道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2011年07月

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われシオンの義あさ日の光輝のごとくにいで エルサレムの救もゆる松火のごとくなるまでは シオンのために黙さず エルサレムのために休まざるべし   -イザヤ書62:1-

イエス様は、救いの大事業を達成すべく先頭を切って進んでおられる。我らは主にお從いし、主より委ねられた水と霊との真の全き福音を断行して行くものである。

先週は、5人の方が水と霊とを受けて救われた(日本人1人、ロシア人4人)。 今週も、5人の方が救われた(日本人3人、ロシア人2人)。 感謝!

皆、聖霊を受け、受霊の徴として異言を語った。そして、主イエス・キリストの御名によって洗礼を受け、洗足を受けた。

刈入は多く、働き人は少なし。兄弟姉妹方が、救霊のために立ち上らんことを!

祭の終の大なる日にイエス立ちて呼はりて言ひたまふ『人もし渇かば我に來りて飲め。我を信ずるものは、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし』 これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。   ーヨハネ伝7:37~39ー

人の肉體の渇きは水を飲めばよいが、霊の渇きは、生命の水である聖霊を受けねば癒されることはない。皆教会に来られて、主に祈り、聖霊のバプテスマを受けられんことを!

 来週は、広島で 教団ペンテコステ音楽大聖会 が開かれる。

これは、昭和8年7月23日に、村井じゅん先生牧する東京西巣鴨の日本聖書教会に聖霊降臨があって、そこに集った全員が御霊を受けた。それはあたかも、使徒行伝2章に斯く記されている、

五旬節(ペンテコステ)の日となり、彼らみな一處に集い居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響き、にはかに天より起りて、その坐する所の家に満ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて各人のうへに止まる。彼らみな聖霊にて満され、御霊の宣べしむるままに異邦の言にて語りはじむ。  ー2:1~4節ー

との聖言の如く、初代キリスト教会におけるペンテコステの日と同じ出来事が、この末の日に、日本に起きた記念すべき日であった。

その時より聖霊待望会が始り、更に日本のそこここに聖霊が降り、昭和16年に至ってイエス之御霊教会が誕生することになった事を記念するものである。

我らは、喜びと感謝をもって、この大聖会に集う!

     P1010211  今日も讃美を奏でる

    視よ今は恵のとき、視よ今は救い日なり

   此の故になんぢら欣喜(よろこび)をもて救の井より水をくむべし

その日なんぢらいはん ヱホバに感謝せよ その名をよべ その行為(みわざ)をもろもろの民の中につたへよ その名のあがむべきことを語りつげよと  -イザヤ書12:3,4-

イエス・キリストの御名とその救いを身近な所から始めて、全世界に宣伝えよう

今日、主はフランス教会の澤兄弟を安息日礼拝に送ってくださり、人形劇の仕事や伝道の証を聞かせて下さった。仕事では、来週はイギリスへ、その後、長野・東京と回り、モスクワで上演。10月は札幌の教育文化会館での上演とスケジュールが一杯。モスクワでは村上かおる先生が来られて伝道が行われるとのこと。恵まれた証でした。やはり礼拝に集わなければ、こういう証は聞けませんね。

翌日の日曜日、澤兄弟は教文のメンバーに声をかけて教会に導いて下さり、一人の魂が水と霊の救いに与りました。ハレルヤ!

来週はご家族が夏休みで帰国し、安息日礼拝に集って下さるとのこと。再会が楽しみです。

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               ロ ト の 救 い 

ヱホバ言ひ給けるは 我為んすることをアブラハムに隱すべけんや アブラハムは必ず大いなる強き國民となりて天下の民皆彼に由りて福を獲るに至るべきに在らずや 其は我彼をして其後の児孫と家族とに命じ ヱホバの道を守りて公義と公道を行しめん為に彼を知れり・・・・。

