道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2015年06月

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彼等リベカを祝して之にいひけるは われらの妹よ汝千萬(ちよろづ)の人の母となれ 汝の子孫をして其仇の門を穫(とら)しめよ  -創世記24:60-

先日、九州で教団の先生方の結婚式が行われた。出席は叶わなかったが、祝意を伝え、主の祝福を願って祈りを捧げた。

創世記24章は、アブラハムが息子イサクに妻を娶らせようとして行動し、神が祝福をもって導かれたことが一幅の麗しい絵物語のように記されている。

アブラハムが年老いた時に、凡ての持物を掌る年寄りの僕(しもべ)を呼んで、息子イサクのために、その妻を異邦人であるカナン人の中からではなく、アブラハムの故郷メソポタミヤに行って、同族の中から探し出し、連れて来て娶(めと)らせよと命じた。

僕は、10頭のらくだを仕立て、これに主人からの贈り物を載せ、從者と共に、メソポタミヤのナホルの町に向い、日数を重ねて到着した。僕は井戸の傍らに立って、町の娘らが水を汲みに来るのを眺めていたが、ふと目を天に向けて神に祈った。

「わが主人アブラハムの神よ、願わくは今日その娘に会わせてください。そして私とらくだに水を飲ませてくれる娘がいたら、正にその人です」と。

その言葉が終わらぬうちにリベカが現れた。そして僕が言った通りのことをしてくれたのである。僕が誰の娘かた聞くとアブラハムの親族であることが分かった。何と尋ねてきた目的の人と斯くも速やかに出会ったのである。


僕は、リベカの兄ラバンと父ベトエルに会い、事の次第をつぶさに告げると、二人は「このことは神より出たこと故に良し悪しを言うことはできません。リベカを連れて行き、神の言われた通りにあなたの主人の息子の妻とならせてください」と答えた。僕は神に感謝し、二人に贈り物を与えたのである。

翌日の朝、僕は二人に言った。「私は主人の許に帰ります」と。兄と母は「せめて十日間は娘を側に置かせてほしい」と言ったが、僕は「神が私の道に幸いを下したのだから、速やかに連れ帰ります」と言った。  

リベカが呼ばれて意思を問われると、「行きます」ときっぱり答えた。そこで家族は、リベカと乳母、アブラハムの僕と従者を送り去らしめた。

リベカに贈った餞(はなむけ)の言葉は「汝千萬(ちよろづ)の人の母となれ 汝の子孫をして其仇の門を穫(とら)しめよ である。 教会にとって若き牧師の結婚は、二人の上に祝福が注がれることであると共に、教会全体の祝福となることであると思う。

・・・イサクは夕暮れに野に出て黙想をしていたが、目を上げるとらくだがやってきた。・・・リベカが僕に「あの方はどなたですか」と尋ねた。「私の主人です」と僕は答えた。イサクとリベカはこうして出会った。

イサクは、リベカを亡き母サラの天幕に連れて行き、娶って妻とし、これを愛した。イサクは母と別れた後、リベカによって慰めを得たのである。


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                    左/布コンクリートの打設  右/断熱材で包まれた基

今や北海道は建築シーズン真っ直中である。このところ連日建設の槌音が響いている。近所でも木造家屋が2棟並んで建築中である。様々な工法があることに気づく。寒冷地なので、壁、天井の外に、基礎にまで可なりの厚さの断熱材が使われている家も見かける。

昔と違う点は、基礎がしっかりしていることである。凍上を避けるため地面を50㎝程掘り下げて砂利を敷き、コンクリートでガッシリと台を作り、1週間ばかり養生してから、その上に部屋の形に合わせた縦型の木枠を作り、中に鉄筋を挟み込んでコンクリートを流し込む。ここ迄で可なりの日数と労力と費用が掛かる。

それが終わると、その間に工場で仕上げ材木が1棟分運ばれてくる。寸法に合わせて切り込みが為されているので、現場での造作は一切不要である。(御承知の方もあろうが)、柱に記したAとA’、BとB'とを合わせて組み立てるだけだから瞬く間に家の形ができてくる。建主も時々見に来てはご満悦のようである。

