道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2011年04月

     A 早春の北大構内

       選ばれたる族

されど汝らは選ばれたる族(やから)王なる祭司・潔き國人・神に属ける民なり、これ汝らを暗黒より召して、己の妙なる光に入れ給ひし者の譽を顕させん爲なり。なんぢら前には民にあらざりしが、今は神の民なり。前には憐憫を蒙らざりしが、今は憐憫を蒙れり。 -ペテロ前2:9,10-

昨夜、英国王室の結婚式のライブを観た。将来国王となるであろうウイリアム王子と結婚するのは、一般庶民の出のキャサリン・ミドルトン姫。大学で知り合い、8年間の交際を経てこの日を迎えた。

キリストと教会の関係は、新郎と新婦との関係を描いている。王であり新郎たるイエス・キリストが、世の中から新婦となる教会を選んで下さった。キリストは教会を限りなき愛をもて愛し、教会はキリストを愛し從う。夫婦は二人にあらず一体なる如く、キリストと教会は、一体である。

               震 は れ ぬ 國

されど今は誓ひて言ひたまふ『我なほ一たび地のみならず、天をも震はん』と。此の『なほ一度』とは、震はれぬ物の在(のこ)らんために、震はるる物すなはち造られたる物の取り除かるることを表すなり。この故に我らは震はれぬ國を受けたれば、感謝して恭敬(うやうやしき)と畏懼(おそれ)とをもて御心にかなふ奉仕(つとめ)を神になすべし。 -へブル書12:26~28-

今の世界は、様々な出来事で震われている。天災あり、人災あり、戦いあり、この度のような地震あり、津波あり、思いもよらぬ出来事が次々起きている。どうすれば、安全なのか、安心できるのか。人は思い、また惑う。先ず、神が定めた御救いに入ることが何よりも大切だ。神はそのことに早く気付くよう呼びかけておられる。

やがて今の天と地は過ぎ去り、新しき天と地が造られ、我らをそこに住まわせると聖書は預言している。これぞ震われぬ國である我らは、神の國を継ぐ保證として約束の聖霊で印せられた。此の國に多くの人たちが入って頂くために伝道することが大切だと思う。

聖餐式

彼は我らの罪のために宥の供物たり、啻に我らの爲のみならず、また全世界の爲なり。 ーヨハネ第一書2:1,2ー

Photo 芽生え

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人もし死ば また生んや ーヨブ記14:14ー

とヨブは、我らに問かけている。

或る人々は、人は死んだらそれで終わりと思っている。だから面白可笑しく生きて、ハイ、さようならと、太く短く人生を過ごせば良いのだ考えている。果たしてそうだろうか。

ヨブの次の言葉に耳を傾けよう。

われ知る 我を贖ふ者は活く 後の日に彼かならず地の上に立ん わがこの皮この身の朽はてん後 われ肉を離れて神を見ん 我みづから彼を見たてまつらん 我目かれを見んに識らぬ者のごとくならじ 我が心これを望みて焦る   -ヨブ記19:25~27-

ヨブは、大変な病苦と試練の中で、やがて贖い主であるイエス・キリストが来られ、自分が主の御前に立つ日が来る。故に己の身がたとえ朽ち果てようとも、復活した新しい栄光體を頂き、その目を以って主を拝することができると希望を持っていたのである。これこそ復活を待ち望む信仰である。

神に対して永遠の生命を求めることこそ、人間の最大の所領となる。世の富も光榮もそれに比べれば塵灰に等しいものだ。

ラザロが死んだ時、主はマルタとマリヤを訪ね、『汝の兄弟は甦るべし』 と言われた。マルタが 『終りの日、復活の日に甦るべきを知る』 と言うと、主は、

『我は復活なり、生命なり、我を信ずる者は死ぬとも生きん。凡そ生きて我を信ずる者は、永遠に死なざるべし。汝これを信ずるか』 と言われた。-ヨハネ伝11:25,26-

そして、墓の中に眠るラザロに対し、一声高く 『ラザロよ出で来たれ』 と命じて、死人の中から甦らせたのである。

コリント前書15章は「福音の章」であり、また「復活の章」である。茲には、まづキリストの復活があり、次いでキリストに属する聖徒の復活があると記してある。即ち我ら真の教会に連なる者の事である。

視よ、われ汝らに奥義を告げん、我らは悉く眠るにはあらず、終りのラッパの鳴らん時みな忽ち瞬間に化せん。ラッパの鳴りて死人は朽ちぬ者に甦り、我らは化するなり。 -51,52節-

主の再臨の日は、信仰によりて善を為せし聖徒にとって生命に甦る日であり、肉体の贖われる日である。而してその運命は、

彼らは生きかへりて千年の間キリストと共に王となれり。(その外の死人は千年の終るまで生かへらざりき) これは第一の復活なり。幸福なるかな、聖なるかな、第一の復活に干る人。この人々に對して第二の死は権威を有たず、彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年のあひだ王たるべし。 ーヨハネ黙示録20:4~7ー

