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使徒たちの手によりて多くの徴と不思議と民の中に行われたり。彼らはみな心を一つにして、ソロモンの廊にあり。他の者どもは敢て近づかず、民は彼等を崇めたり。信ずるもの男女とも増々おほく主に属けり。終には人々、病める者を大路に舁ききたり、寝臺または床の上におく、此等のうち誰にもせよ、ペテロの過ぎん時、その影になりと庇(おほ)はれんとてなり。又エルサレムの周囲の町々より多くの人々、病む者・穢れし霊に悩まされたる者を携へきたりて集ひたりしが、みな醫(いや)されたり。 -使徒行伝5:12~16-
なんという幸いだろうか。復活なされた主イエス・キリストは、聖霊により使徒たちを用いて悩み苦しむ民のために大いなる御業を行い給うたのだ。
ところがである・・・
爰に大祭司および之と偕なる者、即ちサドカイ派の人々、みな嫉(ねた)みに満されて立ち、使徒たちに手をかけて之を留置場に入る。然るに主の使、夜、獄の戸をひらき、彼らを連れ出して言ふ『往きて宮に立ち、この生命の言をことごとく民に語れ』 -5:17~20-
不信仰な大祭司や学者たち、彼らは主イエス・キリストが神であることを悟らず、また彼らにとって十字架にかけて地上から抹殺した筈のイエスの教えを、無学の凡人である使徒たちが継承して、宣教し続けることは許し難いことだった。
しかし、使徒たちは皆、聖霊の助けを得て恐れることなく、勇敢に主を証して行ったのである。
そしてまた教法学者ガマリエルは、議会の席上で理に適う道を説き、使徒たちの行為に就きこのように諭した。
『・・然れば今なんぢらに言ふ、この人々より離れて、その爲すに任せよ。若しその企圖(くはだて)の所作(しわざ)、人より出でたらんには自から壊(やぶ)れん。もし神より出でたらんには彼らを壊ること能はず、恐らくは汝ら神に敵する者とならん』 -5:38,39-
こうして使徒たちは止むことなく、イエスのキリストなることを宣伝えたのである。
なんぢ御言を宣伝へよ、機(おり)を得るも機を得ざるも常に勵め -テモテ後4:2-