道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2014年03月

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わが兄弟よ、なんぢら各様(さまざま)の試練に遭ふとき、只管これを歓喜(よろこび)とせよ。そは汝らの信仰の験(ためし)は、忍耐を生ずと知ればなり。忍耐をもて全き活動(はたらき)をなさしめよ。これ汝らが全く、かつ備りて缼(か)くる處なからん爲なり。 -ヤコブ1:2~4-

試練(こころみ)に耐ふる者は幸福(さいはひ)なり。之を善しとせらるる時は、主のおのれを愛する者に約束し給ひし、生命(いのち)の冠冕(かんむり)を受くべければなり。 -同1:12-

私たちは、様々な形で信仰の試練に遭うことがある。でもそれは通るべき道なのだ。

主イエス・キリストでさえヨハネのバプテスマを受けた後で、御霊によって荒野に逐いやられ、40日の間サタンに試みられられ、勝利をされたのである。

ヨセフは、その兄弟に勝る者になると夢で告げられたが、嫉みを買ってエジプトに売られた。望みなきようになったかと言えばそうではなく、王の夢を解いて大宰相となり、飢饉の時に親・兄弟を迎え容れるようになる。神の預言は成就し、遠大な神の計画は実現された。-創世記37~50章-

ヨセフはうられて僕となりぬ かれらは足(あしかせ)をもてヨセフの足をそこなひ くろかねの(くさり)をもてその霊魂(たましひ)をつなげり 斯てそのことばの験(しるし)をうるまでに及ぶ ヱホバのみことば彼をこゝろみたまへり -詩篇105:17~19-

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ヤコブよなんぢ何故にわが途はヱホバにかくれたりといふや イスラエルよ汝なにゆゑにわが訟(うたへ)はわが神の前をすぎされりといふや 汝しらざるか聞ざるかヱホバはとこしへの神 地のはての創造者にして 倦(うみ)たまふことなく また疲れたまふことなく その聡明(さとき)こと測りがたし 疲れたるものには力をあたへ 勢力(いきほひ)なきものには強きをまし加へたまふ 年少(としわか)きものもつかれてうみ 壮(さか)んなるものも衰へおとろふ 然はあれどヱホバを俟望(まちのぞ)むものは新なる力をえん また鷲のごとく翼をはりてのぼらん 走れどもつかれず歩めども倦ざるべし -イザヤ40:27~31-

私たちは、時として神が見えなくなってしまうことがある。自分の祈った祈りが果たして神に届いたのだろうかと訝り、不信仰に陥る時がある。

しかし、そういう時こそ、神を見上げよとイザヤは言う。

私たちの神は、天地の創造者である。全能者であり、力ある偉大な神である。

この神なる主イエス・キリストに依り頼む者は幸いである。

私たちの内には、神の御霊が宿っている。御霊は助け主であり、導き手である。

神の御霊を受けた者は、捨てられることはない。神に愛され、守られ、祝福される者なのだ。

凡て勞する者・重荷を負う者、われに來れ、われ汝らを休ません。我は柔和にして心卑ければ、我が軛(くびき)を負いて我に學(まな)べ、さらば霊魂(たましひ)に休息(やすみ)を得ん。わが軛は易く、わが荷は輕(かろ)ければなり。 -マタイ11:28~30-

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なんぢら立ちかへりて静かにせば救をえ 平穏(おだやか)にして依頼(よりたの)まば力をうべし -イザヤ30:15-

物事すべてあせってはならない。急いてはならない。心を落ち着けて主を見上げ、祈って行けば道は開かれてくるものである「患難は忍耐を生じ、忍耐は練達を生じ、練達は希望を生ずとしればなり」とあるではないか。-ロマ5:3,4-

エホバこれにより俟(まち)てのち恩恵(めぐみ)を汝等にほどこし これにより上りてのちなんぢらを憐れみたまはん エホバは公平の神にましませり 凡てこれを俟望むものは福(さいはひ)なり シオンにをりエルサレムにをる民よ そのよばはる聲に應じて必ずなんぢに惠をほどこしたまはん -18,19節-

人が神に向かって祈る時、性急に祈りの応答を望むものだが、一日二日で聞かれるほど容易くはない。全くないとは言わないが、神の時と人の時との間には相違があることを知っておくべきである。そして、人が思いもよらない時に、神が一番良しと定め給う時に応答があるのだ。それは神の栄光が顕われるためである。

なんぢ右にゆくも左にゆくも その耳に これは道なり これを歩むべしと後邊(うしろべ)にてかたるをきかん -21節-

クリスチャンにとってありがたいことは、人生の岐路に差し掛かる時に、神の御声がかけられることだ。「あなたは、この道に進みなさい」と。その御言葉に從う人は、幸いである。必ず祝福を受ける。

かくてエホバその民のきずをつゝみ そのうたれたる創痍(いたで)をいやしたまふ日には 月のひかりは日の光のごとく 日のひかりは七倍(なゝかさ)をくはへて 七(なゝつ)の日のひかりの如くならん -26節-

何という喜びだろう。正に手の舞い、足の踏む処を知らずではないか。

主は我らの祈りに聴き応えて、ヨブが癒されし如く、ナアマンが癒されし如く、百卒長の僕が癒されし如くにしてくださるのである。ハレルヤ!






