道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2015年03月

                 2015-03-28 聖書



エホバよみことばは天にてとこしへに定まれり -詩篇191:89ー

聖書は神のことばである。英語の the BIBLE とは、ギリシャ語の biblia からでた言葉で「本」という意味である。神が記された唯一の真の「本」を指している。

聖書は、旧約聖書と新約聖書とがあり、旧約聖書39巻はヘブル語で書かれ、後にギリシャ語に訳された。新約聖書27巻はギリシャ語で記された。合わせて66巻が私たちが用いる聖書である。

聖書の著者は誰かと言うと、約1,500年に亘って39人の記述者によって記されたが、実際の口述者は神であって、ペンを執った人たちは、神に用いられて記したのである。

これについてパウロは「聖書はみな神の感動によるものにして教誨(をしへ)と譴責(いましめ)と矯正(けうせい)と義を薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて、諸般(もろもろ)の善き業に備を全うせん爲なり」と記している。-テモテ3:1617,-

また、ペテロも「なんじら先ず知れ、聖書の預言は、すべて己がままに釋(と)くべきものにあらぬを。預言は人の心より出でしにあらず、人々聖霊に動かされ、神によりて語れるものなればなり」と記している。-ペテロ後1:20,21-

驚くべきことは、膨大な量の聖書のことばは、旧約、新約の全てを通して筋が一人の人が書いた如く一貫していることである。記者の年代が異なり、身分も記述場所も違うのにである。

旧約聖書の創世記に記されているアダムとエバの原罪は、モーセの十戒によって激しく責められるが、新約聖書では主イエス・キリストに由って赦され、人が義とされる道筋を聖書は余すところなく記している。

そして、主イエス・キリストが「汝らは聖書に永遠の(とこしへ)の生命(いのち)ありと思ひて之を査(しら)ぶ、されどこの聖書は我につきて證するものなり」と言われたように、聖書の記事すべてがイエス・キリストを指し示しているのである。-ヨハネ5:39-

このように聖書の全てが互いに関連があって、旧約聖書の預言は、新約聖書のイエス・キリストに在って成就しているのである。

「なんじらエホバの書(ふみ)をつまびらかにたづねて読むべし これらのもの一つも欠けることなく又ひとつもその偶(とも)をかくものあらじ そはエホバの口このことを命じ その霊(みたま)これらを集めたまふべければなり」とある故に注意を払って読むべきである。 -イザヤ34:16-   

大切なことは、聖書は聖霊の感動によって記されたので、読者も聖霊を受けて祈りつつ拝読せねば、正しい解釋に至らない。人間の知恵と知識の範囲で終わってしまうのである。「彼すなはち真理の御霊のきたらん時、なんじらを導きて真理をことごとく悟らしめん。」とある。銘記すべきである。-ヨハネ16:13-

また、主が「天地は過ぎゆかん、然れど我が言(ことば)は過ぎ往くことなし」と言われたように、聖書は不変の神のみことばなので、「我が汝らに命ずる言は汝らこれを増しまたは減すべからず わが汝らに命ずる汝らの神エホバの命令を守るべし」とあり、-申命記4:2- 又、ヨハネ黙示録にも、「われ凡てこの預言の言を聞く者に證す。もし之に加ふる者あらば、神はこの書(ふみ)に記されたる苦難(くるしみ)を彼に加へ給はん。若しこの預言の書の言を省く者あらば神はこの書に記されたる生命(いのち)の樹(き)、また聖なる都より彼の受くべき分を省き給はん」-22:18,19-とある。聖書のことばを蔑(ないがしろ)にしてはならない。神のことばとしてそのまま頂くことである。神のみ前に粛然たれ。

     o○o。.★.。o○o。.☆.。o○o。.★.。o○o。.☆.。o○o。.★.。o○o。.☆.。o○o。

お知らせ FCブログ「御霊の声」に証-46 ロシア人伝道を載せました。⇒ 
http://dooh-imk.info  関連リンク
   


                               春を迎える 春を迎えた


新バビロニア帝国の2代目の王ネブカデネザルは、ユダの王ヱホヤキムの治世の3年にエルサレムに攻め来たり、民を捕えてバビロンに捕囚した。 その中に若きダニエルと、3人の友人シャデラク、メシャクエル、アザべデネゴがいた。

ネブカデネザル王は侍従に命を下し、イスラエルの子孫の中から優秀な若者を選んで文学と言語を学ばせようとした。 ダニエルと友人たちは、神の祝福を得て学び、智慧の学において全国の学者に勝ること十倍となり、王の前に侍るようになった。

