道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2014年05月

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幸福(さいはひ)なるかな、平和ならしむるもの。その人は神の子と稱へられん。 -マタイ5:9-

イエス彼に言ひ給ふ『なんぢの剣をもとに収めよ、すべて剣をとる者は剣にて亡ぶなり』 -同26:52-

今、日本に於いて憲法について二分した意見が議論されている。一方は、周辺諸国との摩擦が起きている現在、現憲法は時代にそぐわないものだから変えるべきだ。それができないなら解釈を変えて「集団的自衛権」を行使できるようにしようという意見である。

一方、現憲法は、第二次世界大戦の結果敗戦国となり、甚大な被害を蒙った日本国民が、二度と忌まわしい戦争の悲劇を繰り返さないために不戦の決意を誓った世界に類のない憲法であって、戦後代々の政府がこれを順守してきたものであり、そのお蔭で自衛隊員の一人だに戦死者がいないのであるとする主張がある。

聖書の観点からすると、クリスチャンの取るべき道は、山上の垂訓で主イエス・キリストが言われた「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」-新共同訳・マタイ5:9- とあるように、平和を実現することであって、それは、平和の福音である「水と霊」を宣伝えて行く道である。 

主イエス・キリストがイスカリオテのユダの手引きによって捕えられた時に、ペテロが怒って剣を以って大祭司の僕の耳を切り落としたが、主はそれをを拾って僕の耳に付けて癒し、ペテロには「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言われた。主は剣をもって平和は来ない。これを棄てよといわれているのだ。

聖書を読んだ人で、理屈をいう人は「旧約聖書では、モーセもヨシュアも、ダビデも剣を持って人に立向かったではないか、」と言う。然し良く読むと、彼らが剣を持って立ち向かった相手は、アマレク人、カナン人、ぺリシテ人であり、真の神の敵対者であって、彼らは神の命令を受けて戦ったのである。この点、現在極端な人々によって為されている「聖戦(ジェハード)」とは本質を異にする。

今一つ、旧約と新約の違いは、旧約時代は血肉と戦ったのであるが、新約時代に於いては然らず、争うための「剣を棄て」、代わって天の所にある悪の靈と戦うための備えを為せ、と勧められているのである-エペソ6:10~20-

では、この世界は、どうなるのか? 人の好むと好まざるとに拘らず、聖書の預言の如く進んで行く。サタンとこれに從う者は滅び、神を信じて真の実を結ぶ者は救われ、「世々の経綸」の通りになるのである。大患難時代の状況に就いて聖書にこう記している。

「第六の者その鉢を大なる河ユウフラテの上に傾けたれば、河の水涸れたり。これ日の出づる方より來る王たちの途を備へん爲なり。我また龍の口より、獣の口より、偽預言者の口より、蛙のごとく三つの穢れし霊の出づるを見たり。これは徴をおこなふ悪鬼の霊にして、全能の神の大なる日の戦闘のために全世界の王等を集めんとて、その許に出でゆくなり。視よ、われ盗人のごとく來らん。裸にて歩み羞所を見らるること莫(な)からん為に、目を覚ましてその衣を守る者は幸福(さいはひ)なり。かの三つの霊、王たちをへブル語にてハルマゲドンと称ふる處に集めたり」-ヨハネ黙示録16:12~16- ゼカリヤ14章参照

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わが神わが神なんぞ我をすてたまふや 何(いか)なれば遠くはなれて我をすくはず わが歎きのこゑをきゝ給はざるか あゝわが神 われ晝よばはれども汝こたへたまはず 夜よばはれども我平安(やすき)をえず 然(さ)はあれイスラエルの讃美のなかに住たまふものよ汝はきよし -詩篇22:1~3- 

詩篇22篇は、「わが神わが神なんぞ我をすてたまふや」と、悲痛な叫びから始まっている。

この詩の作者ダビデは、先の王サウルに追われて苦難のどん底にある時に、こう叫んだことだろう。

私たちとて然り、際限もつかない苦難の中に置かれて光を見ぬときは、同じ思いをし、神に救いを求めるのである。

今一つ、冒頭の聖句は新約聖書にも記されている事に目を留めよう。即ち、

三時ごろイエス大聲に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言ひ給ふ。わが神、我が神、なんぞ我を見棄て給ひしとの意なり。-マタイ27:46-

詩篇22篇は、イエス・キリストの十字架の死に関わる預言である。この詩を書いたダビデは、イエス・キリストから見て約千年前の王である。そうであるのに拘らず、この書とマタイ伝27章とを読み比べると、ダビデが恰もイエス・キリストの傍らにいて、十字架にかかり給う時の有様を細かく描写しているかのように思えるのである。これは、聖書は神の言葉、神の預言の書であることを表している

7節の「すべてわれを見るものはわれをあざわみわらひ口唇をそらし首をふりていふ かれはエホバによりたのめり、エホバかれを悦びたまふが故にたすくべし」とは、学者、祭司長、長老らが主イエスの十字架を取り巻いて嘲弄した言葉と同じである。

16節の「わが手およびわが足をさしつらぬけり」は、正しく磔刑された主イエスの姿を表している。

18節の「かれらたがひにわが衣をはわかち 我がしたぎを鬮(くじ)にす」は、ピラトの兵卒たちがしたことである。-ヨハネ19:23,24-

19節では、「速くきたりてわれを援けたまへ」と懇願し、

21節では「なんぢ我にこたへたまへり」と感謝する。

故に22節で「われなんぢの名をわが兄弟にのべつたへ なんぢを會(つどひ)のなかにて讃(ほめ)たゝへん」と勝利する。

そして地の全ての者は、主に仕え、神の御前に拝跪(ひざまづ)く。ハレルヤ!

