道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2014年01月

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使徒たちの手によりて多くの徴と不思議と民の中に行われたり。彼らはみな心を一つにして、ソロモンの廊にあり。他の者どもは敢て近づかず、民は彼等を崇めたり。信ずるもの男女とも増々おほく主に属けり。終には人々、病める者を大路に舁ききたり、寝臺または床の上におく、此等のうち誰にもせよ、ペテロの過ぎん時、その影になりと庇(おほ)はれんとてなり。又エルサレムの周囲の町々より多くの人々、病む者・穢れし霊に悩まされたる者を携へきたりて集ひたりしが、みな醫(いや)されたり。 -使徒行伝5:12~16-

なんという幸いだろうか。復活なされた主イエス・キリストは、聖霊により使徒たちを用いて悩み苦しむ民のために大いなる御業を行い給うたのだ。

ところがである・・・

爰に大祭司および之と偕なる者、即ちサドカイ派の人々、みな嫉(ねた)みに満されて立ち、使徒たちに手をかけて之を留置場に入る。然るに主の使、夜、獄の戸をひらき、彼らを連れ出して言ふ『往きて宮に立ち、この生命の言をことごとく民に語れ』 -5:17~20-

不信仰な大祭司や学者たち、彼らは主イエス・キリストが神であることを悟らず、また彼らにとって十字架にかけて地上から抹殺した筈のイエスの教えを、無学の凡人である使徒たちが継承して、宣教し続けることは許し難いことだった。

しかし、使徒たちは皆、聖霊の助けを得て恐れることなく、勇敢に主を証して行ったのである。

そしてまた教法学者ガマリエルは、議会の席上で理に適う道を説き、使徒たちの行為に就きこのように諭した。

『・・然れば今なんぢらに言ふ、この人々より離れて、その爲すに任せよ。若しその企圖(くはだて)の所作(しわざ)、人より出でたらんには自から壊(やぶ)れん。もし神より出でたらんには彼らを壊ること能はず、恐らくは汝ら神に敵する者とならん』 -5:38,39-

こうして使徒たちは止むことなく、イエスのキリストなることを宣伝えたのである。

なんぢ御言を宣伝へよ、機(おり)を得るも機を得ざるも常に勵め -テモテ後4:2- 

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茲にヤコブその途に進みしが 神の使者(つかひ)これにあふ ヤコブこれを見て、是は神の陣営なりといひて その處の名をマハナイム(ニ営)(※ 二個の陣営の意)となづけたり -創世記1,2-

マハナイムに着いたヤコブに神の使いが現れて、共に居るから大丈夫と励ましてくれたが、忽ち、不安が襲ってくる。兄エサウの許に遣わした使いの返り事で、エサウが400人を従えて迎えに来ると聞いたからである。

20年前にヤコブは、エサウから長子の権を奪い、父イサクの祝福を全て奪ったので、復讐を怖れたのだった、

懐かしの故郷へ帰還を前にして、ヤコブは、兄の怒りが妻子や家畜に及び、挙句の果てには自分の命にも及ぶと考えたのである。

ヤコブは手立てを思案する。先ず家畜の群れを二隊に分けること、片方が打たれても、もう片方が生き延びるためである。12人の子どもも、4人の妻たちの傍らに置いた。

更に、兄エサウの怒りを宥めるために、礼物として家畜の中の良い物を550頭選び、先だって贈った。-箴言18:16及び21:14-

そして、ヤボク川の辺に着くと全てを渡らせ、自分一人残った。すると一人の人が現れ、一晩中相撲をとった。その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を外した。夜明けになり、その人は去ろうとしたが、ヤコブは自分を祝福してくれなければ去らせないといった。ここの所は、ヤコブが人生最大の危機に際して、神の加護と絶対の祝福とを切に願っている姿が描かれている。

その人は、お前の名は何というかと問うた。ヤコブだと答えると、その人は言った。

汝の名は重ねてヤコブととなふべからずイスラエルととなふべし其は汝神とひととに力をあれそひて勝ちたればなりと -32:28-

ヤコブは、兄エサウに平和の裡に会うことができた。そして各々住まうべ土地へ帰って行った。

ヤコブは胎(はら)にゐし時 その兄弟の踝をとらへ また己が力をもて神と角力(すまひ)あらそへり かれは天の使とあらそひて勝ち なきて之に恩(めぐみ)をもとめたり 彼はベテルにて神にあへり 其處にて神われらに語(ものい)ひたまへり これは萬軍の神ヱホバなり ヱホバは記念の名なり 然ばなんぢの神にかへり 矜恤(あはれみ)と公義(たゞしき)とをまもり 恒になんぢの神を仰ぐべし -ホセア12:3~6-

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時にサレムの王メルキゼデク、パンと酒とを持出すり 彼は至高き神の祭司なりき 彼アブラムを祝して言ひけるは 願くは天地の主(ぬし)なる至高神(いとたかきかみ)アブラムを祝福(めぐ)みたまへ 願はくは汝の敵を汝の手に付したまひし至高神に稱譽(ほまれ)あれと アブラム乃ち彼に其諸(すべて)の物の什分の一を饋(おく)れり -創世記14章より-

アブラムは、甥のロトらがエドムの王ケダラオメルらによって虜にされたと聞き、奪い返そうと家の子318人と、契約を結んだマムレたちと共に戦いに出かけ、夜に乗じて攻めて撃ち破り、ロトと婦人たちと民と凡ての持物を取返してめでたく帰還した。

