道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2013年03月

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ヱホバ曰たまふ 我汝らを愛したり 然るに汝ら云う 汝いかに我儕(われら)を愛せしやと  ヱホバいふ エサウはヤコブの兄に非ずや されど我はヤコブを愛し エサウを悪(にく)めり  -マラキ1:2,3-

イサクとリベカ夫婦は、子どもを授かった。リベカの胎内で騒動が始ったので、神に問うと双子だとのお告げ・・・。

ヱホバ彼に言たまひけるは 二つの國民(くにたみ)汝の胎にあり 二の民汝の腹より別れん 一の民は一の民よりも強かるべし (あに)は小(おとうと)に事へんと  -創世記25:23-

こうして兄エサウと、弟ヤコブが出生するが、預言の如く二人の道は分かれた。

父イサクは、鹿肉を好むゆえに、狩りをするエサウを愛し、母リベカは、家にいるヤコブを愛した。

エサウは兄でありながら、家督の権を軽んじ、弟ヤコブの持つパンと一椀の羹(あつもの)と交換してしまう。 -同25:27~34-

続いて、年老いて失明した父イサクがエサウを呼び、鹿を狩り美味を作って食べさせてくれ、その後祝福を与えようと言った時、母リベカがこれを聞いてヤコブに父の祝福を与えようと画策して、それを果たす。

父イサクの祝福とは、こうであった。

ねがはくは神天の露と地の腴(あぶら)および饒多(おほく)の穀と酒を汝にたまへ 諸(もろもろ)の民汝につかへ 諸の邦(くに)汝に躬(み)を粷(かがめ)ん 汝兄弟等の主となり 汝の母の子等汝に身をかがめん 汝を詛ふ者はのろはれ 汝を祝する者は祝せらるべし -創世記27:28,29-

ヤコブはこうして家督の権と父の祝福を得た。エサウに遺された物は何一つなかった。このようになることは、母の胎内にいるうちから決まっていた。

その子いまだ生れず、善も悪もなさぬ間に神の選びの御旨は動かず、行為(おこなひ)によらで召す者によらん為に 『兄は次弟に事ふべし』 と、レベカに宣給へり。 『われヤコブを愛しエサウを憎めり』 と録されたる如し。 -ロマ9:11~13-

愛されるとは、神の御国を得たがゆえ。 憎まれるとは、御国に入るを軽視し、拒んだがため。

我等もまたヤコブの如く神に選ばれて、御國の世継ぎとされたことを感謝しよう。

世の創の前より我等をキリストの中に選び、御意のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり。・・・

汝等もキリストに在りて眞の言、すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これは我らが受くべき嗣業の保証にして、神に属けるものの贖はれ、かつ神の榮光に譽あらん爲なり。 -エペソ1:3~14-

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キリストによりて我ら二つのもの一つ御霊にありて父に近づくことを得たればなり。然れば汝等はもはや、旅人または寄寓人(やどりびと)にあらず、聖徒と同じ國人また神の家族なり。 -エペソ2:18,19-

ここで云う二つのものとは、イスラエル人と異邦人である。

イスラエル人は、信仰の父アブラハムの子孫であり、子々孫々千代に及ぶ祝福が約束されていた。神は契約の徴として割礼を受けるように命じ、また律法を与えて守らしめ、ご自身の栄光を顕わす選民とされた。

一方、異邦人は、割礼なきものであり、キリストなく、イスラエルの民籍に遠く、約束に属する諸般の契約に與りなく、世に在りて希望なく、神なき者であった。 -11,12節-

この二つのものの間には、隔ての中籬(なかがき)があって、分たれたものであった。

然し神は、異邦人にも祝福を与えんとして、イエス・キリストの十字架の死と甦りによって、律法を廃し、怨みなる中籬を毀ち、御霊を授けて二つのものを一つ體となしてくださった。これが教会である。

今は異邦人の時代と言われ、また恵の時代・救いの時代・聖霊時代・教会時代である。この末の世にあって、我らはイエス・キリストを信じ、約束の御霊を受けて、神の実子とされた。これ真に祝福である。

真の福音伝道は、御霊を受けた者のみが為し得ることである。何となれば、真の救いを受けた者であり、その伝道に対しては、主も亦ともに働き、伴うところの徴をもて、御言(みことば)を確うして下さるからである。 -マルコ16:19,20-

汝らは使徒と預言者の基の上に建てられたる者にして、キリスト・イエス自らその隅の首石(おやいし)たり。おのおのの建造物(たてもの)かれに在りて建て合せられ、弥増に聖なる宮、主のうちに成るなり。汝等もキリストに在りて共に建てられ、御霊によりて神の御住となるなり。 -エペソ2:20~22-

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わが霊魂(たましひ)よなんぢの平安(やすき)にかへれ ヱホバは豊かになんぢを待(あしら)ひたまへばなり  -詩篇116:7-

ヱホバの聖徒の死はそのみまへにて貴とし -同15-

道央イエス之御霊教会設立以来の信者であるK兄弟が3月13日に召された。

先週の9日の安息日礼拝に、ご夫妻で元気で出席して共に主を崇め、帰り際に吹雪の中を玄関先で見送ったのが、この世での見納めとなった。

召される前日の12日は、夜のテレビでWBC野球を観戦し、翌朝「今朝は暑いな」と言って自分で掛け布団をまくり上げたそうだが、数十分後には召されていたという。急なことだった。

