道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2011年06月

:2011年6月25日

 Photo   金の生る木か、生らぬ木か?

      Img023 

ヤベヅはその兄弟の中にて最も尊ばれたる者なりき その母我くるしみてこれを産たればといひて その名をヤベヅ(くるしみ)と名けたり  ヤベヅ、イスラエルの神に龥(よば)はり 我を祝福(めぐみ)に祝福て我が境を擴(おしひろ)め 御手をもて我を助け 我をして災難に罹りてくるしむこと無らしめたまへと言り 神その求むる所を允したまふ  ー歴代志略上4:9,10ー

ヤベヅの母は超難産で苦痛のため息も絶え絶えに子を産み落とした。そこでその子の名を苦難を意味する「ヤベヅ」と名付けたと云うのだ。

普通の親ならば、その子の将来を祝福する意味で、ふさわしい良い名前を名づけるだろう。ひょっとしたらヤベヅの父親や祖父母は、それなりに良い名前を考えていたかもしれない。

それがである。

苦しみ悶えて産んだ母親本人が、私がこれ程苦しんで産んだのだから絶対にこの子の名を「ヤベヅ」と付けると言い張った時に、誰も反対はできなかったことだろう。

でも、一旦付けられた名前は一生続くものである。嫌だからと言って変更できるものではない。

一番大変だったのはヤベヅ本人だっただろう。誰だって「苦しみ」と云う名を一生背負って生きて行きたくはない。彼はその名のためにどれほど悩んだことだろう。

けれども、彼には拠り頼む神がいた。彼は声を振り絞って神に祈り求めた。

「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いから私を守り、苦しみから遠ざけてください」  ー新共同訳ー

と。

この祈りを神は聞きいれてくださった。そして彼は栄える者となった。それで兄弟たちが彼を尊敬したというのである。

もしも彼の名がヤベヅではなく、他の良い名であったなら彼はこのような祈りをすることもなく、平凡な人生を歩んだかもしれぬ。

そう考えると信仰者にとって意味のないものは一つもない。このこと無かりせば、斯く成らじと、凡てが感謝に変えられていくのである。

神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る.  -ロマ書8:28-

もう一つ開いた聖言を記そう。

見よ、わたしの見たことはこうだ。神に与えられた短い人生の日々に、飲み食いし、太陽の下で労苦した結果のすべてに満足することこそ、幸福で良いことだ。それが人の受けるべき分だ。神から富や財宝をいただいた人は皆、それを享受し、自らの分をわきまえ、其の労苦の結果を楽しむように定められている。これは神の賜物なのだ。彼はその人生の日々をあまり思い返すこともない。神がその心に喜びを与えられるのだから。  -伝道之書・新共同訳コヘレトの言葉5:17~19-

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聖餐式

● マタイ伝26:17~30

:2011年6月18日

 Photo_4  神は小き光に夜を司らしめたまふ

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第七日に神その造りたる工を竣たまへり 即ちその造りたる工を竣て七日に安息たまへり 神七日を祝して之を神聖めたまへり 其は神その創造爲たまへる工を盡く竣て是日に安息みたまひたればなり   -創世記2:2,3-

視よわれ新しき天とあたらしき地とを創造す 人さきのものを記念することなく之をその心におもひ出ることなし・・・わが造らんとする新しき天とあたらしき地とわが前にながくとゞまる如く なんぢの裔となんぢの名はながくとゞまらん ヱホバいひ給ふ新月ごとに安息日ごとによろずの人わが前にきたりて崇拝をなさん  -イザヤ書65:17; 同66:22,23-

神は、創世の始めに6日働かれて宇宙の全てを創造され、これを善と観て7日目に安息(やす)み、聖別された。これが神の定められた安息日の謂れである。それ以来、安息日が7日目(今日の土曜日)であることは、世が如何に変わろうと上記のイザヤ書の聖句が記す如く永遠に不変である。

世には、日曜日が安息日であると主張する人々がいる。かなり多数の人がそう思っているであろう。しかし、此れはローマ発祥の視野の狭い観方であり、根本的に間違った教義である。

その起源は、ダニエル書7:25の預言にある如く、一人の悪王出でて、

彼またとを変んことを望まん

とある如く、を変えたとは、紀元321年にローマ皇帝コンスタンチヌス1世が日曜休業令を発布し、土曜安息日を日曜日に変えたことによる。これは彼がキリスト教を普及するに当たり、イタリアの拝日教と迎合した結果である。

また変えたとは、本来偶像を否定する教会に、カトリック教会がイエス・キリストや母マリヤ、聖人などの彫像を置き、見える形の信仰の表徴となしたことを指している。その原因は、教会が真理から外れ、霊なる神を見失ったことによる。

