常に喜べ、絶えず祈れ、凡てのこと感謝せよ。これキリスト・イエスに由りて神の汝らに求め給ふ所なり。 -テサロニケ前5:16~18-
汝ら常に主にありて喜べ、我また言ふ、なんぢら喜べ。凡ての人に汝らの寛容を知らしめよ、主は近し。何事をも思ひ煩ふな、ただ事ごとに祈りをなし、願いをなし、感謝して汝らの求めを神に告げよ。さらば凡て人の思ひにすぐる神の平安は汝らの心と思とをキリスト・イエスによりて守らん。 -ピリピ4:4~7-
上の二つの聖句で共通しているのは、「喜べ、祈れ、感謝せよ」である。これは、信仰の基本であり、原則だと思う。
「ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」とある。 -ネヘミヤ9:10-
会堂に入り、席に付くなり、涙にむせび泣く方がおられる。暫く黙して静まるのを待つ・・・。なにがそうさせるのだろうか。
教会には神の御霊が臨在しておられる。神の御前では、みな心が素直になるのだと思う。なにも飾ることもなく、ありのままの姿になることができる。いろいろな感情が湧きあがってくるのだろう。
「悲しくもないのに、なぜか涙が出るのです」と言う方もおられる。これも聖霊による感動であると思う。
ネヘミヤ記8章には、イスラエルの民が一人のごとくなって、祭司であり学士であるエズラにモーセの律法の書を読んでくれるように請うたことが記されている。
そこで、エズラが台に立ち、先ず大神ヱホバを祝した。民は皆手を挙げてアーメン、アーメンと言い、地に伏して神を拝んだ。エズラとレビ人は聖書を朗らかに誦(よ)み、その意味を解き明かすと、民が泣いたとある。初めて聖書の御言葉に接した者が受ける感動であった。
でも、泣かずに喜びなさいとエズラもネヘミヤもレビ人も民に言った。「此の日は汝らの神ヱホバの聖日(きよきひ)なり 哭(なげ)くなかれ」と、更に語を継いで「汝ら去りて肥えた者を食らい 甘き者を飲め 而してその備えをなし得ざる者に之を分かちおくれ 此の日は我らの主の聖日なり 汝ら憂ふることをせざれ ヱホバを喜ぶ事は汝らの力なるぞかし」と。
民はみなこれに從い、そこを去って食らい かつ飲み 人に分かちおくり 大いなる喜悦(よろこび)をなした。是はその誦みきかされし言(ことば)を了りしが故なりとある。
昔も今も変わりはない。
我らも主イエス・キリストに在って大いに喜ぶことができる。主に向い、主イエスの名によって祈るとき、求めるもの、願うものが与えられて、大感謝をすることができる。
涙を流した信者の方をそのまま帰してはいけない。話をし、聖書を開いて読み、共に異言で霊の祈りをし,讃美をすると、笑顔になる。喜び、活かされ、感謝をすることが大切である。「また、来ます!」と喜んで帰って行かれる。ハレルヤだ!
此の故に我ら主イエスによりて常に讃美の供え物を神に献ぐべし、乃ちその御名を頌(ほ)むる口唇(くちびる)の果(み)なり -へブル13:14-