何の痛みも苦しみもなく、安らかに天寿を全うして天国に行かれた。

14日と15日に教会で、遺族と親戚・教会の兄弟姉妹が集い、前夜祭と告別式を行い、兄弟を天へ送った。

汝の神に会う準備(そなへ)をせよ -アモス4:12-

とある。 

人は一寸先のことも分からない。明日どうなるかすら分からない。自分のことでありながら自分の寿命も分からない。

生るゝに時あり 死ぬるに時あり -伝道之書3:2-

とある。人の凡ては神がお決めになる。

霊魂(たましひ)を掌って霊魂を留めうる人あらず人はその死ぬる日には権力(ちから)あることなし -同8:8-

死と出会う前にしておかなければならないことが、一つある。それは神に会う備えをすること。 確実なのは、主イエス・キリストが言われた通りに「水と霊とのバプテスマ」を受けて、神の子となることだ。

エホバかくイスラエルに言たまふ  汝ら我を求めよ さらば生べし  -アモス5:4-

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お祈り  ブラジル大聖会がマットグロッソに於いて3月16,17日の両日開かれます。 続いて18日にはサンパウロ聖会が行われます。 祝福を祈りましょう。 ハレルヤ!

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ヤラベアム其の悪き途を離れ帰ずして また凡(よのつね)の民を崇邱(たかきところ)の祭司と為り 即ち誰にても好む者は之を立てければ 其の人は崇邱の祭司と為り 此の事ヤラベアムの家の罪戻(つみ)となりて 遂に之をして地の表面(おもて)より消失せ 滅亡に至らしむ。 -列王紀略下13:33,34-

イスラエルの王ソロモンは、その盛んなるに及んで多くの妻妾を抱えた。彼女たちは、異教徒であった。そして異なる神々の教えをソロモンに吹き込み、ソロモンもまた偶像教の教えに従った。

主なる神は、ソロモンが心変わりをし、真の神を離れて偶像教に走ったのを見て怒り、その子の時代には必ず国を二分して、その一つを他の者に与えると言われた。

果たしてソロモンの死後、その子レハベアムの時代に家臣ヤラベアムが謀反を起こしてレハベアムに対抗し、王国はユダとイスラエルに二分された。神が言われた通りである。

エルサレムを都とし、神殿を持つ南王国ユダの王レハベアムに対抗して、北王国イスラエルの王となったヤラベアムは、もし民がエルサレムの神殿に行って献げ物をするならば、民心が離反して自分の身に危害が及ぶと考え、そうならないため、ベテルとダンの二ヵ所に崇邱(たかきところ)を定め、金の犢(こうし)を造リ、これを神と称えて置き、自らこれに仕えると共に民にも仕えさせた。

またレビ人以外の只人を祭司に立てたので、北王国に住まうレビ人は祭司の職を失い、耕地を捨てゝレハベアムに帰した。またヤラベアムは8月15日にユダにある節期に合わせてイスラエルの節期を設け、自らその作った金の犢に礼物を献げ香をたいた。

これをヤラベアムの罪と云い、ヤラベアムの道と云う。

この後、イスラエルの諸王はヤラベアムの道に歩み、神の怒りを積み重ね、アッシリアに捕え行かれることになる。また南王国ユダもこれに倣い、真の神を離れて神の怒りを買い、遂にはバビロンに捕囚されることになった。

預言者エレミヤによって言われた如く、70年後に捕囚を解かれてエルサレムに帰ったユダとイスラエルの民は、聖書学者エズラに導かれ心を一つにして神を信じ、再び偶像教になることはなかった。

今日、キリスト教徒が唯一の神を信じ、ただこれにのみ仕え奉るのは、聖書に基づく信仰に発している。

我等には父なる唯一の神あるのみ、萬物これより出で、我らも亦これに帰す。また唯一の主イエス・キリストあるのみ、萬物これに由り、我らも亦これに由れり。 -コリント前8:6-

聖霊と我等とは左の肝要なるものの他に何をも汝らに負はせぬを可しとするなり。即ち偶像に献げたる物と血と絞殺したる物と淫行とを避くべき事なり、汝等これを慎まば善し、なんぢら健かなれ。 -使徒行伝15:28、29-

       P1030926a  礼拝後の猛吹雪!

まづ神の國と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。 -マタイ6:33-

キリスト信者と未信者とは本質的に違う。

キリスト信者«クリスチャン»は、神によって救われ、神を知る者となり、神に祈り天に蓄えある物を求めるようになった。

未信者は、地にある物のみを求める。衣食住に関わる物、名誉や地位、金銀財宝、富の数々である。

主は「人は二人の主に兼ね事ふること能はず、・・・汝ら神と富とに兼ね事ふること能はず」と言われた。

そして、神は人がこの世で生きていくために必要とする物は悉くご存知である、そのつど与えるから思い煩うことはないと言われたのである。

世の物を求める先に、「神の国と神の義とを求めなさい」と主は言われる。

神の国に入る特権を得ること、即ち「水と霊」の全き救いを得て神の子になること、そして人の義ではなく、信仰による義を得て神に寄り頼むならば、必ず必要は増し加わって与えられると主は言われたのである。

この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。 -同6:34-

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