道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2015年08月

          P1020902_e

 
 
神はその大能をキリストのうちに働かせて、これを死人の中より甦へらせ、天の所にて己の右に坐せしめ、もろもろの政治・権威・能力・支配また啻(ただ)に此の世のみならず、來らんとする世にも称ふる凡ての名の上に置き、萬(よろず)の物をその足の下に服はせ、彼を萬の物の上に首(かしら)として教会に與へ給へり。この教会は彼の體にして萬の物をもて萬の物に満し給ふ者の満つる所なり -エペソ120~23-

エペソ書は教会に関わることが数多く書かれている。

神は、主イエス・キリストによりて、私たちに霊の諸々の祝福を与えんとして、この世の中より選び、全き救いの道を開き、水と霊のバプテスマを受けるによって、その血により贖われ、一切の罪が許され、神の子としてくださった。これは世の創の先から予め定められたことである。

汝等もキリストに在りて眞の言(ことば)、すなはち汝らの救の福音をきき、彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり。これは我らが受くべき嗣業の保証にして、神に属けるものの贖われ、かつ神の榮光に譽あらん爲なり。 -13,14節-

主イエス・キリストは、私たちの為に死なれたが、死人の中から復活し、活ける神として天の所から教会を霊肉ともに大いに祝福し、いつも教会の上に恵みを注ぎ、牧師も兄弟姉妹も共に喜び感謝し、祈りの家なる教会に集って主を崇め、讃美と感謝をささげている。この主の恵みに如何にして応えようか、それは、ただ水と霊の福音を隣人に宣伝えるのみ。これこそ主の求め給うこと、救霊の為に勇み励んでいこうと思う次第です。

首はキリスト、體は教会。主なるキリストに従って福音を宣伝えて行きましょう!

           P1010194

 
われら四方より患難を受くれども窮せず、為ん方つくれども希望を失はず、責めらるれども棄てられず、倒さるれども亡びず、常にイエスの死を我らの身に負ふ。これイエスの生命の我らの身にあらはれん為なり。 -コリント後4:8~10-

いつも復活の主イエス・キリストを見上げる人は、世の様々な出来事に振り回されることがない。困難な問題に取り囲まれていても、信仰者の目は、天におられる主に注がれていて、必ずや上からの助けがあることを知っている。

信仰の霊をもつ者は幸いである。主はその人の助け主となってくださるからである。

我らが外なる人は壊(やぶ)るれども、内なる人は日々に新なり。それ我らが受くる暫くの軽き患難は極めて大いなる永遠(とこしへ)の重き光榮を得しむるなり。我らの顧みる所は見ゆる者にあらで見えぬ者なればなり。見ゆる者は暫時(しばらく)にして視えぬ者は永遠に至るなり。 -16~18-

それ信仰は望むところを確信し、見ぬ物を眞實(まこと)とするなり。 -へブル11:1-

イエス言ひ給ふ 『なんぢ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福(さいはひ)なり』 -ヨハネ20:29-

 見ゆる所によらず、信仰によりて歩めばなり。
 
-5:7-

         P1020890a



8月16日に合同喜霊祭を行いました。

お身内に生涯を共にして、水と霊の救いを受けた後に、天に召された方々や、身代わり洗礼によって、救いを得た方々の為に、毎年恒例として行っています。

今年も、兄弟姉妹が集って、天に在る聖徒方と地に在る我らとが、共に救い主であるイエス・キリストを誉め称える讃美と祈りの時を持ちました。

          ハレルヤ歌える 聖き城(まち)にて
          御使いと共に 集うたのしさ
          天のエルサレムは ここに天下り
          我らの幕屋に 主イエス迎えぬ
                
霊讃歌62 祖先祭 1節

            P1020886a 

                     













           P1020874aa
 


マサの王レムエルが母から受けた教えが雅歌31:1~9に記されている。

その名レムエルとは、「神に向かう」の意であるという。信仰篤い母は、息子が絶えず心を神に向けて生きて欲しいと願い祈って名付けたことであろう。

母は、王となった息子を諭して言った。

1.力を女についやすなかれ

わが子よ 何を言んか わが胎(はら)の子よ 何をいはんか 我が願ひて得たる子よ 何をいはんか なんぢの力を 女につひやすなかれ 王を滅ぼすものに 汝の途をまかする勿れ -1~3-

