道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2013年06月

       P1040524

なんぢら人に為られんと思ふごとく人にも然せよ。 -ルカ6:31-

早や60年近くなろうか。救われた当時の教会の先生夫妻の娘の A 子ちゃん、当時1歳半くらいだった。妹の M子 ちゃんが年子で生まれて間もなく、母親の Y 師が病を得て召されていった。(既報=2010.05.29/我になんぢの面を見させよ)

父親の J 師は再婚し、新しい母親が来た。そして何人か弟や妹が生まれた。しかし、先の二人の娘たちには幸せは訪れなかった。

アメリカに帰って、学業を終えた後、自立の生活を求めて、それぞれの道を歩み始める二人。その間にも心の中に想うのは、幼くして別れた亡き母のこと。手元にあるのは僅か数枚の写真のみ・・・。

( 私たちの母はどんな人だったんだろう。知っている人はいるのだろうか?)

この問いかけが、回り回って届いてきた。

とうの昔にお別れし、最早、何の関わりもなくなったと思っていたが、この答えを持っているのは、今となってはただ一人のみ・・・。

Y 師とは、1年間の主にあっての交わりであった。その間は近くにいて数多くの信仰の手ほどきを受け、導きを頂いた。御恩を返すにも術がないと思っていた。

あれこれと当時のことを思い返し、PCで一文に綴り、依頼された人を介して A 姉妹に送った。

あれから3年、忘れるともなく月日が流れ去ったが、この程ロスアンゼルス在住の A 姉妹から手紙が届いた。最近、その記録を3度も読み返して感動したというお礼の言葉に加えて、「ほんのすこしのおかねだけれども ひつようなことにつかってください」 とお金と共に、最近友人が撮ってくれたという写真が同封されてあった。

今までは、思い出すたびに脳裡に浮かぶのは、分かれた時の2歳くらいの面影だけだったが、60歳を過ぎた今、御主人と共にいる幸せそうな笑顔がそこにあった。

いつの日にか、再会できる時がくれば幸いだなと思っている。積る話が沢山あるのだから・・・。

人に與よ、然らば汝らも與へられん。人は量りをよくし、押し入れ、揺すり入れ溢るるまでにして、汝らの懐中(ふところ)に入れん。汝らおのが量る量りにて量らるべし。 -同:38-

      P1040475a

汝らの近づきたるはシオンの山、活ける神の都なる天のエルサレム、千萬(ちよろづ)の御使の集会(あつまり)、天に録されたる長子どもの教会、万民の審判主なる神、全うせられたる義人の霊魂(たましひ)、新約の中保(なかだち)なるイエス、及びアベルの血に勝りて物言ふ灑(そそぎ)の血なり。 -へブル9:22~25-

へブル書9:18以降を読むと、始めの方に、シナイ山でモーセとイスラエルの民が神から十戒を戴く場面が記されている。詳しくは出エジプト記19:7以降に記されているのだが、シナイ山の上には雷鳴と雷光、密雲があり、ラッパの声が高く響き、山は煙を出して震えた。そして神の声が聞こえた。民は皆恐れて震えたとある。モーセも「われ甚く怖れ戦けり」と言っている。

人に罪を指摘する律法は厳しいものだ。もし神が審判主として眼前に現れたら、皆怖れ戦き、御前に立ち得ないであろう。

ヨハネ黙示録6:12~17には、世の終りの日のことが記されてある。

地の王たち・大臣・将校・富める者・強き者・奴隷・自主の人みな洞と山の巌間に匿れ、山と巌とに対ひて言ふ 『請ふ我らの上に墜ちて、御座に坐したまふ者の御顔より、羔羊の怒由り、我らを隱せ。そは御怒の大なる日既に來ればなり。誰か立つことを得ん』 とある。

こうしてみると、地にある物は、人も獣も、更に日も月も星も悉く震われる運命にある。

ただ一つ震われぬ者がいる。それは、震われぬ国を受けた者、神の国に属する者だ。

我らは、水のバプテスマを受け、火のバプテスマ、即ち聖霊のバプテスマを受けた故に、神の国に入れられたことを感謝しよう。

あなたが、もしこの救いに与っていなければ、ぜひ[水と霊」を受けてください。

   *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

お知らせ [E:house]  ホームページを更新しました。 http://dooh-imk.info

      御霊の声 と Facebookもご覧ください! (ホームページ関連リンク)