神は霊なれば、拝する者も霊と真とをもて拝すべきなり  -ヨハネ伝4:24-

と、主イエス・キリストが教えられた不変の真理を銘記すべきである。

旧教でカトリック教会と並び称されている正教はどうかと云うに、例えばロシア正教のあるロシアでは、7曜を日曜日・・・、土曜日とは呼ばない。週の第1日は「Img022_2 バスクリッセーニエ復活の日」であり、第7日は「Img021 スボータ安息」である。この方が聖書に近いのではなかろうか。これは彼等がローマ帝国の支配に置かれず、その影響を受けなかったからだと思う。

所謂、日曜日は、①週の初めの日であり、②イエス・キリストが復活された日であり、➂聖霊降臨の日である。その意味では意義がある。しかし聖書の何処にも第1日が安息日に変わったなどとは記されていない。

イエス之御霊教会が安息日礼拝をおこなっているのを見て、旧約の時代に逆行していると評する人々がいる。しかしこの批判は当たらない。

我々は所謂モーセの十戒にあるような戒律的な安息日を守っているのではない。神がこの日を守る者に対して与えると約束された祝福に与るためである。そこのところを間違えないようにして頂きたい。

敢えてモーセがイスラエルの民に語った言葉を借りて言うならば、

汝誌ゆべし 汝かつてエジプトの地に奴隷たりしに 汝の神ヱホバ強き手と伸べたる腕をもて其処より汝を導き出したまへり  是をもて汝の神ヱホバなんぢに安息日を守れと命じたまふなり   -申命記5:15-

と、エジプトの圧政下で長い間奴隷として苦痛を味わってきた彼らが、今や神の力ある御手によって苦役から解放され、自由を得た事実を忘れぬように、寧ろ神より受けた恩寵を感謝して生きていく行くように、之を覚え、記念するために安息日が定められたとモーセが教えている事を着目すべきだと思う。

これは、主イエス・キリストが多くの病める者を癒し、苦しめる者を助けたに拘らず、分からず屋のパリサイ人から 「律法を犯す者」 と批判された時に、主は律法によって審くべきにあらず、憐憫を好むべきと答えられたことに合い通ずるものである。

   それ人の子は安息日の主たるなり  ーマタイ12:8ー

との主イエス・キリストの聖言の真意を解するならば、自ずと安息日の恵みの深さ、高さ、広さの何たるかを知るであろう。

また重ねて言うが、我らが安息日礼拝を持つ大きな理由は、イザヤ書58:13,14を読めば良く分かる。

もし安息日になんぢの歩行をとゞめ 我聖日になんぢの好むわざをおこなはず 安息日をとなへて楽日となし ヱホバの聖日をとなへて尊むべき日となし 之をとふとみて己が道をおこなはず おのが好むわざをなさず おのが言をかたらずば その時なんぢヱホバを楽しむべし ヱホバなんぢを地のたかき処にのらしめ なんぢが先祖ヤコブの産業をもて汝をやしなひ給はん こはヱホバ口(みくち)より語りたまへるなり

我らは、安息日に礼拝を献げることにより、神御自身から豊かな祝福を受けることができると約束されているのである。

          *    *    *    *    *    *    *    

ちなみに、道央イエス之御霊教会では、土曜日に安息日礼拝を行い、日曜日は、主の復活を覚えて日曜聖会を開いています。また職業上平日が休日の方には、礼拝とは別に、その日にお出で頂くことを歓迎しております。

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聖餐式

● コリント前書11:23~26

:2011年6月11日

 003 きんぐさり

         施    儕

信じたる者はみな偕に居りて諸般の物を共にし、資産と所有とを賣りて各人の用に從ひて分け與へ、日々、心を一つにして弛みなく宮に居り、家にてパンをさき、喜悦と真心とをもて食事をなし、神を讃美して一般の民に悦ばる。 -使徒行伝2:44~47-

信じたる者の群は、おなじ心おなじ思となり、誰一人その所有を己が物と謂はず、凡ての物を共にせり。・・・彼らの中には一人の乏しき者もなかりき。これ地所あるひは家屋を有てる者、これを賣り、その賣りたる價を持ち來りて、使徒たちの足下に置きしを、各人の用に随いて分け與へたればなり。  -使徒行伝4:32~35-

初代キリスト教会の聖徒方の信仰の素晴らしさよ。彼らは、文字通り主イエス・キリストの御言葉の実践者であった。己が生命を棄てる程に人を愛したイエス・キリストの心を己が心として、彼らは兄弟の愛に博愛を加えて行ったのである。

                 *    *    *    *    *    *  

カイザリアにコルネリオといふ人あり、イタリヤ隊と称ふる軍隊の百卒長なるが、敬虔にして全家族とともに神を畏れ、かつ民に多くの施儕(ほどこし)をなし、常に神に祈れり。・・・御使いふ『なんぢの祈りと施儕とは、神の前に上りて記念とせらる。』  ー使徒行伝10:1~48ー

