道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2014年04月

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サムソンすなはち驢馬(ろば)のあたらしき腮骨(あぎとぼね)ひとつを見出し 手をのべて之を取り其れをもて一千人を殺し 而して言ふ驢馬の腮骨をもて山をきづき山をつくる 驢馬の腮骨をもて我一千人を撃殺(うちころ)せりと かく言ひ終りてその手の腮骨をうちすて其の處をラマテレヒ(顎骨の高台の意)と名付けたり -士師記15:15~17-

イスラエルの子孫が主なる神の前に悪を行い、40年の間ぺリシテ人の手に渡された時代に、主は憐れみ一人の士師(さばきづかさ)を起こされた。即ちマノアと妻との間に子を授け、神のナザレ人(神に身を献げし者)とされ、その頭には剃刀を当ててはならないと命じられた。そして生まれた子を両親はサムソン(小さな太陽の意)と名付けた。

サムソンは、ぺリシテ人を撃つ使命を感じていた。長じて後、神の御霊が彼に臨み、襲い来る獅子を打ち殺したり、超人的な力を発揮した。

彼の行動に困惑したユダの人々が、彼を捕縛してぺリシテ人に引き渡そうとした時、神の御霊が彼に臨んだ。彼が力を込めると縄が切れた。見ると地面に新しい驢馬の腮骨が落ちていた。彼はそれを拾い上げ、手に取って武器とし、ぺリシテ人を一千人打ち倒し、死骸の山を築いた。

我らもまた嘗ては世に在って無きが如き驢馬の腮骨のような者であったが、主に見出され御手に握られて用いられる身となった。神の御霊を受けた我らも神に身を献げるならば、霊にあってナザレ人である。貴き御霊の器となり、失せゆく霊魂の獲得者となるのだ。

聖霊なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力(ちから)をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全国、サマリヤ、及び地の極(はて)まで我が証人とならん。-使徒行伝1:8-

エホバこれを付さずば爭か一人にて千人を逐ひ 二人にて萬人を破ることを得ん -申命記2:30-

         ろばのあぎとぼね

   1 人に捨てられて塵の中に

     埋もれてありしろばの骨も

     主に見出されて引き上げられ

     力あるみ手の中にぞある

   折り返し

     ろばのあぎとぼね そは我がこと

     ろばのあぎとぼね そは我がこと

     主よ手に握りて用い給え

     悪魔に勝利を得るときまで

            リバイバル聖歌130番

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兄弟よ、我なんぢらが之を知らぬを好まず、即ち我らの先祖はみな雲の下にあり、みな海をとほり、みな雲と海とにてバプテスマを受けてモーセにつけり。而して皆おなじく霊なる食物を食し、みな同じく霊なる飲物を飲めり。これ彼らに随ひし霊なる岩より飲みたるなり、その岩は即ちキリストなりき。 -コリント前10:1~4-

出エジプト記に記されているイスラエル人は、紅海の荒野の道を、昼は雲の柱と夜は火の柱をもて導かれて進んだ。これぞ聖霊を以って我らを導き給うことの型である。 -出13:21,22-

そして、紅海に至るや、主は東風を以って海を左右に分かち、海底の乾ける地を通って対岸に渡らせ、追手のエジプト軍の手より救われた。これまた水のバプテスマの型であって、エジプト=この世との決別を意味し、約束の地カナンへの旅が始まるのである。 -同14:21~9-

この雲と海とのバプテスマは、「水と霊」のバプテスマの雛形であって、これを受けるによって我らは主イエス・キリストに属する者となり。救われるのである。

而して、民は、霊なる食物=マナを食べ、霊なる飲物=岩よる出た水を飲んだ。この岩とはイエス・キリストである。真に主は、我らのために肉を裂き、血を流して死んでくださった。

  夫(それ)わが肉は眞の食物、わが血は眞の飲物なり。 -ヨハネ6:55-

されば自ら立てりと思ふ者は倒れぬやうに心せよ。汝らが遭ひし試練(こころみ)は人の常ならぬはなし。神は眞實(まこと)なれば、汝らが耐へ忍ぶこと能はぬほどの試練に遭はせ給はず。汝らが試練を耐へ忍ぶことを得んために、之と共に遁(のが)るべき道を備へ給はん。-12,13節-

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お詫び  先週は、管理人がペースメーカーの入替えのため入院し、ブログは休みとなりました。教会の方は副牧師二人が御用をし、普段と変わりなく進んでいました。退院して感じたことは「空気がおいしい」と言うことです。以前よりも元気になった感じがします。

アクセスをしてくださった皆さん感謝です。これからも続けて行きますので宜しくお願いします。ハレルヤ!

その後の40年の荒野の旅路に於いて彼らは、二枚の石の板に記された律法の契約を受けたが、それに悖って罪を犯し、偶像を拝し、姦淫し、主を試みて蛇に咬まれて死に、呟いて亡ぼされた。これ等は末の世における我らの訓戒のために録されたとある。-6~11節-

世に在っては様々な困苦艱難が付きまとう。愚痴を言っても始まらない。反って周囲の人々に不快感を与える。温順なモーセでさえ、水が無いと言って呟き騒ぎたてる民に腹を立て、岩を一度打てば水が出ると主が言い給うたにも拘らず、二度叩いてしまった。そのために彼は、カナンの地に入ることができなかったのである。神は見給う神であって、凡て先刻ご承知なのだ。

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我ら斯のごとく自ら進んで献ぐることを得たるも我は何ならんや また我が民は何ならんや 萬(よろず)の物は汝より出づ 我らは只汝の手より受て汝に献げたるなり -歴代志略上29:14-

ダビデは、神の名のために契約の箱を納める神殿を建てる志があった。その工事の設計図は、凡て神ご自身がみ手をダビデの上にくだして教え書かせてくださったものであった。

だが、神は、戦いで多くの血を流したダビデに神殿を建てることを許されなかった。その子ソロモンが建てるように命じられたのである。

これに從い、ダビデは建築に関わる多くの資材と金銀を備えた。自ら持てる物を献げ、且つまた民に向かい、こう呼びかけた。

「誰か今日自ら進んでエホバのためにその手に物を盈(みた)さんか」-5節-

これに応じて、家系の長たち、部族長たち、千卆長と百卆長たち、王の高官たちが、自ら進んで金・銀・青銅・鉄、宝物などを寄贈したので、民は喜んだのである。

私たちのイエス之御霊教会教団に於いては、昨年も、今年も各地で献堂式が行われている。始めは借家から始まった教会であるが、十年、二十年と経つうちに次第に信者の数が増え、会堂を建てたいと志を抱き、願望をもって祈る時、主なる神は聴き応えて素晴らしい会堂を与えてくださる。

汝もし全能者に祈り 清くかつ正しうしてあらば 必ず今汝を顧み 汝の義(ただし)き家を榮えしめたまはん 然らば汝の始は微小(ちいさく)あるとも 汝の終は甚だ大(おおい)ならん -ヨブ8:5~7-

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※   御霊の声 に、証-34 危ない橋 を載せました  [E:leftright]   http://dooh-imk.info  関連リンク

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