聖書に家を建てる話が出てくる。即ち主イエス・キリストはこう言われた。

なんぢら我を「主よ主よ」と呼びつつ何ぞ我が言うふことを行はぬか。凡そ我にきたリ我が(ことば)を聴きて從う人は、地を深く掘り岩の上に基を据えた人のごとし。洪水いでて流その家を衝(つ)けども動かすこと能わず、これ固く建てられたる故なり。されど聴きて行わぬ者は、基なくして家を土の上に立てたる人のごとし、流その家を衝けば、直ちに崩れて、その破壊(やぶれ)甚だし -ルカ6:46~49-

主イエス・キリストこそ我らのとって真の基なるお方なのだ。

パウロもまたこう言っている。

汝らは神の畠なり、また建築物(たてもの)なり。 我は神の賜ひたる恩恵(めぐみ)に随ひて熟練なる建築師のごとく基を据えたり、而して他の人その上に建つるなり。然れど如何にして建つべきか、おのおの心して為すべし、既に置きたる基のほかは誰も据うること能はず、この基は即ちイエス・キリストなり。と、 -コリント前3:9~11-

更に続けて、

人もし此の基の上に金・銀・寳石・木・草・藁をもって建てなば、各人(おのおの)の工(わざ)は顕るべし。かの日これを明らかにせん。かの日は火をもって顕れ、おのおのの工の如何を験(ため)すべければなり。その建つる工、もし保たば値を得、もし其の工、焼けなば損すべし。然れど己は火より逃れ出づる如くして救われん。 -12~15-

汝ら知らずや、汝らは神の宮にして神の御霊なんぢらの中に住み給ふを。人もし神の宮を毀(こぼ)たば神かれを毀ち給はん。それ神の宮は聖なり、汝らも亦かくの如し。 
-16,17-

我らは主イエス・キリストを基にして如何なる建物を建つべきか。かの日すなわち主が来たり給う再臨の日には、金・銀・寳石の如く輝く者として主の前に立つ者でありたい。木もまた良しである。だが草・藁では燃えて何も残らない。ただし、救われていれば、己自身は辛うじて救われるとある。だが、救われていなければそれすらも無いことを思うべきだ。茲に水と霊とによる救いの大切さを知るのである。

主は、ご自身の復活を預言して「なんぢら此の宮をこぼて、われ三日の間に之を起さん」と言われた。主は己が体の神の宮なることを言われたのである。  -ヨハネ2:19~21-

我らも主の御霊を受ける時、この身、この体は御霊が宿り給う神の宮とされるのである。





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                      金くさり


汝等のうち病める者あるか、その人、教会の長老たちを招け。彼らは主の名により其の人に油をぬりて祈るべし。さらば信仰の祈りは病める者を救はん、主かれを起し給はん、もし罪を犯しし事あらば赦されん。   -ヤコブ5:13~15-

今日は、病の癒しの証があった。

① 50代の女性、左肩が上がらなくなり、炊事をするにも何をするにも左手は使えず、ピアノを弾くにも左腕を右手で持ち上げて鍵盤の上に置かねばならず、車のハンドルを握るにも同じくせねばならなかった。 夜は夜で横向きに寝れず、仰向けでは左肩が下がって痛みで眠られず、日増しに痛みが募ってどうにもならなくなった。

愈々となって整形病院に行く前に、教会で神癒祈祷をしてもらった。 病院に行くと先ずレントゲン写真を撮ったが異常はないという診断だった。組織を取って調べましょうと肩の関節に注射針をさしたら、余計痛くなった。それで痛み止めの薬をもらい、リハビリ室でレーザ光線や、遠赤外線をかけたり色々な療法をしてもらい、何度も通院した。

そのうちMRIで詳しく検査をしようということになったが、検査中に吐き気がして具合が悪くなり、中止になった。何かもうこれ以上してもらわなくて良いような気持ちになった。それで代わって2度目のレントゲン写真を撮ったら、医師が最初と2度目とを見比べて、最初の方には白い突起物が写っているが、2度目には無いことに気付いた。

「痛かったのは、これのせいだよ・・・だけどどうして無くなったのか? 僕はこれを取る治療をしていないので、分からない」 とのことだった。リハビリの先生ももう良くなったようですねと云うことで、それ以来病院に行っていないが、今はすっかり良くなった。神様が作ってくださった体だから、神様が癒やしてくださったと信じている。

② 60代の男性、突然脈拍が速くなり、毎分150以上になった。医師からは入院してカテーテルアブレーション手術をするように勧められた。これは、カテーテルの先端に心電図を計測する電極が付いていて、異常部位を検知し、高周波の電流で焼灼して、根治するという方法だそうである。