母は、愛する息子が女に迷い、放縦に流れ、浮名を世に晒し、国政をないがしろにしてはならないと誡めた。

王という権威に就く者は、何物をも手に取り易い地位にあった。

ダビデ王は、バテシバの美しさに迷い、己の妻にしようとして、夫ウリヤを戦場に送り、敵の手によって討死させ、妻としたが罪を得た。払う代償は大ではないか。

ソロモン王は、イスラエルの王朝の絶頂を極め、富と智慧とを持ち、壮大な神殿を築いたが、その一方で700人の王妃と300人の側室がいた。その多くは異邦人で偶像教徒であった。妻たちは彼の心を迷わせ、他の神々に向かわせたのである。その結果、祝福を失い、彼の息子レハベアムの時代に、王国は分裂し、南のユダと北のイスラエルに分かれ、その果てはバビロンの捕囚となったのである。

2.酒を飲むは王の為すべき事に非ず

レムエルよ 酒を飲むは王の為すべき事に非ず 王の為すべき事にあらず 醇醪(こきさけ)を求むるは牧伯(きみ)の為すべき事にあらず 恐らくは酒を飲みて律法(おきて)をわすれ 且すべて悩むまさるゝ者の審判(さばき)を枉(まげ)ん 醇醪を亡びんとする者にあたへ 酒を心の傷(いた)める者にあたへよ かれ飲みてその貧窮(まずしき)をわすれ 復その苦楚(なやみ)を憶はざるべし -4~7-

私事であるが、和酒・洋酒に限らず、酒を飲まない。その方での出費はゼロである。これは戒律ではなく、自由な意志である。一般社会の冠婚葬祭に出席して、酒席が設けらる場合も、一切口にはしない。

牧師もそうだが、教師、裁判官、公務員など公に仕える人は似かよったところがある。苟も人を教え、指導する立場にある人が、酒に酔って道を違えるならば、社会から大きな非難を受けるのは当然なことで、それではその職に仕える者たり得ない。

いつも目を主に向け、置かれている立場を考え、証のある人生を歩むのが本筋である。

酒に酔ふな、放蕩はその中にあり、寧ろ御霊に満され、詩と讃美と霊の歌とをもて語り合ひ、また主に向ひて心より且うたひ、かつ讃美せよ。凡ての事に就きて常に我らの主イエス・キリストの名によりて父なる神に感謝し、キリストを畏みて互に服へ。 -エペソ5:18~21-

3.貧しき者と窮乏者の訴えを糺せ

なんぢ瘖者(おふし)のため又すべての孤者(みなしご)の訟(うたへ)のために口をひらけ なんぢ口をひらきて義しき審判(さばき)をなし貧者(まづしきもの)と窮乏者(ともしきもの)の訟を糺せ -8,9-
 
王にとって大切な事は、人を見て裁きをなさず、大なる人に対しても、小なる人に対しても何ら差別なく、公平に目を向け、耳を傾け、理に従って裁きを為すべきだと教えた。

  ☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;

賢 い 妻

10節から31節までは、アルファベットによる詩である。

誰か賢い女を見出すことを得んその價(あたひ)は真珠よりも貴とし その夫の心は彼を恃みその産業は乏しくならじ 彼が存命(ながら)ふる間はその夫に善事をなし悪き事をなさず -10~12-

以下、誠に婦人の鑑と言える価値ある婦人像が記されている。夫婦相和して含蓄あるこの聖書の聖句を読まれるようにお勧め致します。

子をその道に從いて教へよ 然らばその老たる時も之を離れじ -箴言22:6-




         File0152_e 
                山頂でエリヤが祈った カルメル山
 
         

汝ら何時まで二つの物の間にまようや ヱホバ若し神ならば之に從へ        -列王紀略上18:21-

イスラエルの王アハブは、異邦人のイゼベルを妻に迎え、その勧めに従ってバアルを拝み、アシラ像を作って拝んだ。偶像に仕えることは、真の神ヱホバ(イエス)の最も忌み嫌うことであった。

