道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2015年07月

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常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ。これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり。 -テサロニケ前5:16~18-

汝ら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ。凡ての人に汝らの寛容を知らしめよ、主は近し。何事をも思ひ煩ふな、ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。さらば凡て人の思ひにすぐる神の平安は汝らの心と思とをキリスト・イエスによりて守らん。 -ピリピ4:4~7-

上の二つの聖句で共通しているのは、「喜べ、祈れ、感謝せよ」である。これは、信仰の基本であり、原則だと思う。

「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」とある。 -ネヘミヤ9:10-

会堂に入り、席に付くなり、涙にむせび泣く方がおられる。暫く黙して静まるのを待つ・・・。なにがそうさせるのだろうか。

教会には神の御霊が臨在しておられる。神の御前では、みな心が素直になるのだと思う。なにも飾ることもなく、ありのままの姿になることができる。いろいろな感情が湧きあがってくるのだろう。

「悲しくもないのに、なぜか涙が出るのです」と言う方もおられる。これも聖霊による感動であると思う。

ネヘミヤ記8章には、イスラエルの民が一人のごとくなって、祭司であり学士であるエズラにモーセの律法の書を読んでくれるように請うたことが記されている。

そこで、エズラが台に立ち、先ず大神ヱホバを祝した。民は皆手を挙げてアーメン、アーメンと言い、地に伏して神を拝んだ。エズラとレビ人は聖書を朗らかに誦(よ)み、その意味を解き明かすと、民が泣いたとある。初めて聖書の御言葉に接した者が受ける感動であった。

でも、泣かずに喜びなさいとエズラもネヘミヤもレビ人も民に言った。「此の日は汝らの神ヱホバの聖日(きよきひ)なり 哭(なげ)くなかれ」と、更に語を継いで「汝ら去りて肥えた者を食らい 甘き者を飲め 而してその備えをなし得ざる者に之を分かちおくれ 此の日は我らの主の聖日なり 汝ら憂ふることをせざれ ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」と。

民はみなこれに從い、そこを去って食らい かつ飲み 人に分かちおくり 大いなる喜悦(よろこび)をなした。是はその誦みきかされし言(ことば)を了りしが故なりとある。

昔も今も変わりはない。

我らも主イエス・キリストに在って大いに喜ぶことができる。主に向い、主イエスの名によって祈るとき、求めるもの、願うものが与えられて、大感謝をすることができる。

涙を流した信者の方をそのまま帰してはいけない。話をし、聖書を開いて読み、共に異言で霊の祈りをし,讃美をすると、笑顔になる。喜び、活かされ、感謝をすることが大切である。「また、来ます!」と喜んで帰って行かれる。ハレルヤだ!

此の故に我ら主イエスによりて常に讃美の供え物を神に献ぐべし、乃ちその御名を頌(ほ)むる口唇(くちびる)の果(み)なり -へブル13:14-

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われ漁に行く -ヨハネ21:3-

シモン・ペテロが「私は漁に行く」と言った。すると、一緒にいた6人の主の弟子たちも「私達も一緒に行く」と言った。彼らは舟に乗り込んで、漁に出たが、その夜は何もとれなかった。

主は、復活して後、弟子たちに2度現れたが、その後、日が経つのに主は現れなかった。

以前だったら主がいつも側にいて、「明日は〇〇へ行く・・・」などと予定を教えてくれもした。神の国の話も聞けた。先頭に立って導いてくれもした。けれども、今は側に主はいない。何をしたら良いのかも分からない。そんな時にできることと言えば、ペテロにとっては昔仕事としてやっていた漁だった。「そうだ漁に行こう!」 幸い暇を持て余している他の弟子たちもペテロの言う言葉に乗って、ガリラヤの岸辺から舟を漕ぎ出した。だが、一晩中網を入れたのに一匹の魚もとれなかった。なぜだろう。腕が鈍ったのか? 否、主が偕にいなければ為す業は実が結ばないのだ。