汝ら之を怪しむな。墓にある者みな神の子の声をききて出づる時きたらん。善をなしし者は生命に甦り、悪を行ひし者は審判に甦へるべし。-ヨハネ伝5:28,29-

今や我等は、その日のために予め救いの保証を戴いた。即ち聖霊の賜物である。これは奥義である。

此の奥義は汝らの中に在すキリストにして榮光の望なり。-コロサイ書1:27-

汝らと共に我らをキリストに堅くし、且われらに御霊を給ひし者は神なり。神はまた我らに印し、保証として御霊を我らの心に賜ヘリ。-コリント後1:21,22-

我らを此の事に適ふものとなし、その證として御霊を賜いひし者は神なり。ー同5:5ー

汝らもキリストに在りて真の言、すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これは我らが受くべき嗣業の保証にして、神に属けるものの贖はれ、かつ神の榮光に誉あらん爲なり。 -エペソ書1:13,14-

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聖餐式

コリント前書11:23~26

Img006_4  霊讃歌25番 主の酒杯

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『わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給へ。されど我が心の儘にとにはあらず、御意のままに為し給へ』 ーマタイ伝26:39ー

主イエス・キリストは我らの罪の贖いのために身を献げんとて、ゲッセマネの園で汗を血の雫のように流して祈られた。

イザヤ書53章には、主イエス・キリストの十字架の死が預言されている。

かれは虐待と審判とによりて取去られたり その代の人のうち誰か彼が活るものの地より絶れしことを思ひたりしや 彼はわが民のとがの爲にうたれしなり -8節-

また、主イエス御自身もこれを預言し、主を十字架に釘付けする事に組した大祭司カヤパさえも次のように預言している。

『視よ、我らエルサレムに上る。人の子は祭司長・学者らに付されん。彼ら之を死に定め、また嘲弄し、鞭ち、十字架につけん爲に異邦人に付さん、斯くて三日目に甦るべし』 -マタイ伝20:17~19- 主イエス・キリストの預言

『なんぢら何をも知らず、ひとりの人、民のために死にて、國人すべての滅びぬは、汝らの益なるを思はぬなり』 これは己より云へるに非ず、この年の大祭司なれば、イエスの國人のため、又ただに國人の爲のみならず、散りたる神の子を一つに集めん爲に死に給ふことを預言したるなり。 -ヨハネ伝11:49~53- カヤパの預言とヨハネの解説

救いの御業は、主イエス・キリストの外、何人も為し得ない。またその資格もない。正に救いは、主のお独り舞台である。

たれ一人おのが兄弟をあがなふことあたはず 之がために贖價(あがなひしろ)を神にさゝげ 之をとこしへに生存へしめて朽ざらしむることあたはず  ( 霊魂(たましひ)をあがなふには費いとおほくして 此事をとこしへに捨置ざるを得ざればなり)  ー詩篇49:7~9ー

ヱホバは人なきをみ 中保(なかだち)なきを奇しみたまへり 斯くてその臂(かひな)をもてみづから助け その義をもてみづから支へたまへり  ーイザヤ書59:16ー

十字架まで從える者は一人もいなかった。ペテロでさえ主の弟子であることを否んだ。

主はピラトに、我が国はこの世のものならずと言い、真理について証せんために世に来たと言われた。

極悪人バラバに代わって死刑の判決を受けた。同時に罪ある全ての人の為である。

苦痛の十字架上にあって、母と愛する弟子を見、母には、

『をんなよ、視よ、なんぢの子なり』

と言い、弟子には、

『視よ、なんぢの母なり』

と言って跡を託された。その優しさよ。

相共に十字架に掛けられた罪人の

イエスよ、御國に入り給ふとき、我を憶へ給へ』

との信仰の叫びに

『今日なんぢは我と偕にパラダイスに在るべし』  -ルカ伝23:42,43-

と約束された。

十字架上で最後の言葉は 、

『事畢りぬ』  ーヨハネ伝19:30ー

であった。人としての主は、御旨を全うされたのである。 

我キリストと偕に十字架につけられたり。最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり。今われ肉體に在りて生くるは、我を愛して我がために己が身を捨て給ひし神の子を信ずるに由りて生くるなり。 -ガラテヤ書2:20-

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聖餐式

キリストも汝らの爲に苦難をうけ、汝らをその足跡に随はしめんとて模範を遺し給へるなり。彼は告藻を犯さず、その口に虚偽なく、また罵られて罵らず、苦しめられて脅かさず、正しく審きたまふ者に己を委ね、木の上に懸りて、みづから我等の罪を己が身に負ひ給へり。これ我らが罪に就きて死に、義に就きて生きん爲なり。汝らは彼の傷によりて癒されたり。  -ペテロ前書2:21~24-