教会でお祈りして欲しいと電話で依頼があったので祈っていた。手術日が過ぎてから、結果が知らされてきた。カテーテルを入れたが、その時点では頻脈が無かったので心臓内の異常部位を特定することができず、随って手術は取りやめになったということであった。その後何らの異常もないので一安心をし、教会に来られた時に神癒祈祷をし、神様が癒やしてくださったことを感謝したのである。

汝らが遭ひし試練(こころみ)は人の常ならぬはなし。神は真実(まこと)なれば、汝らが耐え忍ぶこと能はぬほどの試練に遭はせ給はず、汝らが試練を耐え忍ぶことを得んために、之と共に遁(のが)るべき道を備へ給はん。  -コリント前10:13-

汝もし善く汝の神ヱホバの聲に聴きしたがひ エホバの目に善と見ることを為し その誡命(いましめ)に耳を傾け その諸(すべて)の法度(のり)を守らば 我わがエジプト人に加へしところのその疾病(やまひ)を一つも汝に加へざるべし 其は我はヱホバにして汝を医す者なればなり -出エジプト1526-



         File0122
                                                         メラ
                    

兄弟よ、我なんぢらが之を知らぬを好まず。即ち我らの先祖はみな雲の下にあり、みな海をとほり、みな雲と海とにてバプテスマを受けてモーセにつけり。而して皆おなじく霊なる食物を食し、みな同じく霊なる飲物を飲めり。これ彼らに随ひし霊なる岩より飲みたるなり、その岩は即ちキリストなりき。
                               -コリント前10:1~4-

出エジプト記14章以降には、エジプトの王パロの下で奴隷とされていたイスラエルの民が、モーセに率いられてパロの手から逃れて、約束の地、即ち乳と密との流れるカナンの地へ向けて旅立つ様が記されている。

神は、近道であるぺリシテ人の地には導かれなかった。それは戦いになり、民が悔いてエジプトに帰るだろうと神が思われたからである。そこで神は民を紅海の道に導かれた。神は彼らの前に在って、昼は雲の柱となり、夜は火の柱となって彼らを照らして導かれた。この雲の中に神の御霊は臨在し、昼夜の分かちなくイスラエルの民と偕に在られた。

今日は、我らが聖霊のバプテスマを受けることによって、主なる神イエス・キリストが我らの衷にあって導いてくださるのである。

さて、彼らが向かった先には紅海があった。しかも背後にはエジプトの大群が追いかけてきている。もはや逃れる術はないと思った時、全能の神はモーセに「汝杖を挙げ 手を海の上に伸て之を分ち イスラエルの子孫をして海の中の乾ける所を往しめよ」と言われた。

そこでモーセに從いイスラエルの民が前に進むと、神は東風を吹かせて海を退かせ、遂には分かれて、左右に壁のように立った。民は紅海の乾ける道を進んだ。雲の柱は、イスラエルの子孫(ひとびと)の後ろへ回り、エジプト人とを隔てた。火の柱はイスラエル人を明るく照らし、エジプト人には闇となったので歩みは滞った。神自ら民のために戦われたのである。そして、イスラエル民が全員、対岸に着くと、神はモーセに再び杖を海の方に伸ばすように言われた。すると海は元に返り、エジプトの軍勢は悉く滅んだのである。モーセとスラエルの子孫は讃美を高らかに歌い、ミリアムは鼓をとり踊って喜んだ。

この紅海の水を通ったことは、我らにとって、水のバプテスマを受けることを指している。

イスラエル人が、雲と海とを通ってモーセについた如く、今日の我らは、聖霊とイエス・キリストの名による洗礼とを受ける事によって神なるイエス・キリストにつく者となるのである。

こうして、シナイの地に渡った民たちに、パンと水の問題が待っていた。これなくしては生きて行くことはできない。

だが、神は鮮やかに天からマナを降らせてパンとし、鶉をもち来たらせて肉とし、岩を割いて水を与えて下さった。そのどれもが主イエス・キリストを指している。これ主が我らにとって一切のこととなるためである。

汝等の神エホバに事へよ 然ばエホバ汝らのパンと水を祝し 汝らの中より疾病(やまひ)を除きたまはん    
                                -出エジプト記23:25-

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