その時、サレムの王メルキゼデクが勝利者アブラムを迎えて、神の名をもって祝福した。メルキゼデクの言葉によってアブラムは、自らの信ずる神が 「至高神」 であることを知った。

メルキゼデクが持出した 「パンと酒」 とは、主イエス・キリストの御肉と御血を指している。即ち、主が言われた 「我は天より降りし活けるパンなり。人このパンを食はば永遠に活くべし。わが與ふるパンは我が肉なり、世の生命のために之を與へん」 また わが肉は眞の食物、わが血は眞の飲物なり」 を意味し ヨハネ6:51,57、「主の聖餐」を意味している。

時にロトが住むソドムの王がアブラムに礼物を贈ろうとしたが、アブラムは天地の主なる至高き神エホバの名を指して、一本の糸でも靴ひもでも彼から受け取らないと断った。後になって恩着せがましい口実を与えないためだった。

へブル書7章1~3節にはメルキゼデクについてこう記されている。

此のメルキゼデクはサレムの王にて至高き神の祭司たりしが、王たちを破りて還るアブラハムを迎へて祝福せり。アブラハムは彼に凡ての物の十分の一を分與へたり。その名を釋けば第一に義の王、次にサレムの王、すなはち平和の王なり。父なく、母なく,系図なく、齢の始めなく、生命の終なく、神の子の如くにして限りなく祭司たり。

そして、イエス・キリストに就いては、

『なんぢは永遠にメルキゼデクの位に等しき祭司たり』と 言う。 -5:6,7:17-

我らには、斯かる大祭司が付いておられ、天来の祝福を与えてくださるのである。







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視よ われ新しき事(わざ)をなさん頓(やがておこるべし なんぢら知らざるべけんや われ荒野に道をまうけ沙漠に河をつくらん  -イザヤ43:19-

主なる神は、今年も勇ましく働いてくださる。

毎日を平凡に過ごしているかのように見える生活の中に、突如として神の御業が為されてくる。

漁師として生きていたペテロとアンデレの許にイエス・キリストが来られて「我に従い来れ、然らば汝らを人を漁る者となさん」と御声をかけてくださった日から、二人の生涯は変わった。己のために生きるのではなく、神と人のために生きるようになった。

毎年余り変わり映えもなく、閉塞されたような生活の中にも、神の生きた働きが為されてくる。試練はある。忍耐も必要だ。だが、真実の神は我らをして耐え忍ぶこと能わぬほどの試練には遭わせず、遁るべき道を備える約束しておられる。 -コリント前10:13-

ルツ記は、希望の書だ。

飢饉のため財産を引き払い、ベツレヘムユダを去ってモアブに寄留したエリメレクとナオミ夫婦、息子のマロンとキリオンも共に行った。だが、エリメレクは死に、息子たちもモアブの女オルパとルツを娶るが,10年ばかりして共に死んだ。残ったのは、女三人のみ。

ナオミは、二人の嫁に実家に帰るように言った。オルパは泣く泣く帰ったが、ルツは「汝の民はわが民 汝の神はわが神」と言って付いてきた。

ベツレヘムに戻ったナオミはやつれ果てていた。ルツは働きに出た。落穂拾いの仕事である。ルツは知らなかったが、神に導かれて行った先はエリメレクの縁者であるボアズの麦畑であった。ルツはそこでボアズの情けにより数々の恵みに与り、夕暮れには一斗ばかりの麦を持って家に帰った。

ナオミは、ルツの幸せのために策を授けた。そして、ボアズによって財産は贖われ、ルツはボアズの妻となった。イエス・キリストによって我らが贖われ、新婦なる教会となった型である。

我らの創造された神は、たとえ火の中、水の中を通ろうとも守ってくださる「われ看てなんぢを寳とし尊きものとし亦なんぢを愛す」と言われる。 -イザヤ43:4-

「我かれらをわが栄光のために創造せり」 -同43:7- ハレルヤ!

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然れば此等の事につきて何をか言はん、神もし我らの味方ならば、誰か我らに敵せんや。己の御子を惜まずして我ら衆(すべて)のために付し給ひし者は、などか之にそへて萬物を我らに賜はざらんや。 -ロマ書8:31,32-

ハレルヤ! 明けましておめでとうございます。

2014年の聖言です。

先ず、信仰について。

我ら真のクリスチャンには、主なる神イエス・キリストが付いておられるゆえに何者をも恐れることはないという信仰がある。サタンは主なる神に敵対し、その子である我らに戦いを挑んでくる。然し勝利は我らにあり!

ぺリシテの巨人ゴリアテがイスラエルに戦いを挑んだとき、少年ダビデは信仰を持ち、勇を奮って立ち向かい勝利した。手にした武器は石投機と五つの石のみ、だが、戦いは武器によらず、イスラエルの神の名によるとの信仰をもって戦い、投げた石はゴリアテの額に突き入り、討ち倒した。

主と共に戦う我らには、試練にも艱難にも、勝利が約束されている。今年はあらゆることに、主を信ずる信仰をもって勝利する年でありたい。

次に、神は愛なり! 

御子イエス・キリストは我らの為に己が生命を投げ出して十字架に架かり、救い、贖ってくださった。その功により我らは神の実子となり、祈れよ!求めよ!さらば与えんと、祝福を約束された者となった。感謝して余りあるものがある。

救わるべき霊魂が与えられるように祈り、また多くの祝福に与って行きたい。

我ら一人一人の抱えている諸問題も全て神によって良きにされるように、祈ろう!

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