その様子を、夜明け頃、主イエスは湖畔から見ておられた。そして、大声で「子たちよ、何か食べるものがあるか」と言われた。「ありません」と答えると「舟の右側に網を打ちなさい」と言われた。そこでその通りに網を打つと凄い手ごたえがあった。余りにも多く魚が掛ったので引きあげることができなかった。

これを見て、ひとりの弟子が「主だ」と言った。正に主でなければできない業である。「主だ」と聞いてペテロは、裸同然だったので、上着をまとい、一瞬でも早く主に会いたい思いで湖に飛び込み、主を目がけて懸命に泳ぎ、岸に這い上がって主の御許に着いた。ペテロにとっては、魚などどうでも良い(漁業の皆さん、ごめんなさい) 、主イエスにお会いできればそれが最高だったのである。

外の弟子たちは、岸まで僅か90メートルくらいであったので、魚の入った網を小舟で引きながら、陸に上がってみると、主イエスは炭火を熾して魚を焼き、パンも用意して、弟子たちの到着を待っておられたのである。その上、「今とれた魚を何匹か持ってきなさい」と言われた。何と主の心根の優しいことか。

ペテロが舟に乗り込んで魚を陸に引き揚げると、153匹もの大きな魚があった。それなのに網は破れなかったのである。正に奇蹟である。

そして、主は朝の食事に弟子たちを招いてくださった。主はパンをとって弟子たちに与え、魚も同じく与えてくださった。それは、あの5000人の人たちにパンと魚を与えられた時のようであり、最後の晩餐でパンと葡萄酒を手にとって与えてくださった時のようであった。 ハレルヤ!
 
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汝我を愛するか

食事が終わると、主はペテロに言われた「ヨハネの子シモンよ、汝この者どもに勝りて我を゜愛するか」ペテロは言った「主よ、然り、わが汝を▵愛する事は、汝知り給ふ」 主は「わが羔羊(こひつじ)を養へ」と言われた。

また再び言われた「ヨハネの子シモンよ、我を゜愛するか」 ペテロは言った「主よ、然り、わが汝を▵愛する事は、なんぢ知り給ふ」 イエスは言われた「わが羊を牧(か)へ」と。

三度言われた「ヨハネの子シモンよ、我を▵愛するか」 ペテロは三度「我を▵愛するか」と言われたので、悲しく思い、「主よ、知りたまはぬ所なし、わが汝を▵愛する事は、なんぢ識りたまふ」 と答えた。イエスは言われた「わが羊を養へ・・・」と。

主は、ペテロに三度「汝我を愛するか」と言われた。同じ問いを三度なされたのである。その愛がうわべなのか、本気なのか問われたのである。ペテロは同じく三度「主よ、然り、わが汝を愛する事は、なんぢ知り給ふ」と答えている。特に三度目は、心を振り絞る如く、本気です、嘘偽りはありませんと言い表したのだ。

その答えを聞いて主は、「わが羔羊を養え」、「わが羊を牧へ」、「わが羊をやしなへ」と言われた。牧師・伝道者たる資格は、選ばれた者であると共に、全き愛をもって主を愛し、従う者でなければ、主は群れを委ねられない。

ペテロは、主が裁きを受けられたとき、鶏が鳴く前に三度主を知らないと否んだ。主はこれに就いて預言をなさった。-マタイ26:31~35、69~75、ルカ22:3134- ペテロは心の中で、自責の念に駆られていたことであろう。然し、主は咎めることなく、優しく「シモンよ、なんぢ我を愛するか」と三度問われ、ペテロに三度「なんぢを愛します」と答えさせたのである。

主が言われた「゜愛」はアガペー(犠牲を惜しまぬ 神の持つ最高の愛)であったが、ペテロが答えた「▵愛」はフィレイン(友愛のように人としての最高の愛)であった。主は三度目にペテロの愛に対する理解に合わせてフィレインと言われたのである。