ヱホバ又言給ふ ソドムとゴモラの號呼(さけび)大なるに由り 又其罪甚だ重きに因て 我今下りて其號呼の我に達れる如くかれら全く行ひたりしやを見んとす 若ししからずば我知るに至らんと。   -創世記18:17~21-

神は、御自身の為さんとする計画をアブラハムに隠さず、尽く知らせると言われた。これは、神がアブラハムを信用するということを示している。誰でも重大な事柄は、心の通じ合った相手にしか知らせない。神もまたその計画を御自身の信頼した者にしか知らせない。

アブラハムが神の信頼を得たのは、彼が忠実に神の命に從ったからである。人は、神を敬い信仰する。その如く神も忠実な人を信頼する。「信」という点で合致するのだ。

この場合、神がアブラハムに知らせようとしたことは、彼の甥ロトが住むソドムとゴモラの町に住む人の罪が高じたので、火をもって焼き滅ぼすということだった。

その罪が天に届いたので、神はそれを見届けた上で焼き滅ぼそうと定められた。だが、その町に住むロトとその家族が他の罪人と共に滅びるならば、アブラハムがが悲しむであろうと思い、彼にロトの救いの為に執成しの祈りの機会を与えて下さったのである。

主ヱホバはその隠れたる事をその僕なる預言者に傳へずしては何事も為したまはざりなり  -アモス書3:7-

アブラハムは、ロトとその家族が救われんことを願って、神に言った。

(なんぢ)は義者をも悪者と俱に滅ぼし給ふや 若し邑の中に五十人の義者あるも汝尚ほ其處を滅ぼし 其中の五十人の義者のためにこれを恕したまはざるや なんぢ斯の如く為て義者を悪者と俱に殺すが如きは是あるまじき事なり 又義者と悪者を均等するが如きもあるまじき事なり 天下を鞫く者は公義を行う可にあらずや    -23~25節-

実に堂々とした論理である。これに対して主は答えられた。

我若ソドムに於て邑の中に五十人の義者を看ば其人々のために其處を盡く恕さん と   -26節-

アブラハムは、我は塵灰に過ぎぬ者なれど、神に言上すと言い、若し四十五人ならばと願って、神はよしとされた。

さらばとて、アブラハムは若し四十人ならばと神に言上し、神はよしとされた。

主よ怒らずして言わしめ給へ、若し三十人ならばと言上して、神はよしとされた。

敢えてわが主に申す、若し二十人ならばと言上して、神はよしとされた。

最後に

アブラハム言ふ請うわが主よ怒らずして今一度言しめたまへ若しかしこに十人看えなば如何エホバ言うたまふ我十人のためにほろぼさじ  -32節-

アブラハムは、斯くロトの命乞いを神に願ったのである。

結果邑はどうであったか。ロトの家族以外に救いに値する者はいなかった。嫁いだ娘たちの婿もロトの勧めを冗談としか捉えなかった。

御使いたちによって、ソドムの邑を脱出したのは、ロトとその妻と二人の娘だけであった。しかも決して後ろを振り向くなと御使いの命を受けたにもかかわらず、ソドムの邑に天から火が降って焼き滅ぼされた時に、ロトの妻は後ろを振り返り塩の柱と化してしまった。おそらくは、その邑に残してきた娘たちや家や財産のことを思いみたのであろう。

主イエス・キリストは、ルカ傳7章22節以下で、主の再臨の日に就いて言及し、

ロトの日にも斯くのごとく、人々飲み食ひ、売り買ひ、植ゑつけ、家造りなど為たりしが、ロトのソドムをい出し日に、天より火と硫黄と降りて、彼らをことごとく滅ぼせり。人の子の顕るゝ日にも、その如くなるべし。その日には人もし屋の上にをりて、器物、家の内にあらば、之を取らんとて下るな。畑にをる者も同じく歸るな。ロトの妻を憶へ。おほよそ己が生命を全うせんとする者は、これを失ひ、失ふ者は、これを保つべし