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讃むべきかな、我らの主イエス・キリストの父なる神、かれはキリストに由りて霊のもろもろの祝福をもて天の處にて我らを祝し、御前にて潔く瑕(きず)なからしめん爲に、世の創の前(さき)より我等をキリストの中に選び、御意(みこころ)のままにイエス・キリストに由り愛をもて己が子となさんことを定め給へり。 -エペソ1:3~5-

使徒パウロは、神が我ら一人々々のためにに天に蓄えある恵み豊かな祝福を与えようとして救い主イエス・キリストをお遣わしになったと言い、そして多くの人々の中から我らを選び、神の子としてくださった、それは天地が創られる以前から定められたことであると記している。誠に人智をもってしては計り知ることができない神の御計画の何と素晴らしいことであるかと思い、神の我らに対する愛の大きさに感謝するのである。

神はまた預言者エレミヤこう語られた。

われ汝を腹につくらざりし先に汝をしり 汝が胎をいでざりし先に汝を聖め 汝をたてゝ萬國の預言者となせり -エレミヤ1:5-

我ら御霊を受けし伝道者も、世の成らざる前よりイエス・キリストの中に選ばれた者であり、また兄弟姉妹も同じく神の御計画の中にあって、キリストに在りて神の産業と爲られたのである。

パウロは語を継いで、

その血に頼りて贖罪(あがなひ)、すなはち罪の赦しを得たり。-7節-

汝等もキリストに在りて眞の言、すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これは我らが受くべき嗣業の保証にして、神に属けるものの贖はれ、かつ神の榮光に譽あらん爲なり。 -13,14節-

と記している。

主イエス・キリストは十字架にかかり、我等を罪より贖うために御血を流してくださった。而して我らが主イエス・キリストの名によって水のバプテスマ(浸礼による洗礼)を受ける時、主の御血は衣の如く我らの罪を覆って、我らは罪なき者とされ、また聖霊を受ける時、我らは救いの太鼓判を押して頂いて、全き神の子とせられるのである。ハレルヤ!

されど汝らは選ばれたる族(やから)、王なる祭司・潔き國人・神に属ける民なり、これ汝らを暗黒(くらき)より召して、己の妙なる光に入れ給ひし者の譽を顕させん爲なり。 -ペテロ前2:9-

キリストは我等のために己を與へたまへり。是われらを諸般(もろもろ)の不法より贖ひ出して、善き業に熱心なる特選の民を己がために潔めんとてなり。 -テトス2:14-

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お知らせ 御霊の声 証-33 を載せました。[E:downwardright] http://doohdik.blog51.fc2.com




     Photo 教会前・春近し

我は善き牧者(ひつじかひ)なり、善き牧者は羊のために生命(いのち)を捨つ。 -ヨハネ10:11-

私たちの主イエス・キリストは、大牧者として世に来たり給うた。

まことに誠に汝らに告ぐ、我は羊の門なり。すべて我より前に來りし者は、盗人なり、強盗なり。羊は之に聴かざりき。我は門なり、おほよそ我によりて入る者は救はれ、かつ出入りをなし、草を得べし。

主イエスはご自身を、我は門なり、と仰せになる。門とは天国に入る関門の事である。その関門とは、水と霊である。天国にはそれ以外の所から、またいかなる方法をもってしても入ることはできなない。主が自ら言い給いし如くである。

人は水と霊とによりて生まれずば、神の國に入ること能はず -ヨハネ3:5

善き羊飼いは羊のために生命を捨つと主は言われ、実行された。それは全き愛をもって罪人であった私たちのために十字架の死の苦しみを味われたことである。

羊飼いではなく、雇い人であれば、自らの命惜しさに逃げもしたであろうし、羊の群れは狼に襲われて殺されたであろう。しかし、善き羊飼いである主は、自らが死んで私たちを救い、永遠の生命を与えてってくださった。ここに神の愛が示されている。

私たちは、羊飼いであるイエスの声を聞いて知っている。他の者の声には耳を傾けない。救い主はイエス・キリストお一人しかいないのだから。

ヱホバはわが牧者なり われ乏しきことあらじ エホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱にともなひたまふ エホバはわが霊魂(たましひ)をいかし み名のゆゑをもて我をたゞしき路にみちびき給ふ たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざはひ)をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり -詩篇23篇より-

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