道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2012年01月

 Photo 

● 主イエスを紹介するヨハネの言葉

我は汝らの悔改のために、水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力あり、我はその鞋(くつ)をとるにも足らず、彼は聖霊と火とにて汝らにバプテスマを施さん。  -マタイ伝3:11-

● ヨルダン河でヨハネと主イエスの会話

『われは汝にバプテスマを受くべき者なるに、反って我に來り給ふか』 イエス答へて言ひたまふ『今は許せ、われら斯く正しき事をことごとく為遂ぐるは、当然なり』   -同3:14、15-

● 主イエスを紹介するヨハネの言葉

『視よ、これぞ世の罪を除く神の羔羊』・・・・・『我を遣し、水にてバプテスマを施させ給もの、我に告げて「なんぢ御霊くだりて或人の上に止るを見ん、これぞ聖霊にてバプテスマを施す者なる」といひ給へり。われ之を見て、その神の子たるを證せしなり』   -ヨハネ伝1:29~34-

● ヨハネを評する主イエスの言葉

女の産みたる者の中、ヨハネより大なる者はなし。然れど神の國にて小き者も、彼よりは大なり。    -ルカ伝7:28-

旧約時代最後の預言者ヨハネ、主イエス・キリストの露払いの役を与えられて、ユダの荒野に登場し、『なんぢら悔改めよ、天国は近づきたり』と福音を語った。

そして、人々にバプテスマを授け、主イエス・キリストにも洗礼を施した。無上の光栄である。

その彼も天に於いては小さき者だと主は言われる。主イエス・キリストに在る者が如何に大きな光栄を与えられていることか。

我らは、中に御霊を宿し、神の子たる印をうけていることを感謝せずにおれない。

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

● 聖餐式  

ヱホバは人なきをみ  中保(なかだち)なきを奇しみたまへり  斯くてその臂(かひな)をもてみづから助け  その義をもてみづから支たまへり  -イザヤ書59:16-

-テモテ前書2:4~6-

  1  

  ヤコブの産業をもて養う

わが安息日を聖くせよ 是は我と汝の間の徴にして 汝らをして我が汝らの神ヱホバなるを知らしめん    -エゼキエル20:20-

エルサレムの平安を祈れ エルサレムを愛するものは榮ゆべし  -詩篇122:6-

もし安息日になんぢの歩行をとゞめ 我が聖日になんぢの好むわざをおこなはず   安息日をとなへて楽日(たのしみのひ)となし ヱホバの聖日をとなへて尊むべき日となし 之をたふとみて己が道をおこなはず おのが好むわざをなさず おのが言をかたらずば その時なんじヱホバを楽しむべし ヱホバなんぢを地のたかき處にのらしめ なんぢが先祖ヤコブの産業をもて汝をやしなひ給はん こはヱホバ口(みくち)よりかたりたまへるなり  -イザヤ53:13,14-

ヤコブの産業については、創世記25章以降に記されている。彼がベテルで野宿した時に、神が現れて祝福し、子孫と土地を与えると約束された。

イサクとリべかに双子が生れた。その名はヤコブとエサウ。

その子生れず、善も悪もなさぬ間に神の選びの御旨は動かず、行為によらで召す者によらんために 『 兄は次弟に事ふべし 』 と録されたる如し  -ロマ9:11,12-

とパウロは言い、また、

霊のものは前(さき)に非ず、反って血気のもの前にありて霊のもの後にあり、第一の人は地より出でて土に属し、第二の人は天より出たる者なり・・・  -コリント前15:46~49-

と記したが、これぞキリストの型であり、また水と霊の新生の型である。

         A_2

コリント前書10章より

我らの先祖はみな雲の下にあり、みな海をとほり、みな雲と海とにてバプテスマを受けてモーセにつけり。   -1,2節-

始めに知らねばならぬことは、旧訳聖書の出来事は、来たらんとする者の影であって、その本体はキリストに属くということである。(コロサイ2:17)

モーセに率いられてエジプトを出たイスラエルの民は、神の力ある御手に導かれて約束の地を目指して進んだ。

ヱホバかれらの前に往たまひ 晝は雲の柱をもてかれらを導き 夜は火の柱をもて彼らを照らして晝夜往すゝましめたまふ  民の前に晝は雲の柱を除きたまはず 夜は火の柱をのぞきたまはず    -出エジプト13:21,22-

雲と海とにてバプテスマを受けた とは何か、これ我らが 御霊と水と をもってバプテスマを受けたことの雛型である。而して彼らがモーセに属した如くに、我らは水と霊とを受けることによりキリストに属したのである。

