道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2014年11月

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我また天より聲ありて『書き記せ「今よりのち主にありて死ぬる死人は幸福(さいはひ)なり』御霊も言ひたもふ「然り、彼等はその労役(はたらき)をやめて息(やす)まん。その業これに随ふなり」』と言ふを聞くけり。 -ヨハネ黙示録14:13- 

今週は、教団に在っては A 先生が召天されて、告別式が行われた。また道央教会にあっては、聖徒が召されて告別式が行われた。 主の御霊の導かるるままA先生の御葬儀には、ダビデが悲しみの歌をもて、サウルとヨナタンの死を惜しんで記した弓の歌より「嗚呼 勇士(ますらを)は仆れたるかな 戦の具(うつわ)は失せたるかな」-サムエル後1:27-の聖言を引用して弔電をお送りし、哀悼の意を表した。先生は常に大聖会を重んじ、水と霊の福音の使命に生きた良き教団人であられた。

道央教会で召された聖徒のことを言うと、96歳の姉妹である。このU 姉妹を知ったのは、昭和33年9月のこと。当時、札幌教会の信者であられた。始めは世の教会の信者であったが、主の導きに從い、移って来られたとのことだった。

その姉妹宅で家庭集会が開かれることになり、K牧師に誘われ、沖縄から来られたN 師と共に出席したのだが、この集会は私にとって運命的なものとなり、神の声を聞き「イエス之御霊教会教団」の牧師として踏み出す転機となったのである。

私が江別教会の牧師になった時に、重荷を持って匿名で献金を送り続けてくださったのもこの姉妹であった。 また札幌教会の御用の応援に行った時には、他の信者方に呼びかけて献金を募り、副牧師先生の手を通して与えて下さるなど、細やかな気遣いをなさる姉妹であった。

教会が別であるから、互いに弁えを持ち、大聖会などでお会いした時に挨拶を交わす程度であったが、いつの頃からか疎遠になっていた。

それがである。2年ほど前に道央教会のB姉が施設に入居している90歳の母親を看に行った時のこと、U姉妹の娘さんと玄関でばったり出会ったのである。親同士も娘同士も元々は同じ教会に通っていた仲であった。而も、今はどこの教会にも行かず、20年は経過しているという。そのことから交わりが始まり、皆さん道央教会に集うようになったのである。

ただ、娘さんは集われるようになったが、U姉妹だけは高齢で体が不自由なこともあって、教会に来れなかったのだが、全てに時あり。このたびご召天し、教会に搬送されてきて、人生の最後のひと時を教会で過ごされたのである。

施設で召される直前には「ハレルヤ」と声を出して祈り、その後眠るが如くに召されたとのこと。駆け付けた遺族の方々はほとんどが水と霊を受けている方々ばかり。そして、時間の多少にかかわらず、最後を愛する主の教会で天に送られたことは姉妹の喜びであったと思う。姉妹の霊に平安があるようにと主に祈った。

姉妹の愛歌は、聖歌の「キリストにはかえられません」と聞き、皆で歌ったのである。

姉妹が大好きで、娘さんやお嫁さんに絶えす語っていた聖書の御言葉は、
「神を愛する者、すなはち御旨によりて召されたる者の為には、凡てのこと相働きて益となるを我らは知る」-ロマ8:28-であった。

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お 礼    ブログ人の「道央イエス之御霊教会~教会だより」は、予告通り11月30日を以って終了しました。長い間、ご覧いただきありがとうございました。
以後は、こちらの『道央イエス之御霊教会ブログ』で継続しておりますので、宜しくお願い致します。
                                                        - 管理人-   

          時計台


來れわれらエホバにかへるべし エホバわれらを抓劈(かきさき)たまひたれども また醫(いや)すことをなし 我儕(われら)をうち給ひたれども またその傷をつゝむことを為したまふ可ればなり エホバは二日ののちわれらを活きかへし 三日にわれらを起せたまはん 我らその前(みまへ)にて生きん -ホセア6:1,2-

主イエス・キリストの復活を預言する聖言である。また、主に立ち帰る者に対する癒しの聖言でもある。

この書を記したホセアは、北王国イスラエルのヤラベアム二世の時代に用いられた預言者である。 王国は主なる神を離れて、偶像で満ちていた。 彼らは「淫行の霊」の衷にあったのだった。 -5:4-

時に主は、ホセアに言われた 「淫行の婦人を娶り、淫行の子らを得よ」と。 誰か好んでこの道を取るだろうか。しかし預言者ホセアは主に従い、ゴメルを妻にした。そして生まれた長子を、神はエズレル(神が種を蒔く)と名付けられた。続く長女は、ロルハマ(憐れまれぬ者)と名付けられ、ニ男は、ロアンミ(わが民にあらざる者)と名づけられた。 ああ、悲惨なるかな!その名は正しく淫行の霊に圧せられたイスラエルの様を表していた。 -1章-

