道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2014年12月

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 小樽で遇って救われたロシアの船員ワレリー兄弟(右)を尋ねてウラジオストック伝道に行きました 1996.8

ヱホバに感謝せよ ヱホバは恩惠(めぐみ)ふかく その憐憫(あわれみ)とこしへに絶ることなし -詩篇118:1-

今年最後の安息日礼拝は、感謝祭となりました。

まだまだ戦いの中におかれている人、祈り続けている人もいます。 手放しでは喜べない人もいることでしょう。 ですが、「凡てのこと感謝せよ」とあります!ですから、先ずは重荷を置いて、神に感謝しましょう。

今年も色々なことがありました。教会日誌を見たり、日記を読み返してみたりして、この365日がどんなに価値あるものだったか振り返り、反芻しています。二度と訪れない過去となる今年も、切り株に残された年輪のようにくっきりと痕跡を残し、決して忘れることのできない一年であったと思い、なんら無駄はなく、寧ろ有意義な一年であり、次の年に繋がる一年でもありました。

何よりも幸いなことは、神と偕に歩んだ一年であること、と言いますか、神が先立ち、その跡に従って歩むことができたこと・・・。これが楽しくもあり、嬉しいことでもありました。

毎週、安息日礼拝や日曜聖会で兄弟姉妹方と共に、主を崇め、霊と真の祈りをなし、霊讃歌をもって讃美し、聖書の御言葉を読み、霊の糧を与えられて、「我ら此処に居るは善し」 と変貌山で主を拝する心地が致します。-マタイ17:1~8-

また、大聖会に出席し、世界に繋がる聖霊の働きを見聞きして、イエス・キリストは永久までも変わることなしと実感させられ、イエス之御霊教会教団こそ世界に冠たる、真の全きキリストの新婦(はなよめ)なる教会、主の再臨の日に天に携えあげられる教会なることを体得させられました。

道央イエス之御霊教会も、世界伝道の一環に与るべく小樽港を中心に1992年以降、外国人伝道を続けており、1110回を重ねました。この間、ロシア人を始め、ウクライナ人、中国人、フィリッピン人など多くの外国人が水と霊との救いに与りました。「此の火すでに燃えたらんには、我また何をか望まん」-ルカ12:49-と、更に多くの人々が救われますように願います。

インターネットでの伝道も、ホームページを見て教会を訪ねてきて救われる人がおり、礼拝に集う方がでてきましたので感謝です。

一方、ブログは, 「道央イエス之御霊教会ブログ」と改題して再出発しましたが、連日、多数のアクセスを頂き感謝です。 検索順位が1順目の上位に固定すれば、閲覧者の方々のために更に便利かと思っています。
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( ※ 「道央イエス之御霊教会」で検索すると1順目ですが、ズバリ「道央イエス之御霊教会ブログ」で検索すると、なぜか4順目?ですよ?? )

もう一つのFC2ブログ「御霊の声」は、証-43「北海道大聖会の開催」を12月25日に発行しました。回顧録ですが、ご覧いただければ感謝です。

今年もあと残すところ僅かとなりました。感謝をもってこの年を終え、希望に溢れた新年を迎えたいと思います。一年間ありがとうございました。 ハレルヤ!

寧ろ御霊に満たされ、詩と讃美と霊の歌とをもて語り合ひ、また主に向ひて心より且うたひ、かつ讃美せよ。凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏みて互に服へ -エペソ5:18~21-




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 友人であるO 牧師の奥さんが暫く前に天に召されていた。その人も同労者である。

このことを知ったのは最近のこと。

「なんで知らせてくれなかったんだ」という思いと、「何があったんだ」という思いとがごちゃ混ぜになって電話をかけた。

事情が分かった。

「疲れたから横になるわ」と言って奥さんが床に就いた。それが最後で傍に居ながら気が付いた時には冷たくなっていたという。彼も急な事態の展開で頭の中が一杯になり、周章狼狽の状態に陥った事だろう。

後は、書くことは止そう。人の命は神様が握っている。

生れるに時あり 死ぬるに時あり 神の為したまふところは皆その時に適ひて美麗(うるは)しかり 神はまた人の心に永遠をおもふの思念(おもひ)を賦(さづ)けたまへり -伝道之書3:11-