       P1040451  足場の架設

       P1040462  コーキングの除去作業

萬軍のヱホバ宣ふ 是(これ)は 権勢(いきほひ)に由らず 能力(ちから)に由らず 我霊に由るなり -ゼカリヤ4:6-

道央イエス之御霊教会の外壁工事が始まった。

6月13日(木)午前8時、二台の大型トラックに山積みされたパイプが下ろされ、四人の鳶職の人たちによって足場が組まれていく。夕方にはご覧の通りに出来上がった。

翌日からタイルの点検と古くなったコーキング剥がしが始まった。

安息日礼拝の中で兄弟姉妹心を合わせて工事の為に祈った。

これから連日、外壁の目地やコーキング、屋上の塗装など、それぞれの役割をもった人たちが、入れ替わり立ち代わりして作業をしてくださる。ありがたいことである。

7月20日の完成に向けて、新たなスタートを切った。

今年の北海道大聖会が開かれる時には、装いも新たな会堂となっていることを感謝したい。

我その四周(まはり)にて火の垣となりその中にて榮光(さかえ)とならん -ゼカリヤ2:5-

彼すなはち見るに 火の馬と火の車山に盈(みち)て エリシャの四周に在り -列王下6:18-

主イエス・キリストは我らの祈りを聞き、すべて求むる所、すべて思ふ所よりも甚く勝る事をなして祝福してくださると信じて、感謝する。

ねがはくはなんぢがこゝろの願望(ねがひ)をゆるし なんぢの謀略(はかりごと)をことごとく遂しめたまはんことを 我儕(われら)なんぢの救によりて歓びうたひ われらの神の名によりて旗をたてん -詩篇20:4,5-

       021a

マタイ伝18章21~35節には、赦しのことが書かれている。

ペテロがイエス様に質問した。

『 主よ、わが兄弟われに対して罪を犯さば幾たび赦すべきか、七度(たび)までか 』

イエスは答えて言われた。

『 否われ 「七度まで」 とは言はず 「七度を七十倍するまで」 と云ふなり 』

同じ相手から何かの仕打ちを受けた場合、私たちはそれほど多く赦すことができるだろうか?

世の多くの人は、そのような相手を到底許すことができない。カーツと頭に血が上り、争いごとになり、訴えたり、裁いたり、復讐したり、何かしなければ気持ちが収まらない。 ペテロの言う、赦すことは 『七度までか』 だって、すごい事だ。

しかし、主は 『七度を七十倍するまで』 と言われたのである。

そして主イエス様は、王と家来の例え話をされた。

王から1万タラントの借金をした家来が返済不能になった時、王は家来の「寛くし給へ、さらば悉く償はん」と懇願するのを聞き、彼を憐み、その負債を免除したという。 ところが、その家来は100デナリを貸した同僚に会って、首を絞め、[負債を償え」と言い、同僚が「寛くし給へ、さらば償はん」と懇願するのに耳をかさず、牢屋に入れてしまった。

一部始終を知った他の同僚たちがこの事を王に知らせたので、王はその家来を呼び出し、『悪しき家来よ、私がお前を赦した如く、同僚を憐れむべきでないか』と言って獄卒に付したというのである。イエス様は「こころより赦せ」と言われているのである。

もし汝等おのおのその兄弟を赦さずば、我が天の父も亦なんぢらに斯くのごとく為し給ふべし -35節-

十字架に架かられた主イエスは、苦痛の中でこう言われた。

『父よ、彼らを赦し給へ、その為す所を知らざればなり』 -ルカ23:34-

時の大祭司も、智者・学者も、彼らの信ずる神の独り子を自らの手で十字架に掛けたことを知らなかったのである。

サウロもまた、ステパノの殉教を可とし、クリスチャンへの恐喝と殺害をに気を充たし、ダマスコの信者を捕えようと出かけたが、途中で天よりの光を見、地に倒れて『サうロ、サうロ、何ぞ我を迫害するか』と声を聞き、『主よ、なんぢは誰ぞ』と問うと、『われは汝が迫害するイエスなり』という声を聞いた。

このことあってサウロ=パウロは、主が遣わされたアナニヤの言葉を聞き、回心し、聖霊に満たされ、バプテスマを受けて救われ、異邦人に福音を持ち行く選びの器とされたのである。 -使徒行伝9:1~19-

