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幸福(さいはひ)なるかな、平和ならしむるもの。その人は神の子と稱へられん。 -マタイ5:9-
イエス彼に言ひ給ふ『なんぢの剣をもとに収めよ、すべて剣をとる者は剣にて亡ぶなり』 -同26:52-
今、日本に於いて憲法について二分した意見が議論されている。一方は、周辺諸国との摩擦が起きている現在、現憲法は時代にそぐわないものだから変えるべきだ。それができないなら解釈を変えて「集団的自衛権」を行使できるようにしようという意見である。
一方、現憲法は、第二次世界大戦の結果敗戦国となり、甚大な被害を蒙った日本国民が、二度と忌まわしい戦争の悲劇を繰り返さないために不戦の決意を誓った世界に類のない憲法であって、戦後代々の政府がこれを順守してきたものであり、そのお蔭で自衛隊員の一人だに戦死者がいないのであるとする主張がある。
聖書の観点からすると、クリスチャンの取るべき道は、山上の垂訓で主イエス・キリストが言われた「平和を実現する人々は幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる。」-新共同訳・マタイ5:9- とあるように、平和を実現することであって、それは、平和の福音である「水と霊」を宣伝えて行く道である。
主イエス・キリストがイスカリオテのユダの手引きによって捕えられた時に、ペテロが怒って剣を以って大祭司の僕の耳を切り落としたが、主はそれをを拾って僕の耳に付けて癒し、ペテロには「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」と言われた。主は剣をもって平和は来ない。これを棄てよといわれているのだ。
聖書を読んだ人で、理屈をいう人は「旧約聖書では、モーセもヨシュアも、ダビデも剣を持って人に立向かったではないか、」と言う。然し良く読むと、彼らが剣を持って立ち向かった相手は、アマレク人、カナン人、ぺリシテ人であり、真の神の敵対者であって、彼らは神の命令を受けて戦ったのである。この点、現在極端な人々によって為されている「聖戦(ジェハード)」とは本質を異にする。
今一つ、旧約と新約の違いは、旧約時代は血肉と戦ったのであるが、新約時代に於いては然らず、争うための「剣を棄て」、代わって天の所にある悪の靈と戦うための備えを為せ、と勧められているのである。-エペソ6:10~20-
では、この世界は、どうなるのか? 人の好むと好まざるとに拘らず、聖書の預言の如く進んで行く。サタンとこれに從う者は滅び、神を信じて真の実を結ぶ者は救われ、「世々の経綸」の通りになるのである。大患難時代の状況に就いて聖書にこう記している。
「第六の者その鉢を大なる河ユウフラテの上に傾けたれば、河の水涸れたり。これ日の出づる方より來る王たちの途を備へん爲なり。我また龍の口より、獣の口より、偽預言者の口より、蛙のごとく三つの穢れし霊の出づるを見たり。これは徴をおこなふ悪鬼の霊にして、全能の神の大なる日の戦闘のために全世界の王等を集めんとて、その許に出でゆくなり。視よ、われ盗人のごとく來らん。裸にて歩み羞所を見らるること莫(な)からん為に、目を覚ましてその衣を守る者は幸福(さいはひ)なり。かの三つの霊、王たちをへブル語にてハルマゲドンと称ふる處に集めたり」-ヨハネ黙示録16:12~16- ゼカリヤ14章参照、