こうして、王の庇護の下何事もなく歩んできたが、信仰の試がやってきた。

     *・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

1. ネブカデネザル王は、平野に高さ30m程の金の像を立て、全国から主だった人たちを集めて落成式を行った。そして命じて言った「音楽が鳴り響くと同時に金像を拝め、拝まぬ者は火の燃える炉に投げ込むぞ」と。集った人たちは命惜しさに王の命令に従った。

所が、従わない者が3名いた。シャデラク、メシャク、アベデネゴであった。唯一真の神を信ずる3名は、偶像を拝することをしなかった。たとえ王の命であっても神に対する信仰の操を固く守ったのである。

再度の勧告を断固拒否した3人は、縛り上げられ、七倍も熱くした火の燃える炉の中に投げ込まれた。

だが、王が目にしたのは何か、火の中を歩む4人の姿であった。「3人投げ込んだ筈が4人になっている。しかも4人目は神の子の姿形をしているではないか」 と。

王は恐れて呼び戻すと、3人は髪も焼けず、衣も焦げず、火の匂いもしなかった。

王は言った。「シャデラク、メシャク、ァべデネゴの神は讃むべき哉。神は使者を遣リ、己を頼む僕を救われた」と。 -ダニエル3章-

    *・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜

2.時が経って、国はメデア、王はダリヨスの時代となった。

メデアは120州を擁する大国であった。王は120人の知事をたて、その上に3人の監督を置いた。ダニエルはその一人であった。彼は忠実に仕事をしたので王は信頼を寄せた。

これを妬んだのは、他の監督や知事たちであった。ユダヤ人である彼を引きずり落とそうとしたが、彼には付入る隙がなかった。この上は彼の基礎になっている信仰を崩すしかないと思い、王に進言して言った。「今より後30日間は、王にのみ願い事をし、神または人にする者は獅子の穴に投げ入れるという禁令を発布してください」と。王は快く承諾した。

ダニエルはこの事を知っていたが、家に帰ると二階の窓を開き、エルサレムの方角に向かって日に3度の祈りをささげ、神に向って感謝をした。これが彼の日課であった。

この事実が王に告げられ、王は悩んだが、一度立てた禁令を破ることは適わず、ダニエルは獅子の穴に投げ込まれた。だが、神は御使いを遣して獅子の牙と爪から守ってくださった。

彼の無実を知った王は獅子の穴から救いだし、代わって彼を讒奏(ざんそう)した者たちを投げ込むと、獅子は彼らが底に着かぬ内に飛びかかり、噛み砕いた。

王は国中に詔書を送り、「ダニエルの神を畏れ敬うべし。是は活ける神にして永遠に立つ者、救いを施す神なり」と告げた。 ダニエル6章-

    *・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜*・゜゚・*:.。..。.:*・゜   

最後に、ダニエルと3人の友も記されている信仰者の列伝として知られるへブル書11章より、39,40節を結語として記そう。

彼等はみな信仰に由りて証せられたれども約束のものを得ざりき。これ神は我らの為に勝りたるものを備へ給ひし故に、彼らも我らと偕ならざれば、全うせらるる事なきなり。

約束のものとは何か、勝りたるものとは何か、これ聖霊である。信仰が全うせられん為に、主に祈り求めて、聖霊を受けられるように。


                                   P1020209 花_


汝等もしキリストと共に甦へらせしならば、上にあるものを求めよ、キリスト彼処に在りて神の右に坐し給ふなり。汝ら上にあるものを念ひ、地に在るものを念ふな。汝らは死にたる者にして其の生命(いのち)はキリストとともに神の中に隠れ在ればなり。 -コロサイ3:1~3-

クリスチャンとは、キリストと共に死に、共に生きるものである。

主は、私たちの為に死に、同時に私たちの為に初穂となって甦ってくださった。私たちもそれに倣って、キリストの為に死に、キリストの為に生きる者なのである。

常に上に在るもの、即ち主イエス・キリストが天に備えていてくださるものを慕い求める者は幸いである。

この世のものを求める者は、未だ神を知らぬ不従順な者であり、肉に属する者である。その欲望は果てしなく、遂には自らの身も魂も滅ぼしてしまう。

だが、真のクリスチャンは、キリストの御血で洗われ、内なる御霊に導かれる者であるから、旧き人と行いを脱ぎ捨て、新しい義の衣を身に纏い、キリストの御姿に似た者へと造り変えられていく。正に神によれる新創造の御業が行われるのだ。