愛する者が突然いなくなった悲しみは体験した者でなければ分からない。

私たちの周囲のクリスチャンにも高齢者が沢山いて、永年連れ添った伴侶が召されていく。先に逝った方は天国の喜びに入るのだが、遺された方は、一人で残りの人生を歩まなければならない。健気に生きている人もいるが、寂しさを囲っている人もいる。その思いを語れる相手がいる人がいれば良いが、なかなか理解してくれる人はいない。ただ神様は全てご存知と信じて祈るだけだ。

年をとって配偶者を失う人と、若くして失う人とがいる。そのどちらが良いのか、これも神の御意次第だが、後者の方が厳しい年月を経た分、多くの人の悩みを親身に聞いてあげる相手になれるように思う。

今日の安息日礼拝の聖言の一つはこうである。

エホバの言(ことば)われに臨みて言ふ 人の子よ我頓死をもて汝の目の喜ぶ者を取去らん 汝哀(なげ)かず泣ず涙をながすべからず 聲をたてずに哀け 死人のために哀哭(あいこく)をなすなかれ 冠物(かざりもの)を戴き 足に鞋(くつ)を穿べし 髭を掩ふなかれ 人のおくれる食物を食ふべからず 朝に我人々に語りしが 夕べにわが妻死ねり 明朝(あくるあさ)におよびて我命ぜられしごとくなせり 
-エゼキエル24:15~18-

旧約時代の預言者エゼキエルの人生は厳しいものだ。最愛の妻が死んでも泣いてはならないと・・・。

神が妻として喜ぶ者として選んだイスラエルは不信仰の故に亡んでいく。その兆(しるし)として預言者の愛する妻は死ななければならぬ。預言を成就するために愛する者が死んでも泣いてはならないのだ。 きつい!!

けれども今は、新約の時代、恵みの時代である。

愛する者との死別は肉に於いてはつらく哀しい。だが霊に於いてはキリストの復活と再臨の望みがある。ここに慰めがある。

されど我らの國籍は天に在り、我らは主イエス・キリストの救主として其の處より來りたまふを待つ。彼は萬物を己に服はせ得る能力によりて、我らの卑しき状の體を化へて己が榮光の體に象らせ給はん。 -ピリピ3:20,21-



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凡そおのれを高うする者は卑うせられ、凡そおのれを卑うする者は高うせらるるなり 
-ルカ14:11-

バビロンの王ネブカデネザルは、夢を見た。一本の高い樹が天に届くほどに聳え立ち、枝を伸ばし葉をつけ、実が豊かに実り、多くの鳥が枝に巣をつくり、木陰に獣が宿り、その樹はこれらの物を養っていた。 夢は、続いた・・・・

一人の見張りの天使が降ってきて、大声で「この樹を切り倒せ、鳥も獣も追い払え、切株に鎖をかけて、夜露に濡れるにまかせよ。その心は変わり、人間の心を失い、獣の心が与えられる。そして七つの時が過ぎる。これは天使らの決定である。それは、至高者 人間の國を治めて自己の意のままにこれを人に与へ また人の中の最も賤しき者をその上に立たまふといふ事を一切の者に知らしめんがためなり」 と告げた。 
 -ダニエル4章-

王は、目覚めて後、夢の意味を知ろうとして智者を集めて問うたが、誰一人解くものがいなかった。時に、ダニエルが呼ばれて王の前に立った。彼は神の御霊に満ち、智慧があって凡ての神妙秘密を解くことができた。

彼は答えて言った。「王よ、その樹とはあなたです。あなたは、その樹のように強くなり、勢いは盛んになり、権威も地の果てに及びました。しかし、神を恐れなければたちどころに凡てを失い、世を離れ、獣のように草を食べ、夜露に濡れるでしょう。そして七つの時を経たのち、至高者が人間の國を治めて、己の意のままに人に与えることを知るに至るでしょう。樹の切株が残されたように、あなたは天は主たりと知るときまで、天はあなたから離れるでしょう。 ですから、私の諫めを聞き入れ、善を尽して国を治めてください、と。

果たせるかな、一年後に此のことはネブカデネザル王の身の上に起った。彼は王宮の上を歩いている時に、「この大いなるバビロンは我が力をもって建てた都である。我が威光を輝かすものである」と誇らかに言った。