最後に、もう一つ、なぜ「ハレルヤ」と言って祈れば、聖霊が降るのか? 3節「イスラエルの讃美のなかに住みたまふものよ 汝はきよし」が答えである。ハレルヤ! 

いつも祈りが献げられている、主の御許なるイエス之御霊教会に来て聖霊を受けられよ。

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天に昇りまた降りし者は誰か 風をその掌中(たなごころ)に聚(あつ)めし者は誰か 水を衣につゝみし者は誰か 地のすべての限界(かぎり)を定めし者は誰か その名は何ぞ その子の名は何ぞ 汝これを知るや -箴言30:4-

ヤケの子アグルの言葉である箴言に、上記のように、「神の御名は何か、御子の名は何か」 という問いがある。あなたはご存じだろうか?

凡そクリスチャンであると自認する人は、自らが信ずる神の御名を知っていなければならない。

文語訳聖書の創世記2:4には、神の御名について「エホバ神地と天を造りたまへる日に・・・」とあって、「エホバ」と記されている。

「エホバ Jehovah 」 とは、モーセが神に名を問うた時に、「我は有(あり)て在る者」なり、「我有」と言う者と、答えられた。

天地を創造された唯一の真の神は、『我はアルパなり。オメガなり』と言われ、永遠の存在者であられる。-ヨハネ黙示録1:8-

三位一体論者は、父と子と聖霊との名が何であるか知らない。その名は「イエス」である。

その名が単数であることに目を留めよう。name とあって、names ではない。

言いかえると、神は父、子、聖霊の三位があるのではなくして、お一人の神が、創造者としては父であり、救い主としては子であり、信ずる者の中には聖霊として宿り給うのである。

処女マリヤに御使いが現れ、『視よ、なんぢ孕りて男子を生まん、其の名をイエスと名づくべし。』と告知した。斯く、子の名は「イエス」である。-ルカ1:31-

「イエス」とは、へブル語の ヨシュア Joshua のギリシャ語読みであって、「エホバは救主」の意である。

では、父の名は何か? 主は、十字架の死を前にして、目を挙げて天を仰いで言われた言葉の中に答えがある。『聖なる父よ、我に賜ひたる汝の御名の中に彼らを守りたまへ。』と、あって、イエスの名は、父の名であることを知る。-ヨハネ17:11,12-

聖霊の名は何か、と言うと、「イエスの御霊」-使徒行伝16:7 文語訳- とあり、また「御子の御霊」-ガラテヤ3:6- とあって、聖霊の名も「イエス」なのである。

因みに我らの教会教団も、設立の時点に於いて、神が祈りの中に村井スワ先生に「イエス之御靈教會」と幻によって3度見さしめ、文部省がこれにせよと言われ、神によって定められた名なのである。

何事にても我が名によりて我に願はば、我これを成すべし。-ヨハネ14:14-

なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦しを得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖霊の賜物を受けん。-使徒行伝2:38-

また為す所の凡ての事あるひは言あるひは行為みな主イエスの名に頼りて為し、彼によりて父なる神に感謝せよ。-コロサイ3:17-

イエスの御名ほど至高き御名はない。軽々しく用いてはならない。萬物挙ってイエスの御名を崇め、栄光を主なる神に帰するのである。

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復活された主イエス・キリストは、弟子たちに現れて言われた。

『平安なんじらに在れ、父の我を遣わし給へるごとく、我も亦なんじらを遣す』 斯く言ひて、息を吹きかけて言ひたまふ 『 聖霊を受けよ。汝ら誰の罪を赦すとも其の罪ゆるされ、誰の罪を留むるとも其の罪とどめらるべし』 -ヨハネ20:21~23-

初代教会の弟子たちも、現代の我々も皆、主から 聖霊を受けよ とご命令を受けている。聖霊を受けずして、救いはなく、イエス・キリストの証人として世に遣わされることはないのである。

復活後40日を経て、主は御昇天を前にしてこう言われた。

『かく録されたり、キリストは苦難を受けて、三日目に死人の中より甦り、且つその名によりて罪の赦を得さする悔改めはエルサレムより始まりて、もろもろの國人に宣伝へられべしと。汝らはこれ等のことの証人なり。視よ、我は父の約し給へるものを、汝らに贈る。汝ら上より能力(ちから)を著せらるるまでは都に留れ』 -ルカ24:46~49-

『エルサレムを離れずして、我より聞きし父の約束を待て。ヨハネは水にてバプテスマを施ししが、汝らは日ならずして聖霊にてバプテスマを施されん』 -使徒行伝1:4,5-

そして、更に10日を経てその日、その時がやってきた。

五旬節(ペンテコステ)の日となり、彼らみな一處に集い居りしに、烈しき風の吹ききたるごとき響、にはかに天より起りて、その坐する所の家に満ち、また火の如きもの舌のやうに現れ、分れて異邦(ことくに)の言(ことば)にて語りはじむ -同2:1~4-

使徒たちは皆、主が約束された聖霊降臨を待望していた。待ちに待って、祈りに祈りを重ねてこの時を迎えたのだった。

我なんぢらを遺して孤児とはせず、汝らに來るなり。 -ヨハネ14:18-

わが去るは汝らの益なり。我さらずば助主なんぢらに來らじ、我ゆかば之を汝らに遣さん。 -16:7-

使徒たちは御霊を戴き、主を証する能力を得て、当時の世界に向かって伝道をしたのである。

我らもまた聖霊を頂き、合わせて主イエス・キリストの名による水のバプテスマを受けて救われたので、感謝である。 世には多くの未だ主を知らず、救われていない人々が多くいることを思い見、一人でも多くの人々が救われるように祈りつつ、御言葉を宣べ伝えていくべきである。


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