道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2012年06月

:6月30日

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ヱホバに感謝し その名(みな)をよび その作(なし)たまへることをもろもろの民輩(たみら)の中にしらしめよ ヱホバにむかひてうたへ ヱホバを讃(ほめ)うたへ そのもろもろの奇しき跡(みわざ)をかたれ  -歴代史略上16:8,9-

尊貴(たふとき)と稜威(みいづ)とはその前(みまへ)にあり  能(ちから)とよろこびとはその聖所にあり  -27節-

ダビデが王となり、戦乱の時代が終わった。

彼が最初に行ったことは、契約の箱をペリシテ人の手から取り戻すことだった。

その契約の箱は、彼がまだ幼少の頃か、生まれる以前に、祭司エリの子ホフニとピネハスの犯した罪により、ペリシテ人との戦いで奪われ、先の王サウロの時代にもそのままになっていたのだった。

ダビデは心に定めたことを実行し、契約の箱を国境の街キリアテヤリムからオベデエドムの家に移し、さらに讃美と感謝と舞踏をもってダビデの街に舁(かき)のぼり、神のために備えた幕屋の中に安置した。

そして、神に燔祭と酬恩祭を献げ、民には祝いの食物を振る舞い、諸々の楽器と讃美をもって契約の箱の前に侍ったのだった。

彼は感謝を忘れぬ人だった。そして感謝を表した詩歌を数多く作った。それが詩篇に収められている。

我等もまた、神に対して感謝する。

感謝の祈りと、讃美と、献げ物をもって神を崇めるのだ。

新約聖書から幾つかの聖句を引照しよう。

酒に酔ふな、放蕩はその中にあり、寧ろ御霊にて満され、詩と讃美と霊の歌とをもて語り合ひ、また主に向ひて心より且うたひ、かつ讃美せよ。凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏みて互ひに服へ。  -エペソ5:18~21-

汝ら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ。凡ての人に汝らの寛容を知らしめよ、主は近し。何事をも思ひ煩ふな、ただ事ごとに祈をなし、願をなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。さらば凡て人の思にすぐる神の平安は汝らの心と思とをキリスト・イエスによりて守らん。  -ピリピ4:4~7-

汝らキリスト・イエスを主として受けたるにより、其のごとく彼に在りて歩め。また彼に根ざして、その上に建てられ、かつ教へられしごとく信仰を堅くし、溢るるばかり感謝せよ。  -コロサイ2:6,7-

常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ、これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり。  -テサロニケ前5:16~18-

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◎ お知らせ  FC2ブログ 御霊の声に 証-13 「水と霊」か「悔改め」か? を載せました。

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※ 6月28日付けの某検索エンジンのサイトに 「聖言 を何と読むかということが載っていました。 解答例として〇〇辞典では 「せいげん と読むとありました。

このブログのカテゴリでは、文語体の旧約聖書に基づき 「聖言 と書いて 「みことば と読みます。

例 → なんぢの聖言(みことば)はいときよし 此故になんぢの僕はこれを愛す(詩篇119:140)

ちなみに、「聖」 を 「み」 と読むのは、聖名=みな(詩篇137:7)聖意=みこころ(138:2)、聖霊=みたま(139:7)、聖顔=みかお(51:9)、などがあります。

                   カット写真 [E:leftright] 白石サイクリングロード・厚別南緑地の自然林

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ダビデ、ぺリシテ人にいひけるは、汝は剣と槍と矛戟(ほこ)とをもて我にきたる  然ど我は萬軍のヱホバの名 すなはち汝が榒(いど)みたるイスラエルの軍の神の名をもて汝にゆく   -サムエル前17:45-

ぺリシテ人の将、巨人ゴリアテがイスラエル軍に一騎打ちを挑んできた。

イスラエルの王サウロは、彼を討つ者には富と娘を与え、その父の家には租税を免除すると言ったが、軍兵は怖気づいて、誰一人立ち向かう者はいない。

そこに現れた少年ダビデ、手にある武器は杖と投石器と谷間で拾った5つの石。

そしてイスラエルの神の名をもって巨人に立ち向かう......。

主イエス・キリストの名を掲げて進む者は、常に勝利する。

神が共にいて、神の御霊が中にあって強めてくださるからだ。

 我等は、常に勝利! 勝利!!

