道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2015年10月

          File0161 オリブ山
                         オリブ山

 
復活された主イエス・キリストが天に昇り給うたとき、弟子たちが天を見上げていると、二人の御使いが傍らに立って言いました。

『ガリラヤの人々よ、何ゆゑ天を仰ぎて立つか、汝らを離れて天に擧げられ給ひし此のイエスは、汝らが天に昇りゆくを見たるその如く復きたり給はん』と。 -使徒行伝1:11-

キリストの再臨は、私たちクリスチャンの希望であります.   

その日には、「それ主は、號令(ごうれい)と御使の長(をさ)の聲(こゑ)と神のラッパと共に、みづから天より降り給はん。その時キリストにある死人まず甦へり、後に生きて在(のこ)れる我らは彼らと共に雲のうちに取り去られ、空中にて主を迎へ、斯ていつまでも主と偕に居るべし」と記された如くになるのです。 -テサロニケ前4:16,17-

水と霊とのバプテスマを受けて救われた者は、キリストによって罪赦され、聖霊により印せられた者である故に、天に移され、この日、目を以て救い主である主イエス・キリストを拝し、大いなる感謝と讃美をささげることができるのです。

しかし、一方、救いを等閑(なおざり)にして、キリストに敵し、不信を貫いた者にとっては、審きの日となり、一人だに逃れることはできません。

主は、再臨の日に就いて、ノアの日の洪水が突然人々を襲った事を例に挙げて、こう言われました。

「その日その時を知る者なし。天の使たちも知らず子も知らず、ただ父のみ知り給ふ。・・・その時ふたりの男、畑にをらんに、一人は取られ、一人は遺されん。二人の女、磨碾(うすひ)きをらんに、一人は取られ、一人は遺されん。されば目を覚ましをれ、汝らの主のきたるは、何れの日なるかを知らざればなり」 -マタイ24:40~42-

何時、新郎(はなむこ)なる主が来られても良いように目を覚まし、信仰の灯火が消えぬよう、聖霊の油を備えて置くことが大切です。 -同25:1~12-

た主その約束を果たすに遅きは、或人の遅しと思ふが如きにあらず、ただ一人の亡ぶるをも望み給はず、凡ての人の悔改に至らんことを望みて、汝らを永く忍び給ふなり。 -ペテロ後3:9-

と主は忍耐しておられます。故に速やかに主の救いを受けられますよう願うのです。

また救いは「異邦人の入り来りて数満つるに及ぶ時までなり」とあります。異邦人の救いは員数が定められていて、その員数が満ちた時に主が地上再臨をされ、イスラエル人が救われるとあります。ゆえに異邦人伝道をすることは主の再臨を促進する事であり、私たちの使命であります。 -ロマ11章-

御國のこの福音は、もろもろの人々に證をなさんため全世界に宣傳へられん。而して後、終りは至るべし。 -マタイ24:14-

視よ今は惠のとき、視よ今は救の日なり 
-コリント後6:2-

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 我よりも父または母を愛する者は、我に相應(ふさは)しからず、我よりも息子または娘を愛する者は我に相應しからず、又おのが十字架をとりて我に従はぬ者は、我に相應しからず、生命(いのち)を得る者は、これを失ひ、我がために生命を失ふ者は、これを得べし。 -マタイ10:37~39-   

主は、私たちに対して尋ねておられます。「あなたはどれ程、私を愛していますか?」と。

主は、罪人であった私たちのために十字架に懸かり、死をもって私たちを愛していることを示してくださいました。それは100%の愛でした。私たちも主に対して100%の愛を持っていることを示さねばなりません。

ある人がクリスチャンになろうとする時に、最大の反対者はは家族であることが多いのです、多くの場合、宗教問題がからんできます。「家は先祖伝来の〇〇教なのに、キリスト教など信ずるとは何事か!ご先祖様に申し訳がたたぬ」と言われて、腰砕けになってしまう人もいるでしょう。これでは本当の信仰とは言えませんね。

主によって救われた者は、主の側に立って、家族のために祈り、伝道し、導くほどの気概ある信仰を持って欲しいものです。そうすれば、勝利者となることができるでしょう。

この世の何ものにも勝って、主を愛し、主に從う者となるのが最高の道です。


爰にイエス弟子たちに言ひたまふ『 人もし我に従ひ来らんと思はば、己をすて、己が十字架を負ひて、我に従へ。己が生命を救はんと思ふ者は、これを失ひ、我がために、己の生命をうしなふ者は、之を得べし。人、全世界を臝(まう)くとも、己が生命を損せば、何の益あらん、又その生命の代(しろ)に何を與へんや。』 -同16:24~26-