と言いて訓戒されている。

ノアの時代は、洪水をもて滅ぼされた。斯かる大洪水は再びあらじと神は虹をもて契約の徴とされた。

次は火をもってする審きがやってくる。今ある天も地も一切の物が火をもって焼き尽されるのだ。その前に一人でも多くの人々が救われるように努めなければならない。全き救いは水と霊とのバプテスマに与ることを銘記して進まねばならない。

愛する者よ、なんぢら此の一事を忘るな。主の御前には一日は千年のごとく、千年は一日のごとし。主その約束を果すに遅きは、或人の思ふが如きにあらず、ただ一人の亡ぶるをも望み給はず、凡ての人の悔改に至らんことを望みて、汝らを永く忍び給ふなり。されど主の日は盗人のごとく來らん、その日には天とどろきて去り、もろもろの天體は焼け崩れ、地とその中にある工とは焼け盡きん。斯く此等のものはみな崩るべければ、汝等いかに潔き行状と敬虔とをもて、神の日の來るを待ち、之を速やかにせんことを勉むべきにあらずや、その日には天燃え崩れ、もろもろの天體焼け溶けん。されど我らは神の約束によりて義の住むところの新しき天と新しき地とを待つ。   -ペテロ後書3:8~13-

恵みに感謝して今日も主の聖餐に与かりました。ハレルヤ!

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  暑中お見舞い申しあげます

       テレビで各地で猛暑続きの様子を見ています。

       体調に気を付けてお過ごしくださいますように

       お祈り申し上げます。

  P1010189_a_2  くものすばんだいそう

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  ヱホバよみことばは天にてとこしへに定まり  -詩篇119:89-

旧新約聖書66巻は、神が1500年かけて多くの預言者や使徒を用いて人類に与えた神の聖言である。

最初の記者は、3,500年前に登場したモーセで、彼は神の啓示を受けてこれを記した。

なんぢら先ず知れ、聖書の預言は、すべて己がままに釋くべきにあらぬを。預言は人の心より出でしにあらず、人々聖霊に動かされ、神によりて語れるものなればなり。 -ペテロ後ー:20,21-

聖書はみな神の感動によるものにして教誨と譴責と矯正と義を薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて、諸般の善き業に備を全うせん爲なり。  -テモテ後3:16,17-

詩篇119篇は聖言の大特集といえる。いくつかの聖言を採り上げてみよう。

我はなんぢの證詞をふかくおもふが故にわがすべての師にまさりて智慧おほし 我はなんぢの訓諭をまもるがゆえに老いたる者にまさりて事をわきまふるなり ー99、100節-

みことばの滋味はわが腭にあまきこといかばかりぞや 蜜のわが口に甘きにまされり ー103節ー

なんぢの聖言はわがあしの燈火 わが路のひかりなり  -105節ー

聖言うちひらくれば 光をはなちて愚かなるものをさとからしむ  ー130節ー

われ詰朝(あさまだき)おきいでて呼はれり われ聖言によりて望をいだけり 夜の更のきたらぬに先だち わが眼はさめて汝のみことばを深くおもふ  -147,148節-

大切な神の聖言を、人の思いや考えで変えてはならないない。素直に信じ、從うによって、聖言に伴う証が与えられ、祝福を戴くことができる。

我が汝らに命ずる言は汝らこれを増しまたは減すべからず 我が汝らに命ずる汝らの神ヱホバの命令を守るべし  ー申命記4:2ー

われ凡てこの書の預言の言を聞く者に證す。もし之に加ふる者あらば、神はこの書に記されたる苦難を彼に加へ給はん。若しこの預言の書の言を省く者あらば、神はこの書に記されたる生命の樹、また聖なる都より彼の受くべき分を省き給はん。  -ヨハネ黙示録22:18,19-

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                        屋上にある鐘突堂のアーチを金属製に替えました。

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ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ アーメン                    