汝は我に従へ

主は、ペテロの将来に就いて預言して言われた。「あなたは若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」と言われ、最後に「我に従へ」と言われた。

ペテロが、傍らの若い弟子を見て、「主よ、この人は如何に」と問うと、主は「この人と、汝になにの関係(かかわり)あらんや、汝は我に従へ」と答えられた。主に従うことは、一人一人「主と我」の関係なのである。

その後、弟子たちは、主イエス・キリストから「全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣伝へよ」と御命令を頂き、-マルコ16:15-
更にペンテコステの日に至って聖霊のバプテスマを受けて、救いと能力を与えられて、明確な目的意識を得て伝道に励むに至った。

我らも、ペテロの如く、初代の使徒たちの如く、真の福音のために用いられる者でありたい。

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                            バプテスマのヨハネ誕生教会 エン・カレム

エルサレムに居る使徒たちは、サマリヤ人、神の御言(みことば)を受けたりと聞きてペテロとヨハネとを遣はしたれば、彼等下りて人々の聖霊を受けんことを祈れり。これ主イエスの名によりてバプテスマを受けしのみにて、聖霊いまだ其の一人だに降らざりしなり。爰(ここ)に二人のもの彼らの上に手を按きたれば、みな聖霊を受けたり。 -使徒行伝8:15~17-

ステパノの殉教後、エルサレムに在る教会に対して大いなる迫害がおこり、使徒たち以外の者は皆ユダヤとサマリヤの地方に散らされた。教会にとっては一大事件であったが、散らされたことにより、結果として諸所方々に伝道の道が開かれることになったのである。

七人の執事の中の一人として選ばれたピリポも、その一人であった。彼はサマリヤに導かれて、そこでイエス・キリストの福音を語ったのである。主の能力(ちから)が偕にあったので、悪霊を追出したり、中風の人を癒したり、足の不自由な人を癒して歩き出すなど、奇蹟・不思議・徴が行なわれたのである。

その町にシモンという魔術者がいて、様々な魔術を行って人々を驚かせていた。皆「この人は神の大能だ」と言って尊敬もし、自ら大なる者と称えていたが、ピリポの為す神の業には到底敵わず、心服して福音に聴き從うようになった。

ピリポが神の国とイエス・キリストの御名とに就いて語ると、皆これを信じて主イエス・キリストの名による水のバプテスマを受けた。シモンも同じくピリポからバプテスマを受けたのである。

この知らせがエルサレムに居る使徒たちに届いた。サマリヤ人が神の御言(みことば)を受け入れたと聞いて、ペテロとヨハネとを遣わした。二人はサマリヤに下って、人々が聖霊を受けるように祈ったのである。

「これ主イエスの名によりてバプテスマを受けしのみにて、聖霊いまだ其の一人だに降らざりしなり。」とある。 -8:16-

以前、ある教会の牧師が 「洗礼を受けたら、同時に聖霊も受かったのですよ」と教えているのを聞いたことがある。だが、これは間違いである。彼は、根拠として、主イエス・キリストがバプテスマのヨハネから洗礼を受けて水より上がられた時に、天開け、神の御霊が鴿(はと)のように降ったという御言葉を楯に、実例として挙げたのである。

だが、バプテスマのヨハネの証はこうである。『我を遣わし、水にてバプテスマを施させ給ふもの、我に告げて「なんぢ御霊くだりて或人の上に止るを見ん、これぞ聖霊にてバプテスマを施す者なる」といひ給へり。われ之を見て、神の子たるを証せしなり』 -ヨハネ1:33,34-

ヨハネが斯く言うように、彼がヨルダン川で人々に洗礼を施した時に、聖霊が降ったのを見たのは、主イエスお一人だけであった。それは、「この方こそ救い主、キリストです」と、神がヨハネに示すためであった。

