然れど聖霊なんぢらの上に臨むとき、汝ら能力(ちから)をうけん、而してエルサレム、ユダヤ全國、サマリヤ、及び地の極(はて)にまで我が証人とならん -使徒行伝1:8-
聖霊を受ける以前の使徒たちの様は、どうであったかとみるに、主イエス・キリストに見いだされ、「我に從ひきたれ、然らば汝らを人を漁る者となさん」との御声を聴き、従い歩んできたが、まだ信仰に乏しく、能力に欠け、御旨を悟らず、しばしば主を嘆かけさせる者たちであった。 主に従い歩むうちに、その為し給う御業にただ驚き、感嘆し、この人は誰ぞ?と驚異の眼で主を見つめていたのだった。
斯く稚拙であった使徒たちに、主は権威を与えて二人一組にして世に送り出された。実地訓練である。彼らは見よう見まねで、常日頃主が奇跡・不思議をなさっているように、主イエスの名を用いて病を癒し、悪鬼を追いだした。この訓練は三年余り続いた。然し使徒たちはまだ全きには至っていなかった。
主イエス・キリストが十字架にかかり、死にて葬られ、復活された時も、使徒たちは、まだ夢みるごとき状態だった。 主が天に昇らんとするとき、使徒たちを呼び寄せて前述の御言葉を語り、福音を宣伝えるように命じられたのである。
そして、五旬節の日が来て、約束の聖霊が使徒たちの上に臨み、聖霊のバプテスマを受けた。その時彼らは一変したのである。もはや単なる人ではなかった。内に御霊を宿した能力ある神の器とされたのだった。 我らはどうか? 聖霊を受けた我らもまた同じく能力を与えられて主に用いられる器をされたのである。
異邦人の使徒パウロは、ロマ人への書1章でこう言っている。 我はギリシャ人にも夷人(えびす)にも智き者にも愚なる者にも負債(おひめ)あり。・・・我は福音を恥とせず、この福音はユダヤ人を始めギリシャ人にも、凡て信ずる者に救を得さする神の力たればなり。と・・・。 パウロは、主に敵対する者であったが、主に選ばれ聖霊を受けて一変し、主の証人となり、能力を得て福音を宣伝える器とされたのである。
我らもまた、与えられた道程において主を力強く証して行く者でありたい。