                                 カット写真 [E:leftright] 白石サイクリングロード

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:6月16日

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我は葡萄の樹、なんぢらは枝なり。人もし我にをり、我また彼にをらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を離るれば、何事も為し能はず。 -ヨハネ傳15:5-

教会の庭で、今年も葡萄の新枝が伸び、花芽が吹きだしている。

まもなく花が咲き、受粉すると、1㍉ほどの小さな実になって育ち始める。

どれもこれも果実にしようと慾を出すと、てき面に答えが返ってくる。

スーパーで売っているような形の良い物にならず、

ばらばらな実付きの悪いものになるのだ。

だから、適度に摘芯をしたり、不要な枝を取らねばならない。

夏になって、枝や葉が込み入ってくると、蔓が絡みつくのでややこしくなる。

ちゃんとした果実を得るには、結構手間がかかるのだ。

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イエス様も、私たちが良き果を結ぶことを願っておられる。

そのために手入れをして下さる。

先ず、葡萄の樹であるイエス様にしっかり繋がることが大切だ。

枝は、樹に繋がってこそ、根から吸い上げられる水と養分をたっぷり吸って成長し、良き果を結ぶことができる。

神の愛によって活かされ、聖霊の働きによって導かれて行くことが幸いだ。

なんぢら多くの果を結ばば、わが父は榮光を受け給ふべし、而して汝等わが弟子とならん。 -8節-

汝等我を選びしにあらず、我なんぢらを選べり。而して汝らの往きて果を結び、且その果の残らんために、又おほよそ我が名によりて父に求めむるものを、父の賜はんために汝らを立てたり。 -16節-

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引照聖句  選ばれた民  エペソ書1:3,4 コロサイ書3:12~17 テトス書2:11~14 ペテロ前書2:4~10

此の奥義は汝らの中に在すキリストにして榮光の望みなり。 -コロサイ書1:27-

聖書に記された奥義の一つに、内住のキリストの奥義 がある。

真の教会とは、個々のクリスチャンの中にキリストの御霊が内住していて、その集合体が教会なのである。

ある人は十字架までのキリストを説き、またある人は復活までのキリストを説いている。

だが、それでは不十分で、内住のキリストを説くことが肝要だと思うが、あなたはどうだろうか。

使徒行伝18章の終りから19章の始めにかけて、アポロとパウロの信仰の違いが書かれている。

アポロは聖書に通達した人で、エペソで彼の知るヨハネのバプテスマと主イエスの事を語ったが、プリスキラとアクラとこれを聞いて足らざるを覚え、詳細に神の道を解き明かしたとある。

更に、パウロがエペソに行った時、先にアポロの伝道でキリストを信じた人々がまだ聖霊のあることすら聞いていなかったと知った。そこで主イエスの名による洗礼と聖霊を受けるべきこととを伝え、受け入れた彼等12人に主イエスの名に由ってバプテスマを施し、また聖霊待望をして、彼らは受霊し、異言を語ったと記している。

こうして真の福音がエペソの教会の人々に伝わったのである。

御霊を受けて始めて、

キリスト我が内に在りて生くるなり  -ガラテヤ書2:20-

ということが体得される。

重ね重ね言うが、聖書にこう記されていることを銘記すべきである。

「キリストの御霊なき者はキリストに属する者にあらず」  -ロマ書8:9-

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思考・・・

日本のクリスチャンの数は、統計によれば、旧教、新教も含めて、日本の人口の100分の1に過ぎないという。 ということは、僅か120万人なのだ。

そしてその中で私たちのように水と霊を受けている人数はと言えば、極めて少ない。

こう考えてくると選びだなと思う。だが、同時にこれで良いのかと思うと、良い訳はない。もっともっと新しい魂が救われるように祈り、伝道に励むことが必要だと思う。

そしてまた既に救われた人たちも、世に埋没することなく「眠れる者よ、起きよ、死人の中より立ち上れ」 という神の御声を聞いて、目覚めなければならない。

今は何の時か? 覚醒の時だ。 主の再臨近き日なのだ。

王、客を見んとて入り来り、一人の禮服を著けぬ者あるを見て、之に言ふ「友よ、如何なれば禮服を著けずして此処に入りたるか」 かれ黙しゐたり。 ここに王、侍者らに言ふ「その手足を縛りて外の暗黒(くらき)に投げいだせ、其処にて哀哭(なげき)・切歯(はがみ)することあらん」 それ招かるる者は多かれど、選ばるる者は少なし。  -マタイ伝22:1~14-

礼服を著けぬ者は、王の婚宴に席に坐すことができない。しかも、この礼服は自前のものでなく、王から与えられた物である。

人は、己の義によっては救われない。主イエス・キリストによって義とされるのである。

凡そバプテスマに由りてキリストに合ひし汝らは、キリストを衣たるなり。  -ガラテヤ書3:27-

と、水と霊とのバプテスマを受けることが大切である。

そうでなければ、祈りに際して主に向かい、異言をもって一言を発することもできない。

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