異邦人のコルネリオは、イスラエルにやってきて唯一の真の神を知った。そして御言葉に從い、実践していった。それが神に喜ばれる所となり、救いへと導かれ行くのである。

彼は御使いの言葉に從い、使徒ペテロを家に招き福音を聞いた。彼と伴なる人々は、ペテロの語る言葉を聞いている間に、聖霊が臨み受霊した。彼らは皆異言を語り神を崇めた。かくてペテロは、受霊した人々にイエス・キリストの御名によるバプテスマを受けんことを命じたのである。 

                 *    *    *    *    *    *    

イエス之御霊教会の始めの頃、ロスアンゼルスの近郷、パサデナに居住していたグレー先生御夫妻 ー Rev.Mr.and Mrs.Gray ー は、日本伝道の為に篤き祈りを献げておられた。

御夫妻は、若き日に日本に来られ、日本人伝道のために心血を注いでおられた。やがて村井先生御夫妻と相知るところとなり、水と霊との福音に燃える村井先生方の良き理解者、協力者となられた。

多くの外国人宣教師に会われた村井先生方は、グレー先生が彼らとは全く異なる真摯な態度で人に接し、熱き心をもて伝道しておられる姿を見て感動し、尊敬の念を抱いておられた。

老年になり、帰米された後も、しばしば村井先生の伝道のために献金を送り、サポートして下さったのである。

何時の日にか再会をと、その時を待っていたところ、昭和29年(1954)9月、村井先生は渡米の機会を得たのであった。

長い船旅の末、サンフランシスコに着くと同時に、ミセス・グレーは重態との報。早速お見舞いをと思はれたが、依頼されていた集会の事もあってままならず、唯々主の御憐みを祈られていたところ、突、御令息ダビデ牧師より、「昨夜、母召さる」の電話あり、余りの悲しみに唯々茫然、「パサデナにて告別式を致す故、來りて弔辞を述べてよ」と。

あゝ我らの愛する先生は、遂に召されたるか。悲しき事よ。

あゝグレー先生の如く日本人を愛せし人ありや。

その生命の極みまでわれらを愛せし人ありや。まことに悲しみはつきず。

愛兄姉又然らん。 (9月13日)

翌日、飛行機でロスアンゼルスに行き、15日にパセデナでグレー先生の告別式に臨み、涙の中にグレー先生の日本伝道に就いて語り、天に召された先生と地上に於ける最後のお別れをされた。

遺族の願いは、唯々遺されたミスター・グレーの心を慰めるのは、日本からの手紙だけですとの意を受けて、村井先生は、伝道旅行中の彼の地から日本へ手紙を送り、住所を記し、お便りを差し上げて下さいと伝えられたのだった。

                      (昭和29年10月25日発行、教団回し状から一部抜粋)

証-2

ある姉妹から電話を戴いた。

「先生、不思議です。安息日の前の日に、私は聖書を開いて、使徒行伝10章を読みました。そして安息日礼拝に行ったら、先生が同じ聖言を開いて詳しくお話しされたので、私はもうびっくりしました」と。

御霊の一致ですね。牧師も信者も同じ御霊を戴いている訳ですから、こういうことってあるわけです。

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聖餐式

● ルカ伝22:7~23

:2011年6月4日

 P1010025

     祝   福

汝らの召されたるは祝福を嗣がん爲なり  ーペテロ前書3:9ー

我らが罪に満ちたこの世の中から選ばれて、水と霊とのバプテスマに与り、神の実子とされて「アバ父よ」と真の神、イエス・キリストを崇めるに至ったのは、恵みであり、祝福であり、恩寵以外の何物でもない。

教会では色々な人たちが救われて来る。信者方が導いてくる人たち、伝道に出かけて導いてくる人たち、また、教会に仕事で出入りする業者の人たち。

業者の人たちと言えば、会堂を建てた建築会社の人たちを始め、下請け業者の人たち、ガスや電話や電気工事をした人たち、コンピューター関係の人たち・・・・・。

これらの人たちに先ずお勧めすることは、

「ここは神様の教会です。今からしようとしている仕事は、神様のための仕事です。そのために、先ずあなたがイエス様によって救われ、清められて、神様の仕事に携って頂きたいのです。そうすれば、神様はあなたを祝福し、この仕事だけではなく、あなたがこれから先、一生行う仕事や生活が全て祝福されるでしょう」と。

そして、水と霊とのバプテスマを受けるように勧める。殆どの人が喜んで聖霊を受け、イエス・キリストの御名による洗礼を受けて救われていく。ああ、イエス様は素直な人たちを祝して下さるのだなとつくづく思う。

そして見ていると、その人たちの産業が祝されている。大きく発展している。イエス様が共にいて祝福しているのが良く分かる。主がはっきりしと立証してくださるのである

聖餐式

● コリント前書11:23~26

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