この言葉が終わらぬうちに天から声が出て、王位の失脚と、地に流離う者となることと、七つの時を経るまで夜露に濡れて見る影もない姿になることを告げられ、そのようになったのである。

七つの時を経てのち、彼は我に返り、至高者なる神を崇めて、凡ての権威・権能は神より出ると告白したのである。茲に至って国の栄光も彼の尊厳と光輝も元のように返り、大臣らに乞われて復位し、前よりも著しく威光を増したのであった。

この一事をみても、神の目は絶えず人の上に注がれ、高ぶる者は低くされ、謙る者は上げられることを知るのである。故に常に謙って主の用に適うようにすることが大切だと思う。

主の弟子であるヤコブとヨハネの母は、主に求めて言った「わが二人の子が汝の御國にて一人は汝の右に、一人は左に坐せんことを命じ給へ」と。彼女の母性愛がこう言わしめたのであろうか。だが他の弟子たちはこれを聞いて怒った。主は戒めていわれた。

「大いならんと思う者は、汝らの役者となり、首たらんと思う者は汝らの僕となるべし。斯くのごとく人の子の來れるも事へらるる為にあらず、反って事ふることをなじ、またおほくの人の拯贖(あがなひ)として己が生命を與へん為なり」 -マタイ20:26~28-

    
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12月14日は、衆議院議員総選挙の投票日。誰が議員として生まれるのか?価値ある一票が投ぜられるように祈る!







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萬軍のエホバよ なんぢの帷幄(あげばり)はいかに愛すべきかな わが霊魂(たましひ)はたへいるばかりにエホバの大庭をしたひ わが心わが身は いける神にむかひて呼(よば)ふ -詩篇84:1,2-

詩篇84篇は、ギテトの琴に合わせて指揮者によって歌われたコラの子の歌である。

詩篇そのものは、歌であり、讃美であり、祈祷である。 150篇中、ダビデの作が73あり、アサフの作、コラの子の作、ソロモンやモーセ、エタンの作がある。作者不詳も50あるが、ダビデの作が多数含まれていると考えられている。

これらの詩には曲が付いて歌われた。五線紙の無かった昔のことゆえ、どのような節回しで歌われたのか今日知る由もないが、神を心から崇めて歌ったであろうことは歌詞である詩から読み取れる。 

文中に「セラ」という小さな文字が2ヵ所ある。これは、音楽用語で、「少休止符」と考えられている。1~4節、「セラ」、5~8節、「セラ」、そして、9~12節を歌って終了の形である。  詩篇には「セラ」が71ヵ所あり、ハバクク書3章の祈祷書にも3ヵ所ある。

詩篇84篇は、「新約の雛形は、旧約である」の原則から考えて、教会の事を描いていると考えられる。

上掲の聖句は、主なる神を慕って安息日礼拝をするために教会に集う聖徒方の思いを描いている。主イエス・キリストは安息日毎に会堂に入り、聖書を繙かれた。初代教会の使徒たちも安息日毎に会堂に行って、主を証した。今日の我らも鹿の谷川の水を慕いあえぐが如く、安息日毎に教会に集い、礼拝を守り、主より祝福を受けている。

その力なんぢにあり その心シオンの大路にある者は福(さいはひ)なり かれらは涙の谷をすぐれども 其処をおほくの泉あるところとなす  また前の雨は もろもろの恵みをもて之をおほへり -5,6
節-

ここを読むと、詩篇23篇4節の 「たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害(わざはひ)をおそれじ  なんぢ我とともに在せばなり」 を思い出す。 涙の谷、死のかげの谷は、この世に満ちている。その中で苦しんでいる人たちが大勢いる。でも主は、私の所に来なさい。あなたを休ませてあげようと言ってくださる。その御声に従って教会に来られるならば、救いの道はここにある。

なんじの大庭にすまふ一日は 千日にもまされり われは悪の幕屋にをらんよりは 寧ろわが神のいへの門守(かどもり)とならんことを欲(ねが)ふなり -10節-

神の家である教会に集うことは楽しいことである。心一杯主を崇めて讃美し、祈ることは幸いである。御言葉の味わいはいかばかりであろう。他に比べるものは一つとしてない。

神の隣在のある教会、神の御霊に満ち満ちている教会、主が興された教会、神が地上に置かれたオアシスであるイエス之御霊教会に来られ、天来の豊かな祝福を受けて頂きたく思います。
 


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