコミの多くは「東日本大震災と」と呼び、NHKは 「東北関東大震災」と呼んでいる。いづれ正式名称が決まるのだろうが、国難ともいうべき大災害だ

教会でも礼拝に集った皆さん一様に心を痛めている。被害に遭われた方々が希望を失わず、一日も早く復興されるように祈った。

証1

今日、安息日礼拝に集われたO姉妹に、友人のTさんから、東北地方に住む付き合い中のS君とこの度の地震で連絡が取れなくなり、心配していると話があった。

O姉妹がTさんに 「教会に来て救われて、無事をお祈りしたら良いよ」 と言ったら、「行くよ」 と返事があった。「聖霊と洗礼を受けたら良いよ」 と言うと、「受ける」 という。

間もなくTさんが教会にやって来られた。

すなおな方だ。お祈りをしたら涙を流している。無理もない。

イエス様から聖霊を頂き、牧師と一緒に、きりっと身に染みるほど冷たい水に入って主イエス・キリストの名による洗礼を受け、洗足式を受けて救われた。

夜になって、救われたT姉妹から、S君と連絡がとれたと喜びのメールがO姉に来た。

O姉妹から教会に知らせのメールが入って、ハレルヤとなった。

証2

昨日の地震後、K姉妹から教会に電話があり、「主人 (単身赴任で仙台にいる) から車で市内から仙台空港に向かう途中、あと5分で空港という所で、ラジオで津波予報があり、高台の方に避難すると連絡があった。心配だからお祈りしてください」 とのこと教会で家族一緒にご主人の無事安全を祈った。

夕方になり、K姉妹から教会に電話があった。御主人から無事仙台市内に戻ったと携帯で知らせがあってホットしたとのこと。

テレビで仙台空港が津波に呑まれ、ターミナルビルが陸の孤島になった映像を見てショック! 

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聖餐式

マタイ伝26:17~30

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祈り

インドネシア大聖会が15,16日に開かれる。主が祝し給わんことを祈る

道央教会からは義哉師が出席する。

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[E:downwardright] 節 電!

菅総理が国民に向けてテレビで節電を呼びかけた。(13日)

福島第一原子力発電所の地震と津波による事故を受けて、復旧まで長期間かかるとみて、東京電力では「計画停電」を実施することに。併せて政府が節電を要望した。危機的状況から一刻も早く脱却できるよう願うところである。

地方の我々も痛みを分かち合って節電するのは良いことと思う。

P1000885_2  冬に逆戻り!

● ヨハネ伝6章より

63 活すものは霊なり、肉は益する所なし、わが汝らに語りし言は、霊なり生命なり

68 シモン・ペテロ答えふ 『 主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝にあり。 69 又われらは信じ、かつ知る、なんじは神の聖者なり』

★ イエス・キリストがユダヤ人の会堂で、人々を前にして御自分を指して言われた。 

我は天より降りし活けるパンなり、人このパンを食はば永遠に活くべし、わが與ふるパンは我が肉なり、世の生命のために之を與へん -51節-

これを聞いたユダヤ人は、たがいに争って言った。

この人はいかで己が肉を我らに與へて食はしむることを得ん -52節

そこで主は更に言葉を進めて言われた。

わが肉は真の食物、わが血は真の飲物なり -52節ー

と。

主イエス・キリストは、霊ーこれこそ真実ーの意味で言われたのだが、ユダヤ人はこれを悟り得ず、肉により世の常識に当てはめて聞いたが故に、主の語り給いしことの真意が分からなかったのである。

コリント前書2章には、我らの語るところは、この世の智慧によらず、奥義を解いて神の智慧を語るとある。凡そ神に関することは、世の智者、学者には理解し得ないものである。なぜなら、彼らは頭で理解しようとするが、神の世界は聖霊に由って啓示されなければ到底悟り得ないからである。

主イエス・キリストが、ご自身を十字架上に献げ、身を裂き、血を流す事によって、世界萬民を罪より救い給うとは、何人も考え付かない神の智慧であり計画であった。

弟子たちの一部にも主イエスのお言葉を悟ることができない者たちがいて

「実にひどい話だ。だれが、こんな話を聞いていられようか」 -60節ー新共同訳ー

と言いだした。

彼らはイエスを離れて去り、世に返って再びイエスと共に歩まなかった。

霊の事に目が開かれぬとは悲しいことである。しかしこういう運命も世の始めの先から定まっていたことと言えよう。彼らは選ばれていなかったのである。

聖霊は、吹き分ける霊である。風が籾ともみ殻を吹き分けるように、また羊と山羊が分けられるように、霊なる者と肉なる者は分けられるのである。

我らはしっかりと主イエス・キリストに結びつき、主に従い、御霊の実を結ぶ者でなければならない。

主は十二弟子に言われた。

『なんぢらも去らんとするか』 -67節ー

と。

ペテロは答えて言った。

『主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝にあり。又われらは信じ、かつ知る、なんぢは神の聖者なり』 -68,69節ー

と。 アメン

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聖餐式

● コリント前書11:23~26

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