エホバよみことばは天にてとこしへに定まれり -詩篇191:89ー
聖書は神のことばである。英語の the BIBLE とは、ギリシャ語の biblia からでた言葉で「本」という意味である。神が記された唯一の真の「本」を指している。
聖書は、旧約聖書と新約聖書とがあり、旧約聖書39巻はヘブル語で書かれ、後にギリシャ語に訳された。新約聖書27巻はギリシャ語で記された。合わせて66巻が私たちが用いる聖書である。
聖書の著者は誰かと言うと、約1,500年に亘って39人の記述者によって記されたが、実際の口述者は神であって、ペンを執った人たちは、神に用いられて記したのである。
これについてパウロは「聖書はみな神の感動によるものにして教誨(をしへ)と譴責(いましめ)と矯正(けうせい)と義を薫陶するとに益あり。これ神の人の全くなりて、諸般(もろもろ)の善き業に備を全うせん爲なり」と記している。-テモテ3:1617,-
また、ペテロも「なんじら先ず知れ、聖書の預言は、すべて己がままに釋(と)くべきものにあらぬを。預言は人の心より出でしにあらず、人々聖霊に動かされ、神によりて語れるものなればなり」と記している。-ペテロ後1:20,21-
驚くべきことは、膨大な量の聖書のことばは、旧約、新約の全てを通して筋が一人の人が書いた如く一貫していることである。記者の年代が異なり、身分も記述場所も違うのにである。
旧約聖書の創世記に記されているアダムとエバの原罪は、モーセの十戒によって激しく責められるが、新約聖書では主イエス・キリストに由って赦され、人が義とされる道筋を聖書は余すところなく記している。
そして、主イエス・キリストが「汝らは聖書に永遠の(とこしへ)の生命(いのち)ありと思ひて之を査(しら)ぶ、されどこの聖書は我につきて證するものなり」と言われたように、聖書の記事すべてがイエス・キリストを指し示しているのである。-ヨハネ5:39-
このように聖書の全てが互いに関連があって、旧約聖書の預言は、新約聖書のイエス・キリストに在って成就しているのである。
「なんじらエホバの書(ふみ)をつまびらかにたづねて読むべし これらのもの一つも欠けることなく又ひとつもその偶(とも)をかくものあらじ そはエホバの口このことを命じ その霊(みたま)これらを集めたまふべければなり」とある故に注意を払って読むべきである。 -イザヤ34:16-
大切なことは、聖書は聖霊の感動によって記されたので、読者も聖霊を受けて祈りつつ拝読せねば、正しい解釋に至らない。人間の知恵と知識の範囲で終わってしまうのである。「彼すなはち真理の御霊のきたらん時、なんじらを導きて真理をことごとく悟らしめん。」とある。銘記すべきである。-ヨハネ16:13-
また、主が「天地は過ぎゆかん、然れど我が言(ことば)は過ぎ往くことなし」と言われたように、聖書は不変の神のみことばなので、「我が汝らに命ずる言は汝らこれを増しまたは減すべからず わが汝らに命ずる汝らの神エホバの命令を守るべし」とあり、-申命記4:2- 又、ヨハネ黙示録にも、「われ凡てこの預言の言を聞く者に證す。もし之に加ふる者あらば、神はこの書(ふみ)に記されたる苦難(くるしみ)を彼に加へ給はん。若しこの預言の書の言を省く者あらば神はこの書に記されたる生命(いのち)の樹(き)、また聖なる都より彼の受くべき分を省き給はん」-22:18,19-とある。聖書のことばを蔑(ないがしろ)にしてはならない。神のことばとしてそのまま頂くことである。神のみ前に粛然たれ。
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