水と霊もて救われた者は、神の選民であり、愛される者である。故に御霊の実を多く結び、愛と信仰と希望の花を咲かせて行きたく思う。

絶えず、主のことを考え、主の道を求め、主の為に生きようと考え、行動する人は幸いである。主はその人を放って置かない。必ずや、主御自身の御榮のために用いて下さる。それが、その人の生き甲斐となるのだ。

為す所の凡ての事あるひは言(ことば)あるひは行為(おこなひ)みな主イエスの名に頼りて為し、彼によりて父なる神に感謝せよ。 -同 17節-


         P1020173a


キリストの愛われらに迫れり。我ら思ふに、一人すべての人に代わりて死にたれば、凡ての人すでに死にたるなり。その凡ての人に代わりて死に給ひしは、生ける人の最早おのれの為に生きず、己に代り死にて甦へり給ひし者のために生きん為なり。 -コリント後5:14~5-

主イエス・キリストは、凡ての人の罪を背負って十字架にかかり、「罪の払う価(あたい)
は死なり」 という神の定めをご自分の身の上に成就してくださった。そのお蔭で、私たちは罪に対して死んだものとなったのである。

ゆえに、主イエス・キリストを信じて、水と霊とのバプテスマを受けた者は、全く罪赦された者であって、罪の欠片(かけら)すらも無いのである。

何という大きな神の愛であろうか。ゆえにパウロは「キリストの愛われらに迫れり」というのである。

この愛を知る故に、我らもキリストの心を己が心として、自己中心の生き方を止め、キリストのために身と心を捧げて生きる者となるべきである。

されば今より後われ肉によりて人を知るまじ、曾て肉によりてキリストを知りしが、今より後は斯くの如くに知ることをせじ。人もしキリストに在らば新に造られたる者なり、古きは既に過去り、視よ新しくなりたり。 -同 5:16,17-

パウロは、サウロと呼ばれていた救われる以前に、ナザレのイエスを知っていた。しかし、それは救い主としてではなく、単なる人として知っていたに過ぎない。ユダヤ教の教えで頭ががちがちであったサウロには、イエスも弟子たちも異端者にしか見えなかった。だから、迫害するを良しとしたのである。

然し、パウロは、鬼畜の如くになってキリスト教徒を捕えにダマスコへ行く途中、光の中の主イエス・キリストに出会うに至って、彼の生涯は一変した。彼は新しく造られた者となった。最早ユダヤ教に染まった過去のサウロは消え失せ、主イエス・キリストと、福音に仕える新しいパウロに生まれ変わったのである。 -使徒行伝9:3~6参照- 

パウロは後に当時を回想して 『キリスト・イエス罪人(つみびと)を救はん為に世に来り給へり』 とは、信ずべく正しく受くべき言(ことば)なり、其の罪人の中にて我は首(かしら)なりと言い、このような大罪人が憐れみを受けて救われたのだから、ましてや他の人々が救われない訳はないと言っている。 -テモテ前1:15,16-

これらの事はみな神より出づ、神はキリストによりて我らを己と和(やわら)がらしめ、かつ和がしむる職(つとめ)を我らに授け給ヘリ。即ち神はキリストに在りて世を己と和がらしめ、その罪を負わせず、かつ和がらしむ言(ことば)を我らに委ね給へり。 -コリント後5:18,19-

アダムとエバが罪を犯してエデンの園から追出されて以来、神と人とは交わりを持てぬ敵対関係となった。人の側からは、焼き尽す神に近寄る手立てはなかったが、神の側から人に対して救いの手が差伸べられたのである。

神と人との和解のためには、罪の始末をするお方が必要であった。そのお方こそ主イエス・キリストである。私たちは主を信じて、水と霊のバプテスマを受けるとき、即ち主イエス・キリストの御名による水のバプテスマを受ける時に、一切の罪は赦され、聖霊のバプテスマを受ける時、キリストの御霊が内住して下さり、我らは神の御霊の住み給う宮となり、御霊自ら我らが神の子であると証して下さるのである。

そして、主はこの福音の使者として我らを用いて下さるのだ。周囲の人から始まって、遠き地に住む人々に至るまで、凡そ御霊の導き給う所は何処にでも行かせて頂いて、この素晴らしい福音を宣伝へさせて頂きたいと祈り願う者である。ハレルヤ!

このページのトップヘ