學者の一人、かれらの論じをるを聞き、イエスの善く答へ給へるを知り、進み出でて問ふ 『すべての誡命(いましめ)のうち、何か第一なる』 イエス答へたまふ 『第一は是なり 「イスラエルよ聴け、主なる我らの神は唯一の主なり。なんぢ心を盡し、精神を盡し、思ひを盡し、力を盡して、主なる汝の神を愛すべし」 第二は 是なり 「おのれの如く汝の隣を愛すべし」 此の二つより大なる誡命はなし』 學者いふ 『善きかな師よ 「神は唯一にして他に神なし」 と言ひ給へるは眞なり。 「こころを盡し、智慧を盡し、力を盡して神を愛し、また己のごとく隣を愛する」は、もろもろの燔祭および犠牲に勝るなり 』 イエスその聡く答へしを見て言いひ給ふ、なんぢ神の國に遠からず』 -マルコ傳12:28~34-
主イエス・キリストと学者の一人との対話である。学者は凡ての誡命のうち、どの誡命が一番大切かと問うた。当時の聖書学者の多くは、誡命と言えばモーセの十誡を思い浮かべ、その中からどれが一番かという回答を求めたことだろう。 -出エジプト記20:3~17、および申命記5:7~21参照-
然しイエス・キリストを答えは違っていた。第一の誡命は申命記6:4,5であり、第二の誡命はレビ記19:18下半句であった。
主が言い給うた第一の誡命には、十誡の第1条から第4条までの神に関わることが包含されており、第二の誡命には,十誡の第5条から第10条の人に関わることが包含されている。
しかも、モーセの十誡は、それぞれ「・・・すべからず」という語で終結されているのに対して、主イエスが挙げられた聖言は、「・・・愛すべし」という語で終えている。前者は律法の持つ厳しさを表しているのに対し、後者はキリストの積極的な愛と寛容を示している。ここに旧約と新約の違いを見ることができる。
ヨハネ第一書4:7~21で使徒ヨハネは、神の人に対する愛を説いた。即ち主イエス・キリストが我らの罪のために宥めの供え物となり、我らに御霊を与えて神に居る者にして下さったこと。我らが神を愛し、また人を愛するのは、神が先ず我らを愛してくださったからだと教えた。
主イエス・キリストは新しい誡命として ” 愛 ” を教えて下さった。
われ新しき誡命を汝らに與ふ、なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし。互に相愛する事をせば、之によりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん -ヨハネ傳13:34,35-
わが誡命は是なり、わが汝らを愛せしごとく互に相愛せよ。人その友のために己の生命を棄つる、之より大なる愛はなし。 -ヨハネ傳15:12,13-