預言者エリヤは、敢然とアハブに立ち向かい、預言して言う 「数年雨降らざるべし」と。

3年6ヵ月の間、干天が続く。 エリヤは、ケリテ川の水を飲み、鴉がパンと肉とを朝夕運んでくれた。

川の水が涸れると、神はエリヤにザレパテに行け、私は未亡人に命じてお前を養わせると言われた。彼が行くと、一人の未亡人が薪を拾っていた。これで最後のパンを焼き、子供と死ぬところだという。

エリヤは言った。パンを三つ作って、最初に焼いたのを私に与よと。そうすれば、神が地に雨を降らす日まで、桶の粉は尽きず、瓶の油は絶えないと。彼女は、預言者によって神が言われた通りにした。三人は久しくパンを食べた。

多くの日が過ぎて3年目に、神はエリヤに言われた。「アハブと会え」と。

時に飢饉が激しくなったので、アハブは家宰(いえづかさ)のオバデヤと、手分けして家畜のために水を求めて出かけた。するとオバデヤが道でエリヤに出会った。 エリヤは言った。主人のアハブに会わせよと。そして、エリヤはアハブに会うに至った。

エリヤはアハブに言った。イスラエルの凡ての人々と、バアルの預言者450人と、アシラ像の預言者400人をカルメル山に集め、我に詣(いた)らしめよと。

皆がカルメル山に集まった時、エリヤは凡ての民に言った。「汝ら何時まで二つの物の間に迷うやヱホバ若し神ならば之に從へ」と。民は一言も答えなかった。

では、見せてやろう。どちらが本当の神かを!

エリヤは言った。壇を築き、薪を積み、上に生贄の犢(こうし)を載せて、火を放たずにおけ、斯して汝等は汝等の神の名を龥(よ)べ 我はヱホバの名を龥(よば)ん 而して火をもて應(こたふ)る神を神と為すべしと-24節-

そして、バアルとアシラの預言者850人に、先に祈れと言った。そこで彼らは束になって神の名を呼んで祈ったが、幾ら祈っても火は降らなかった。エリヤが嘲ると、彼らは狂気のようになり、刀をもって身を傷つけ、苦行の祈りをしたが、何の声もなく何の応えもなかった。

次は、エリヤの番である。崩れた壇を築き直し、薪を積み、燔祭の犢を載せ、周囲に溝を掘り、水を汲んでたっぷりと掛け、溝に満ちるほどにした。

その上で、エリヤは神ヱホバの名を龥んで祈ると、神は天から火を降して燔祭と薪と石と塵とを焚(やき)つくし、水を吸涸せたのである。

真の神はどなたであるか一目瞭然だった。そして、偶像教の預言者たちは、悉く捕えられて粛清されたのである。

その後、エリヤはカルメル山の頂きに立ち、雨が降るように祈った。七たび祈るに及んで、手程の雲が起り、次いで大きくなり、大雨が降った。 それは祝福の雨であった。

付記するが、上記の出来事は主の兄弟ヤコブによって斯く記され、信仰の祈り、特に神癒の祈りの規範として、教会で用いられている大切な聖言である。

汝等のうち苦しむ者あるか、その人、祈せよ。喜ぶ者あるか、その人、讃美せよ。汝等のうち病める者あるか、その人、教会の長老たちを招け。彼らは主の名により其の人に油をぬりて祈るべし。さらば信仰の祈りは病める者を救はん、主かれを起し給はん、もし罪を犯しし事あらば赦されん、この故に互に罪を言ひ表し、かつ癒されんために相互に祈れ、正しき人の祈りははたらきて大なる力あり。エリヤは我らと同じ情をもてる人なるに、雨降らざることを切に祈りしかば、三年六个月のあひだ地に雨降らざりき。斯て再び祈りたれば、天雨を降らし、地その果を生ぜり。           -ヤコブ5:13~18-

 ☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆;+;。・゚・。;+;☆

バプテスマのヨハネのことば

我は汝らの悔改のために、水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力(ちから)あり、我はその鞋をとるにも足らず、彼は聖霊と火とにて汝らにバプテスマを施さん。手には箕(み)を持ちて禾場をきよめその麥は倉に納め、殻は消えぬ火にて焼きつくさん -マタイ3:11,12-

このページのトップヘ