我に能力(ちから)を賜ふ我らの主キリスト・イエスに感謝す。われ曩(さき)には瀆(けが)す者、迫害する者、暴行の者なりしが、我を忠実なるものとして、この職(つとめ)に任じ給ひたればなり。わえ信ぜぬ時に知らずして行ひし故に憐憫を蒙れり。而して我らの主の恩恵は、キリスト。イエスに由れる信仰および愛とともに溢るるばかり弥増せり。 『キリスト・イエス罪人を救はん為に世に來り給へり』 とは信ずべく正しく受くべき言(ことば)なり、其の罪人の中にて我は首(かしら)なり。然るに我が憐憫(あはれみ)を蒙りしは、キリスト。イエス我を首に寛容をことごとく顕し、この後、かれを信じて永遠(とこしへ)の生命(いのち)を受けんとする者の模範となし給はん爲なり。願くは萬世の王、すなはち朽ちず見えざる唯一の神に、世々限りなく尊貴(たふとき)と榮光とあらん事を、アァメン。 -テモテ前1:12~20-

私たちは、主イエス様より、「七度を七十倍」するほどに罪赦された者であることを感謝しなければならい。

この故に汝らは神の選民にして聖なる者また愛せらるる者なれば、慈悲の心・仁慈(なさけ)・謙遜・柔和・寛容を著よ。また互に忍びあひ、若し人に責むべき事あらば互に恕(ゆる)せ、主の汝らを恕し給へる如く汝らも然すべし。凡て此等の上に愛を加へよ、愛は徳を全ふする帯なり。 -コロサイ3:12~14-

              [E:note]   赦しの泉 いと深けれ

             汲みても汲みても 尽きせぬ水

             うるおい来たりぬ 渇きしわれ

            絶えざれやイエスの 愛の泉よ

                 霊讃歌94番「愛の泉」4節

       P1040365

然れば、われ第一に勧む、凡ての人のため、王たち及び凡て権を有つものの為におのおの願、祈祷(いのり)、とりなし、感謝せよ。是われら敬虔と謹厳とを盡して安らかに一生を過さん爲なり。 -テモテ前2:1,2-

自分以外の他の人のために、時間を割いて祈ることは、尊いことである 私たちは祷告者(とうこくしゃ)として人々の為に祈る役割が与えられている。

おのおの己が事のみを顧みず、人の事をも顧みよ。汝らキリスト・イエスの心を心とせよ。 -ピリピ2:4,5-

祷告者については、出エジプト記17章8節以降で、こう教えている。

モーセ手を挙げをればイスラエル勝ち 手を垂ればアマレク勝てり 然るにモーセの手重くなりたれば アロンとホル石をとりてモーセの下におきて その上に坐せしめ 一人は此方 一人は彼方にありてモーセの手を支へたりしかば その手日の没(いり)まで垂下(さがら)ざりき 

荒野を歩むイスラエル人の前にアマレク人が現れ、前進を阻んだ。

イスラエル人の祖先はヤコブであるが、アマレ人の祖先は、ヤコブの兄であるエサウの子エリパズが妾のテムナとの間に儲けたアマレクであった。-申命記25:17~19-

斯く、始めは兄弟である人々であったがイスラエルを霊なる人に喩えると、アマレクは肉なる人であった。 霊と肉とは交わることなく、互に戦うものとなった。

モーセは、従者のヨシュアに命じて、イスラエルの全軍をしてアマレクに立ち向かわせ、自らは岡に登り、頂きに立って、手を挙げて神に祈った。

モーセが手を挙げればイスラエルが勝ち、疲れて手が垂れるとアマレクが勝った。これを見たアロンとホルの二人は、モーセを石の上に座らせ、それぞれ左右の手を持って垂れることのないようにした。

モーセがアロンとホルの助けを得て手を挙げて祈り続けたので、イスラエルは勝利したのである。一人より二人、三人の祈りの方が、太いパイプになる。

ヨシュアは、三人の祈りなくしては勝利できなかった。伝道者も多くの祷告者の祈りなくしては、成果を挙げることはできないのだ。

人もしその一人を攻撃(せめうた)ば二人してこれに當るべし 三根(いこ)の縄は容易(たやす)く斷(きれ) -伝道之書4:12-

先ずは、自分のための祈りはさて置き、心に掛かる人々のために祷告者となって祈ろう!!

このページのトップヘ