   ハレルヤ ハレルヤ ハレルヤ

憐みに富み給う 愛の主 我が神

   栄光 永久にあれと 歌う

          鶴原玉姉妹 作詞・作曲

    イエス之御霊教会教団 「霊讃歌」

                    155番 1節

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視よ、天に御座あり。その御座に坐したまふ者あり、その坐し給ふものの状は碧玉・赤瑪瑙のごとく、かつ御座の周囲には緑玉のごとき虹ありき。また御座のまはりに二十四の座位ありて、二十四人の長老、白き衣を纏ひ、首に金の冠冕を戴きて、その座位に坐せり。御座より数多の電光と聲と電霆と出づ、また御座の前に燃えたる七つの燈火あり、これ神の七つの霊なり。御座のまへに水晶に似たる玻璃の海あり。御座の中央と御座の周囲とに四つの活物ありて、前も後も数々の目にて満ちたり。第一の活物は獅子のごとく、第二の活物は牛のごとく、第三の活物は面のかたち人のごとく、第四の活物は飛ぶ鷲のごとし。この四つの活物おのおの六つの翼あり、翼の内も外も数々の目にて満ちたり、日も夜も絶間なく言ふ 『聖なるかな、聖なるかな、昔在し、今在し、後來りたまふ全能の神』 この活物ら御座に坐し、世世限りなく活きたまふ者に榮光と尊崇とを歸し、感謝する時、二十四人の長老、御座に坐したまふ者のまへに伏し、冠冕を御座のまへに投出して言ふ 『我らの主なる神よ、榮光と尊崇と能力とを受け給ふは宜なり。汝は萬物を造りたまひ、萬物は御意によりて存し、かつ造られたり』   -ヨハネ黙示録4:2~11-

使徒ヨハネは、ヨハネ伝1:18で、

「未だ神を見し者なし、ただ父の懐裡にいます獨子の神のみ之を顕し給へり」

と記した。

その時点では彼はまだ神を見たことがなかった。だが、後年彼がパトモス島で天よりの黙示を受けた時には、神を見たのである。

ヨハネ黙示録には、神の御座の二十四人の長老がいて、神を拝し、また四つの活物が絶間なく神を崇めている姿が記されている。

同様の記述がエゼキエル書第1章に記されている。

黙示録第4章の記述は、エゼキエル書第1章と合わせ読むに、天界の異象に於いて全く」同一と考えられる。四つの生物の形状も同じであり、エゼキエルでは、その動きに就いて更に詳細に記しているように読みとれる。

エゼキエルは、神御自身に就いては、

首の上なる穹蒼の上に青玉のごとき寶位(くらい)の状式(かたち)あり その寶位の状式の上に人のごとき者在す 又われその中と周囲に磨きたる銅のごとく火のごとくなる者を見る その人の腰より上も腰より下も火のごとくに見ゆ その周囲に輝光あり その周囲の輝光は雨の日に雲にあらはるゝ虹のごとし ヱホバの榮光かくのごとく見ゆ 我これを見て俯伏したるに語る者の聲あるを聞く  -1:26~28-

と見しところを記した。

またヨハネ黙示録に戻って記述を読むと、そこに素晴らしい大讃美が記されている。

我また見しに、御座と活物と長老たちの周囲にをる多くの御使の聲を聞けり、その数千々萬々にして、大聲にいふ 『屠られ給ひし羔羊こそ、能力と富と智慧と勢威と尊崇と榮光と讃美とを受くるに相応しけれ』 我また天に、地に、地の下に、海にある萬の造られたる物、また凡てその中にある物の云へるを聞けり。曰く 『願くは御座に坐し給ふものと羔羊とに、讃美と尊崇と榮光と権力と世々限りなくあらん事を』  四つの活物はアァメンと言ひ、長老たちは平伏して拝せり。   -ヨハネ黙示録5:6~14-

天に在る物も、地にある物も一切の被造物が、創造者なる主を崇めるのである。その中に我らも居る。なんと素晴らしい事か。

友よ、その場に連なる資格を得るために、先ず水と霊とのバプテスマに与れよ。

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