その外の何人にも、洗礼を受けたら、即時に聖霊を受けたということは無かったのである。故に水のバプテスマを受けた方は、続いて聖霊のバプテスマを頂くように、主に祈り求める必要がある。

サマリヤで使徒たちが洗礼を受けた人たちの上に手を按くや、聖霊は降り、皆受霊したのであった。当然、受霊の徴として異言を語ったのである。

魔術者であったシモンがこれを見て、金を持ってきて「わが手を按くすべての人の聖霊を受くるように此の権威を我にも与えよ」 と見当違いも甚だしいことを言って、ペテロから激しく譴責されるのであるが、それ程、聖霊を受けるということは、奇しき神の御業なのである。



                                       ステンドグラス


                           
我は眞の葡萄の樹、わが父は農夫なり。おほよそ我にありて果(み)を結ばぬ枝は、父これを除き、果を結ぶものは、いよいよ結ばせん為に之を潔めたまふ。汝らは既に潔し、わが語りたる言(ことば)
に因りてなり。我に居れ、さらば我なんぢらに居らん。枝もし樹に居らずば、自ら果を結ぶこと能はぬごとく、汝らも我に居らずば亦然り。 我は葡萄の樹、なんぢらは枝なり。人もし我にをり、我もし彼にをらば、多くの果を結ぶべし。汝ら我を離るれば、何事も為し能はず。人もし我に居らずば、枝のごとく外に棄てられて枯る、人々これを集め火に投入れて焼くなり。汝等もし我に居り、わが言なんぢらに居らば、何にても望みに随ひて求めよ、然らば成らん。なんぢら多くの果を結ばば、わが父は榮光を受け給ふべし、而して汝等わが弟子とならん。 -ヨハネ15:1~8-

葡萄園に行くと、多くの葡萄の樹が、昨年剪定した枝から、若枝を伸ばしている。葉も生い茂り、その間に小さな果を付けている。枝の先には蔓が、何かを掴もうとするかのよう先へ先へと伸びている。

だが、良く見ると、枝の中には果の無いものもあれば、逆に幾つも果の付いたものもある。さて、この場合、農夫はどうするだろうか。摘果の作業をしなければならぬ。先ず葉ばかりで果が無ければ取り除くのである。養分が不必要だからである。では、幾つも果が付いている物はどうするか? 間引くのである。欲張って全部果を結ばせようとしても、養分不足でそうはならないからである。そうすることによって、人の喜ぶ程良い葡萄の果を得ることができるし、樹そのものの勢いを守ることができるのである。

枝はしっかりと樹に繋がっていなければ、水分も養分も受けることができず、枯れてしまうの外はない。若枝の間は風に吹かれただけで折れてしまうものもある。だから、農夫は紐などを使って若枝を、強い枝や棚に固定する。また害虫が来て葉が損なわれゝば、それも防止して悪しきものを取り去る。手を尽して果を結ばせようと農夫は努めるのである。そこには、大切に育てようという愛情さえ感じられる。

主イエス・キリストは、御自身と私たちの関係を、葡萄の樹と枝に譬(たと)えられた。

「しっかりと私に結びつきなさい。そうすれば多くの果を結ぶことができる。私を離れては何もできない」と主は言われるのである。私達は何者にも勝って主を愛するが故に、主に聴き從って、離れることなく結び付いていくのである。

主に結び付いていれば、どういう果を結ぶことができるだろうか。

ガラテヤ書5:22,23には、御霊の果は愛・喜悦(よろこび)・平和・寛容・仁慈(なさけ)・善良・忠信・柔和・節制なり、とある。 善き樹は、善き果を結び、而も、主に在って30倍、60倍、100倍の果を結ぶことができるのである。

汝ら我を選びしにあらず、我なんぢらを選べり。而して汝らの往きて果を結び、且その果の残らんために、又おほよそ我が名によりて父に求むるものを、父の賜はんために汝らを立てたり。             
-ヨハネ15:16-


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