その中にあって預言者ホセアは、イスラエルの王と民に向かって叫ぶ  「なんんじの神に帰れ」 と。

われ人にもちゐる索(つな)すなはち愛のつなをもて彼等をひけり -11:4-

我らの主なる神は慈悲深い神である。イスラエルの民は、その犯した罪の故に異邦の国へ捕えられて行くが、 主は、時を定めて彼らを解放し、二度と同じ過ちを犯さぬようにされたのである。

  
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お知らせ FC2ブログ 御霊の声 証-42 献堂式 を載せました。 昭和61年の最初の会堂の証です。

          はつゆき  初積雪


汝らみな心を同じうし互いに思い遣り、兄弟を愛し、憐み、謙遜(へりくだり)、悪をもて悪に、謗りをもて謗りに報いゆることなく、反って之を祝福せよ。汝らの召されたるは祝福を嗣がん為なり。 -ペテロ前3:8,9-

聖書は、神の祝福について、アブラハムをハランの民の中より選んで、カナンの地に導き、その地を与えて嗣業を得させ、独り子イサクがこれを継ぎ、更にエサウとヤコブについては、弟ヤコブを選んで嗣業を与えたと記している。

また聖書は、予め福音をアブラハムに告げて 『なんぢに由りて、もろもろの国人は祝福せられん』
と言われた。この祝福は、同じ信仰の跡を踏む私たちの上に成就されている。

これアブラハムの受けたる祝福のイエス・キリストによりて異邦人におよび、且われらが信仰に由りて約束の御霊を受けん為なり。 -ガラテヤ3:14-

神の祝福は、先ず選ばれること、水と霊の全き救いに与ること、次いで主の御言葉に従うことである。サウル王は選ばれはしたが、従わなかったために捨てられ、御霊は離れて悪鬼に悩まされた。然し、ダビデ王は選ばれると共に、信仰をもって主に従ったので祝福され、御霊は彼の上に止まった。

教会についても同様に、初代キリスト教会は、始めは御霊を受けて祝福されたが、初めの愛を離れたために堕ちたと黙示録2:4,5に記されている。これは、信仰の堕落をした為に御霊が降らなくなったことを示している。

その後の暗黒時代を経て、今は末の世となり、聖書の預言の如く、日出る国、日本に我らの「イエス之御霊教会教団」が出現し、主より全幅の祝福を受けて「水と霊」の全き福音を宣伝えるものとして用いていて下さる。

先ず、隣人から始めて、この祝福を宣伝えていこう。


                          ななかまど

ペテロ言ふ『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』 乃ち右の手を執りて起ししに、足の甲と踝骨(くるぶし)とたちどころに強くなりて、躍り立ち、歩み出して、且あゆみ且をどり、神を讃美しつゝ彼らと共に宮に入れり。 -使徒行伝3:6~8-

斯てその御名を信ずるに因りてその御名は、汝らの見るところ識るところの此の人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は汝等もろもろの前にて斯る全癒を得させたり。 -16節-

エルサレムの美麗(うつくし)の門に、生まれつき足の不自由な人がかかれて来て、宮に入る人々より施しを乞うていた。彼には最早、健常者のように働く意欲はなく、日々施しを乞う以外に食を得る手段はないと思っていた。

それがである。彼の前に突然現れた二人の人=ペテロとヨハネ=が、彼に目を注(と)めて、『我らを見よ』と言ったのである。何を呉れるのかと、二人を見つめた時に、ペテロが語ったのが。『金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め』であった。

何という神の大なる愛と、圧倒的な能力がこの人の上に注がれたことであろうか。恐らくこの時、宮に集まった人たちの中で彼は一番困窮していた人で、救いを必要としていた人ではなかろうか? 慈愛の神はこの人に目をとめられた。その神の思いがペテロに伝わり、声をかけたのである。

この人が癒され狂喜する様を見て驚嘆した人々が馳せ集ってきた。ペテロはその人たちに向かい、ここぞ!とばかりに、イエス・キリストの福音を語ったのである。

その場に居合わせた多くの人々は、イエス・キリストを十字架につけることに組した人たちであった。それが間違いであることをペテロは説き、悔改めて神より祝福を受けべきだと宣伝えたのである。これを聞いて主を信じた者は男の数5000人となった。

二人は主イエスの御名の故に捕えられるが、翌日、大祭司の面前で福音を語る機会が与えられ、ペテロは聖霊に満たされて大胆に主イエス・キリストを証したのである。

一人の名もなき人に語ったことから始まって、大いなる奇跡が行われ、多くの人が主を信じ、福音が天地を揺るがす程、一挙に宣伝えられるなど、誰が予想したであろう。正に神の一人舞台である。我らもまた斯く主の御用に用いられたいと願うのだ。

他の者によりては救を得ることなし、天の下には我らの頼りて救はるべき他の名を、人に賜ひし事なければなり。 -4:12-

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