2013年08月
婚宴の席は客にて満てり
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斯くて僕どもに言ふ「婚宴は既に備たれど、招きたる者どもは相応しからず。然れば汝ら街(ちまた)に往きて遇ふほどの者を婚宴に招け」 僕ども途に出でて善きも悪しきも遇ふほどの者をみな集めたれば、婚礼の席は客にて満てり。 -マタイ22:8~10-
来月は北海道大聖会が札幌で開かれる。遠き地より多くの牧師先生方、聖徒方がはるばるやって来られる。一つ御霊を受け、キリストにありて一体とされた神の子たちが、一堂に集って、共に主を崇め、主に仕え、主の恵みと祝福に与る時です。大感謝をもって一人でも多く出席致しましょう。
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祈り 遠きブラジルのマットグロッソ教会の佃泉先生が、昨日天に召されたとの訃報を受けました。告別式は、バストス教会の山田卓志先生の司式で行われるとのこと。祝福と平安を祈ります。「水と霊」の福音伝道のために一生を献げた泉先生のため、また佃太郎先生とマットグロッソ教会のために祈りましょう。
我が名を呼びたもう主
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われなんぢに暗(くらき)ところの財寶(たから)と ひそかなるところにかくせるたからとを予(あた)へ なんぢに我はヱホバ なんぢの名をよべるイスラエルの神なるを 知らしめん -イザヤ45:3-
我らの神は万物の創造者であり、全ての物はこれより出で、これに帰する。
その満ち満ちたる富の如何に大いなるかを、人は知ることもできない。
天国の密室に隠された財宝を我らに与え、その愛の計り知るを得ざることを示し給う。
ああ、その無限の愛よ!
神は、我らの全てを知り給う。
名乗らざる先に「ザアカイ、急ぎおりよ、今日われ汝の家に宿るべし」と呼び給う主である。 -ルカ19:1~10-
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お知らせ ホームページ関連リンク「御霊の声」に 回顧録ー27 を載せました。[E:eye]
アブラムへの恵み
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アブラハムは答えた。
「この土地には、神を畏れることが全くないので、わたしは妻のゆえに殺されると思ったのです。事実、彼女は、わたしの妹でもあるのです。わたしの父の娘ですが、母の娘ではないのです。それで、わたしの妻となったのです。かつて、神がわたしを父の家から離して、さすらいの旅に出されたとき、わたしは妻に、『わたしに尽くすと思って、どこへ行っても、わたしのことを、この人は兄ですと言ってくれないか』とたのんだのです。」 -創世記20:11~13・新共同訳-
アブラハムはアブラムと呼ばれた75歳の時に、神に導かれてカナンの地に移住した。
その地で、彼は、神から祝福を約束されて喜ぶのだが、次に試練が襲って来た時に、彼の弱さが露呈する。
飢饉のため、エジプトに逃れた彼は、その土地の人を怖れる。妻サライが美しい婦人なので、妻が奪われ、自分は殺されると思ったからである。彼は、妻を妹と紹介してエジプト人を欺いた。
エジプト王は、アブラムに、羊、牛、ラクダ、ロバ、男女の奴隷を贈り、サライを妃にするべく王宮に迎え入れた。危ふし、サライの身!
しかし、神はサライを守るために、王の家に災いを起こした。王は、真実を察知してアブラムを呼び、サライを連れ去るようにと言った。 -創世記12章-
14年後、同じことが再び起きる。アブラハムとサラがゲラルに行ったとき、アブラハムがゲラルの王に、妻を妹だと言ったために、召し入れられた。またしても危ふし、サラの身!
しかし、アビメレクの夜の夢に神が現れ、真実を告げられる。
翌朝、アビメレクはアブラハムを呼んで理をただした時に、アブラハムが答えたのが、上掲の言葉である。それを聞いてアビメレクは、アブラハムに、羊、牛、男女の奴隷に銀貨1,000枚を添えて渡し、サラに詫びを入れて、返したのである。 ー創世記20章ー
信仰の父と謂われるアブラハムだが、常人のごとく恐れを抱く弱さも持っていたのである。だが、神はそれを超えるお方であって、事が起きるたびに彼の持ち物は多くなっていった。
神が祝福すると定めた人は、何があっても、祝福されていくものである。
主イエスに従う道
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『 我に従いきたれ、然らば汝らを人を漁(すなど)る者となさん』-マタイ4:18-
ガリラヤの湖の辺りで、主は二人の兄弟ペテロとアンデレが網打ちしているのをご覧になった。
主はその船に乗り、船上から岸辺にいる群衆に向かって御言葉を語られたのち、ペテロに言われた。『 深處(ふかみ)に乗りいだし、網を下して漁れ 』と。ペテロは答えて言った『君よ、われら終夜(よもすがら)、労したるに何をも得ざりき、然れど御言に随ひて網を下さん』 そして、その通りにすると、おびただしい魚がかかり、網がやぶれそうになった。 -ルカ5:1~11-
人が良しとすることで、成就しないことが多くある。しかし主が定めたことを行えば実を結ぶことができる。
主は、ペテロとアンデレ、そしてヨハネとヤコブの兄弟たちを選び、福音を伝える者として選ばれた。魚をとる漁師としてではなく、人をすなどる漁師としてである。
彼らは、主に従い、福音に仕える働き人となった。
主に見出される以前のペテロたちのように、一日一飯を求めて歩む人は多い。だが、それは永遠の生命に至る幸いの道ではない。また一方、すでに巨万の富を手にしている一握りの成功者もいる。でも、それは本当の幸いを得たのだろうか? 否、たとえ「人、全世界をもうくとも、己が生命(いのち)を損せば、何の益かあらん、またその生命の代に何を与えんや」という主の御言葉に耳を傾けなければならない。 -マタイ16:24-
主に従う道こそ最も幸いな道である。
♪ 主に従う道は 花咲き香り
御霊の木の実は 豊かにみのる
その道すじに 油したたり
ハレルヤ ハレルヤ 御霊の声す ♪
霊讃歌149番 3節