Narudoa  ナルドの香油

● ヨハネ伝12:1~8  マルコ伝14:3~9

マリヤは價高き混りなきナルドの香油一斤を持ち来たりてイエスの御足にぬり、己が頭髪にて御足を拭ひしに、香油のかをり家に満ちたり・・・。

イエス言ひ給ふ 『・・・此の女は、なし得る限りをなして、我が體に香油をそゝぎ、預じめ葬りの備をなせり。誠に汝らに告ぐ、全世界、何處にても、福音の宣伝へらるる處には、この女の為しし事も記念として語らるべし』

主イエス・キリストが、弟子たちと共にベタニヤに行き、食事の席に招かれた時、ラザロの姉妹マリヤが、手にナルドの香油の入った石膏の壺を持ってきて、その壺を毀して、香油をイエスの頭に注ぎ、足にぬり、自分の頭髪をもって拭ったのであった。

主イエスを、祭司長らに売り渡そうと企んでいたイスカリオテのユダがこれを見て、お金欲しさから、『なに故かく濫りに油を費すか、この油を300デナリ余りに売りて貧しき者に施すことを得たりしものを』と言って、彼女を咎めたとある。

主は諫めて『この女の為すに任せよ、我が葬りの日のために之を貯へたるなり』と言われた。

ナルドの香油とは高価なものである。ヒマラヤの高地に自生する甘松香の多年草で、その根を水蒸気蒸留して抽出した香料で香りをつけた油である。

ソロモン王は、これを愛用し(雅歌1:12)、王妃たちや側女たちの園に植えた(雅歌4:13,14) 。謂わば王侯貴族が用いた高価な香油であった。

マリヤはそれを一斤(160匁=600g)持っていたのである。価格にして300デナリ=ローマの兵士の300日分の給料に相当する額である。

彼女にとって貴重な寶であっに相違ない。しかしマリヤはイエス様の葬りの備えのために、己が持ち物の至良き物を惜しげもなく全てを献げたのである。日頃主イエスの気高く深い神聖な愛を受けていたマリヤは、最高の物をささげて主の愛に報いたのだった。

マルコ伝12:41~44で、主は、レプタ二つを献げた貧しき寡婦は、富める人が豊かな持ち物の中から献げたよりも多くのもの、即ち生命の代を献げたのだと弟子たちに語られた。

また、アブラハムも、主が、独子イサクを燔祭に献げよと命じた時、その言葉に從いモリア山にイサクを連れて行き献げんとした。主は彼の信仰を喜び、イサクの代わりに羔を備え、誓いをもて彼を祝み、子孫を増し、その裔なる主イエス・キリストによって世界万民に幸いを与えると約束された。(創世記22章より)

我等も己が至清き心と体とを主に献げ、その栄光を顕わすものでありたい。

ロマ書12:1,2

されば兄弟よ、われ神のもろもろの慈悲によりて汝らに勧む、己が身を神の悦びたまふ潔き活ける供物として献げよ、これ霊の祭なり。又この世に效ふな、神の御意の善にして悦ぶべく、かつ全きことを瓣へ知らんために心を更へて新にせよ。

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聖餐式

● ヨハネ第1書 4:9,10

Photo  窓辺の花

● 詩篇100篇より

知れヱホバこそ神にますなれ  われらを造りたまへるものはヱホバにましませば 我らはその属(もの)なり  われらはその民 その草苑(まき)のひつじなり

大牧者であるイエス様は、兄弟姉妹の祈りに応えて祝福してくださいます。

● S兄弟のお母様が83歳で召された。25年ほど前になるであろうか、兄弟が救いに導いたお母様である。父親は早くに亡くなり、このたび母親が亡くなったのに不思議と心は平安であるという。天国に行ったのだから悲しい筈はない。生きるも死ぬるも共に神の子どもだ。水と霊を受けて救われているということは実に幸いだ。

イエス様は言われた

「わが父の家には住処(すみか)おほし・・・われ汝らの為に処を備えに往く。もし往きて汝らの為に処を備へば、復きたりて汝らを我がもとに迎へん、わが居るところに汝らも居らん為なり」と。       -ヨハネ伝14:2,3-

● M兄弟は、6年前高校の教頭試験を受けられた。教会に来られ祈りを共にした。見事合格して道東の進学高校の教頭になられ、その後別の高校に移られた。行く先々で祝福祭を行った。

昨年、校長試験に挑み、教会に来られ再度祈りを共にした。そして今春札幌の高校の副校長となり着任された。

兄弟の陰にあって、先に救われ、兄弟を救いに導いた奥様である姉妹の信仰が光る。地方にいても札幌に来られる時は、必ず教会と親元には来られた。この度も新しい校宅での祝福祭がなされることになっている。

挙ることは東よりにあらず 西よりにあらず また南よりにあらざるなり ただ神のみ審士(さばきびと)にましませば 此れをさげ 彼をあげたまふ -詩篇75:6,7-

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聖餐式

● マタイ伝26:17~30

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