キリストの御霊なき者は、キリストに属する者にあらず。  ロマ書8:9-

と明記されているごとくである。

而して皆おなじく霊なる食物を食し、みな同じく霊なる飲物を飲めり。これ彼らに随ひし霊なる岩より飲みたるなり、その岩は即ちキリストなりき。 -3,4節-

この意味は何か。 主イエス・キリストがヨハネ伝6章において

『・・・我は天より降りし活けるパンなり、人このパンを食はば永遠に活くべし。我が與ふるパンは我が肉なり、世の生命のために之を與へん』  -51-

『・・・夫わが肉は眞の食物、わが血は眞の飲物なり。』  -55-

と言い給うたように、

即ち、主の聖餐を受けることによって成就する のである。

コリント前書10章には、貪り、偶像崇拝、姦淫、主を試みる、呟きなど神の御意に適わぬ事柄と、之を行った者の亡びが記され、我らの鑑とせよと勧められている。

主を試みた者は、蛇に咬まれて死んだ。その時、モーセが神に祈ると、銅(あかがね)を以って蛇を作り、杆(さを)の上に載せ、之を仰ぎ観なば生きるとお答があったので、モーセは之に従い、銅をもって一條(すぢ)の蛇を作り杆の上に載せた。

凡て蛇に咬れたる者 その銅の蛇を仰ぎ観ば生たり  -民数紀略21:9-

モーセ荒野にて蛇を挙げしごとく、人の子もまた必ず挙げらるべし。すべて信ずる者の彼によりて永遠の生命を得ん爲なり。  -ヨハネ伝3:14,15-

          -ガラテヤ書3:13 及び 申命記21:22,23-  参照

汝らが遭ひし試練(こころみ)は人の常ならぬはなし。神は眞實(まこと)なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試練に遭はせ給はず。汝らが試練を耐へ忍ぶことを得んために、之と共に遁るべき道を備へ給はん。 -13節-

試練に遭う者にとって大きな慰めと励まし、そして希望が与えられる聖言である。

   Photo

   汝が祝する者は福徳(さいはひ)を得  民数記略22~24章より

チッポルの子バラクは、モーセの率いるイスラエルの民を恐れた。その数が多かったからである。

そこでペトルに住む預言者であり、占い師であるバラムを呼んで、イスラエル人を呪わせようとし、使者に贈り物を持たせて遣わした。

バラムが神に問うと、神は「イスラエルの民を呪ってはならぬ。これは祝福される民だからだ」と返答された。

使者は一旦帰ったが、バラムは更度の使者の訪問と贈り物に目が眩みバラクの許へ出かけて行く。

神は怒り、御使いが抜身の刀を持って待ち構えていた。ろばには御使いが見えたが、バラムには見えなかった。

ろばは御使いに恐れて進まない。そのろばをバラムは怒って三度も打つ。その時、神がろばの口を開かれたので、ろばはバラムに言った。「私があなたに何をしたというのですか。三度も私を打つとは・・・」

彼は目が開かれ、御使いを見た。御使いは言った。「主があなたに告げることだけを告げなさい。」

バラクを訪ねたバラムは、三度イスラエルを祝福し、預言して言う。

神の詛はざる者を我いかで詛ふことを得んや ヱホバの呪らざる者を我いかで呪る事をや。・・・この民は獨り離れて居らん 萬の民の中に列(なら)ぶことなからん

ヱホバ、ヤコブの中に悪き事あるを見ず イスラエルの中に憂患(うれひ)あるを見ず 王を喜びて呼はる聲その中にあり・・・

ヤコブよ汝の天幕は美しき哉 イスラエルよ汝の住まいは美しき哉・・・

更に預言して言う。

汝を祝する者は福祉(さいはひ)を得 なんぢをのろふものは災禍(わざはひ)をかうむるべし

肉のイスラエルは斯く祝福された。我ら霊のイスラエルなる真の教会は更に祝福された者である。我らの内には栄光の御霊が宿り、神の宮とされている。主なる神は、キリストの新婦なる教会を愛し、祝福しておられるのだ。

終に言ふ。汝らみな心を同じうし互に思ひ遣り、兄弟を愛し、憐み、謙遜り、悪をもて悪に、謗りをもて謗りに報ゆることなく、返ってこれを祝福せよ。汝らの召されたるは祝福を受けんためなり

  -----------------------------------

お知らせ

  【FCブログ] 「御霊の声」に 証-7異 言 を載せました。

              [E:downwardright]      ホームページ http://dooh-imk.info 経由でご覧になれます

  2012_mikotoba   Img068_

   新 年 礼 拝                年の始めに

    年の始めを 寿ぎて           喜びをもて 迎えよこの年

    我らともども 祝わなん         み恵尽きぬ ヨベルの年

    主もまた共に あれまして        栄光と能力の 顕るるを見る

    幸い給う この御殿           神の子供の 待ちにける年

       霊讃歌85番1節               讃美と感謝 歓喜あふる

                               霊讃歌84番1節

  新年の聖言

         希望は恥を來らせず、我らに賜ひたる聖霊によりて神の愛、

        われらの心に注げばなり。         -ロマ書5章5節-

年頭に当たり、主の御前に集い、讃美を献げ、恩恵と祝福を願って祈りました。

今年は 『 希 望 』 を抱いて進みます。 何があろうとも、聖霊を受けている私たちは主のものであって、恥ずかしめに遭うことはありません。必ず主は勝利を与えて下さいます。

尊い主の御聖餐に与り感謝でした。

   2012

このページのトップヘ