道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2013年11月

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イエス答へ給ふ『わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり』 -ヨハネ5:17-

エルサレムのペテスダの池の辺に、大勢の病人が運ばれてきていた。

その池に、御使いが時々降りてきて水を動かすのだが、一番最初に水に入る者は、どんな病気であれ癒されるのであった。

爰に38年もの長い間、病になやむ人がいたが、通りかかったイエス・キリストが目を留め、長患いであることを見てとって、

『なんぢ癒えんことを願ふか』と言われたので、病める人は答えて、

『主よ、水の動くとき、我を池に入るる者なし、我が往くほどに他の人、さきだち下るなり』と答えた。

イエス言ひ給ふ『起きよ、床を取りあげて歩め』この人ただちに癒え、床を取りあげて歩めり。 -8節-

主イエス・キリストによって奇蹟が行われたのである。

その日は、安息日であった。律法主義者のユダヤ人は、癒された人に向かって『安息日なり、床を取りあぐるは宜しからず』と責め立てた。

彼等には、安息日にこそ人は苦難や、罪の縄目から解かるべきだという主イエス・キリストの心が分からなかったのである。

その人を癒したのがイエスだと知った彼らは、なぜ斯かることを行ったのかとイエスを責めた。

主は答えて『わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり』と答えられた。

この言葉を聞いて、ユダヤ人はイエスを殺そうと思った。それは安息日を破るのみでなく、神を我が父と言って、自分を神と等しい者にされたからである。

主は、言葉を継いで、父と子の一つなること、その証は父自らが子の中にあって業を為しておられることだと語られた。

今日もまた然り、主の御霊は我らの中に在って、活き働き大いなる御業を為し給うのである。 ハレルヤ!

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お知らせ 「御霊の声」FC2ブログに、回想録-30 御霊を等閑にすなを載せました      http://dooh-imk.info の関連リンクより 

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善く執事の職をなす者は良き地位を得、キリスト・イエスに於ける信仰につきて大なる勇気を得るなり -テモテ前3:13-

いざ我ら曩に主の御言を傳へし凡ての町にまた往きて兄弟たちを訪ひ、その安否を尋ねん  -使徒行伝15:36-

我らは弱き器であるが、聖霊の力によって強められ、勇気を得て、主の福音のために兄弟姉妹のために用いられることを感謝する。

       P1000316  ななかまど

人たちて爾(なんぢ)を追ひ 爾の生命(いのち)を求むれども  わが主の生命は 爾の神ヱホバとともに生命の包嚢(つつみ)の中に包みあり  爾の敵の生命は 投石器(いしなげき)のうちより投すつる如くヱホバこれをなげすてたまはん -サムエル前25:29-

ダビデがイスラエルの王となる以前の出来事・・・。

夫ナバルがダビデの好意に背いて怒りを買い、剣を以って打たれようとした時、賢夫人アビガルはいち早く贈り物を携えてダビデの許を訪れ、懇願して言った。

「主なる神は、必ず正しきダビデに堅き家を立てさせてくださいます。いま人があなたの命を狙って来ても、あなたの神、主によって命の袋に納められ、敵の命こそ投げ飛ばされるでしょう。主があなたをイスラエルの王となさる時、流血の罪や、自らの手で復讐したことを思い出して心の責めとなりませんように。その時が来たらはしためを思い出してください」と。

ダビデは、アビガルの言葉を聞入れ、彼女の顔を立てて、立ち去った。

アビガルが家に帰ると、何も知らぬナバルは酒宴にふけっていた。翌朝酔いが覚めた時に、アビガルが昨日の成り行きを話すと、ナバルの心はそのうちに死んで身は石のようになった。十日ほど経って主はナバルを打たれ、彼は死んだ。

それを聞いたダビデは人をアビガルに遣わして、妻にしたいと申し入れた。彼女は立ってダビデの妻となった。

   ♪ 妻をめとらば才たけて みめ美わしく情けある ♪  -与謝野鉄幹-

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我らは人を惑わす者の如くなれども眞、人に知られぬ如くなれども人に知られ、死なんとする者の如くなれども、視よ、生ける者、懲さるる者の如くなれども殺されず、憂うる者の如くなれども常に喜び、貧しき者の如くなれども多くの人を富ませ、何も有(も)たぬ者の如くなれども凡ての物を有てり。 -コリント後6:8~10-

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イエス答へて言ひ給ふ『すべて此の水をのむ者は、また渇かん。然れど我があたふる水を飲む者は、永遠(とこしへ)に渇くことなし。わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命(いのち)の水湧きいづべし』 -ヨハネ4:13,14-

ヤコブの井戸の傍らで、サマリヤ人の女に活ける生命の水を与えようと言われるイエス様。

『主よ、わが渇くことなく、又ここに汲みに來ぬために、その水を我に與へよ』とサマリヤの女は言う。-15節- その水とは何か・・。

祭りの終の大なる日にイエス立ちて呼はりて言ひたまふ『人もし渇かば我に來りて飲め。我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし』これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。イエス未だ榮光を受け給はざれば、御霊いまだ降らざりしなり。-ヨハネ7:37~39-

活ける生命の水とは、我らに約束された御霊なのだと主は言い給う。

(あゝ)なんぢら渇ける者ことごとく水に來れ 金なき者もきたるべし 汝等きたりてかひ求めてくらへ きたれ金なく價(あたひ)なくして葡萄酒と乳とをかへ なにゆゑ糧にもあらぬ者のために金をいだし 飽ことを得ざるもののために勞するや われに聴き從へ さらばなんぢら美物(よきもの)をくらふをえ 脂(あぶら)をもて その霊魂(たましひ)をたのしまするを得ん -イザヤ5:1,2-

イザヤ書に記された預言。生命の水と霊の糧、主イエス様に従うならば全てを与えると約束してくださった。

『渇く者はきたれ、望む者は價なくして生命(いのち)の水を受けよ』-黙示録21:17- とヨハネは言う。教会に来られ、主に求めて聖霊を受けられよ。

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かれは誰にをしへて知識をあたへんとするか 誰にしめして音信(おとづれ)を嘵(さと)らせんとするか 乳をたち懐をはなれたる者にするならんか そは誡命(いましめ)にいましめをくはへ 誡命にいましめをくはへ 度(のり)にのりをくはへ 度にのりをくはへ 此にもすこしく 彼(かしこ)にもすこしく教ふ 

このゆゑに神あだし唇と異なる舌とをもて この民にかたりたまはん 曩(さき)にかれらに言ひたまひけるは此は安息(やすみ)なり 疲困(つかれたる)者にやすみをあたへよ 此は安慰(なぐさめ)なりと されど彼らは聞くことをせざりき 

斯るがゆへにヱホバの言かれらにくだりて 誡命にいましめをくはへ 誡命にいましめをくはへ 度にのりをくはへ 此にもすこしく 彼にも少しくをしへん 之によりて彼等すゝみてうしろに仆れ そこなはれ(わな)にかゝりて捕へらるべし -イザヤ28:9~13-

聖霊を受けるならば、異言を以って豊かに祈ることができる。魂に安息が与えられる。心に安らぎが来る。イエス様に養われる。

それなのになぜ異言に反対し、代わりに人が作った教理を求め、神学を追い求めるのか。人には賢そうに見えるが、実は神の前では愚かだ。それは聖霊に背き、益々主から離れることになるではないか。立ち返れよ!

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