主が、御自身の受難を預言された時、ペテロは 『主よ、然あらざれ、此の事なんぢに起らざるべし』 と言ました。すると主は、きっとなって、ペテロに向い『サタンよ、我が後に退け、汝はわが躓物(つまづき)なり、汝は神のことを思はず、反って人のことを思ふ』と言われました。ペテロが人間的な肉の心をもって、神が定め給うた救いの業を為しとげるために、受難への道を進もうと心を定めた主の決意を妨げるのはサタン来の思いだと誡められたのです。

そして、主に従う者もまた、各自、己に与えられた十字架を背負って主の御後に從うべきだと諭されたのです。


「視よ、われら一切をすてて汝に従へり、然らば何を得べきか」 -同19:27
これは、ペテロの主に対する問いです。

その直前に、一つの出来事がありました。

一人の金持ちの若者が主の許に来て『師よ、われ永遠(とこしへ)の生命をうる為には如何なる善き事を為すべきか』と言いました。主が「神の誡命(いましめ)を守りなさい」と言うと、彼は「全部守っています、他に何か足らぬことがありますか、」と答えました。そこで主が、「あなたの持物を全部売って貧しい人に施しなさい。そうすれば、宝を天に得ます。その上で来て我に従いなさい」 と言われました。すると彼は悲しみつつ去って行きました。大なる資産を持っていたからです。

主は、歎じて弟子たちに言われました
『富める者の天國に入るは難し』と、また『富める者の神の國に入るよりは、駱駝(らくだ)の針の孔を通るかた反って易し』と。

弟子たちが驚いて『さらば誰か救はるることを得ん』と言いうと、主は答えて『これは人には能はねど神には凡ての事をなし得るなり』と答えられました。私たちにとって、神に向かい、人が救われるように祈ることが大切だと教えておられます。

さて、ペテロの問いに、主は何と答えられたでしょうか。

『まことに汝らに告ぐ、世あらたまりて人の子その榮光の座位(くらい)に坐するとき、我に従える汝等もまた十二の座位に坐してイスラエルの十二に族(やから)を審かん。また凡そ我が名のために或いは家、或いは兄弟、あるひは姉妹、あるひは父、或ひは母、或ひは子、或は田畑を棄つる者は数倍を受け、また永遠の生命を嗣がん。然れど多くの先なる者後に、後なる者先になるべし』 -同19:28~30-

斯く善き報いの有ることを主は約束されているのです。主に従って善きものを頂きましょう。 ハレルヤ!

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     我十字架をとらん

      1.我十字架をとらん 全てを捨てて
        あざけり ののしり 身に迫るとも

      (折り返し)
        世はみな捨つとも 恵みによりて
        血を流せる主に 我は從わん

      2.3.4.5. 略

      6.ああ誰か害わん 愛におる身を
        ああ誰か奪い得ん この喜びを

  霊讃歌がまだ無かった若き日、熱い血をたぎらせ、力一杯声を張り上げて歌った讃美です。
  出典は不明です。

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我は羊の門なり。 -ヨハネ10:7-

私たちの大牧者は、主イエス・キリストです。水と霊とのバプテスマを受けて救われた者は皆、門の中に入って主の御手の中に守られています。そこが教会です。

水と霊は、救いの関門です。これを経て教会に入った一人一人と主は共にいて、守り支えて下さいます。

今週も、教会で救いの業がなされました。副牧師の伝道によって、小樽港に入港していた船から3人のロシア人が導かれてきました。

そのうち一人は、ムスリムの人で救いを受けませんでしたが、他のウラジオストックとウスリーから来た二人の人たちは、素直に私たちの勧めに従い聖霊を求めて祈り、聖霊を受けるやいなや異言の祈りを主にささげ感謝していました。

続いて、洗礼式場で水に入り、主イエス・キリストの御名による洗礼を受け、次いで洗足を受けて救いを全うしました。

帰り際に、ウラジオストックから来たA兄弟が、「フショウ・ハラショウ!」(すべて素晴らしい!)と言いました。

副牧師が車で小樽の船まで送って別れる時、この兄弟が流暢な日本語で副牧師の名前を言い、「 Y先生、ありがとうございました」 と礼を言ったので、長い間ロシア人伝道をしてきて初めてのことで、驚いたと証をしていました。

我は善き牧者(ひつじかひ)なり、善き牧者は羊のために生命を捨つ。 -同10:11-

私たちのために十字架にかかり、罪の贖いを為して救ってくださったイエス・キリストのお蔭で私たちは救われたのですから、私たちも奮い立って伝道していかねばならないと思わされたことです。ハレルヤ!


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