道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2016年03月

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                 エリコ ・ 試練の山

我らが此の地に打いらん時は 汝我らを縋(つり)おろしたりし窓に 此の一條(ひとすじ)の赤い紐を結つけ 且つ汝の父の家の眷族を悉く汝の家に聚(あつ)むべし 
-ヨシュア2:18-

出エジプト後のイスラエルの民は、ヨルダン川の辺に立った。ヨシュアは目の前のエリコの城壁を見上げて、その中の様子を探るべく二人の間者を送り込んだ。

二人は町に入り、遊女ラハブの家に入って寝たが、或人がエリコの王に、間者がラハブの家にいると告げた。そこで使いの者がラハブの家にきたが、ラハブは偽って「二人は来たが、早々に立ち去った。かれらがどこから来て、どこへ行ったかは知らない」と言った。その実、屋根の上に並べていた麻の中に二人を隠したのだった。

王の使いが去ったあと、ラハブは二人の許に行って言った。

「神ヱホバは、この地をあなた方に与えられました。私たちは大変あなた方を怖れています。この地の民は皆あなたがたの前に消え去ることを私は知っています。なぜなら、あなた方がエジプトを出たときに、エホバが紅海の水を分けたことや、旅路の邪魔をした二人の王シホンとオグとを滅ぼしたことを聞きました。私たちはこれを聞いて心怯け、魂は消え失せました。

出エジプトの出来事があってから40年経った。ラハブは、幼い時に周囲の大人たちから、イスラエル人がエジプトを出た時に紅海が二つに分かれ、その間を通ってシナイの地に渡ったことや、追いかけてきたエジプトの軍勢が海の藻屑となって滅んだことなど、劇的な出来事を聞かされていた。そして雲の柱と火の柱に導かれ、時々刻々と荒野を移動し、カナンの地へ、このエリコの町に近づいてくることも知らされて、生ける神だと畏敬の念を抱いていた。

   汝らの神ヱホバは上の天にも 下の地にも神たるなり -11節-

とラハブは言った。

そしてさらに二人に向い、
  
然ば請う我すでに汝らに恩を施したれば 汝らも今ヱホバを指して我が父の家に恩をほどこさんことを誓ひて

   我に眞實(まこと)の記號(しるし)を與へよ
 
又わが父母兄弟姉妹および凡て彼らに属る者をながらへしめ 我らの生命を拯(すく)ひて死を免かれしめんことを誓へよ と言い、二人を城壁の上にある窓から釣りおろした。 -12,13-

二人は、ラハブに向い、「神がこの地を我等に与え給う日、この窓に赤い紐を結い付け、かつあなたの父母や兄弟及び凡ての眷族を家に集めよ」と言った。

ラハブは、二人が去ったあと、その窓に赤い紐を結いつけた。

「赤い紐」とは、主イエス・キリストの血を指し示し、救いを示している。

過越しの血を見る時に、御使いがその家を過越したように、またノアの箱舟に入った者は、洪水から救われたように、窓にある赤い紐は救いのしるしでした。

エリコの城を巡る戦いがはじまり、イスラエルは大勝利を得た。

その日、ヨシュアは間者であった二人に命じて、ラハブの家に行き、その家に集まった凡ての人たちを携え出し、イスラエルの陣営の外に置いたのでした。

信仰に由りて遊女ラハブは平和をもて間者を受けたれば、不従順の者とともに亡びざりき。 -へブル11:31-
 
それのみならず、ラハブは、信仰者としてイエス・キリストの系図の中に入れられたのです。

サルモン、ラハブによりてボアズを生み、ボアズ、ルツによりてオベデを生み、・・・ダビデ王を生めり。 -マタイ1:5,6-










         

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汝等は恩恵(めぐみ)により、信仰によりて救われたり、是おのれに由るにあらず、神の賜物なり。行為(おこなひ)に由るにあらず、これ誇る者のなからむ為なり。 -エペソ2:8,9-

エペソ書5章の前半には、救いの目的に就いて書かれています。

救われる以前の私たちは、空中の権を執る宰である悪魔の霊に從って、この世の習慣を重んじ、神に対して不従順であり、肉慾の欲するままに日を送り、他の不信者同様に神の怒りを蒙る者でありました。

しかし、憐れみ富み給う神は、私たちを愛し、咎によって罪の中に死んだ私たちをキリストに由って、キリストと共に活かし、キリストと共に甦えらせ、キリストと共に天の所に坐せしめてくださいました。

このキリストと共にという所が大切であって、ロマ書6:3~11にあるように、キリスト・イエスに合うバプテスマを受けた者は、その死に合うバプテスマを受け、共に葬られ、共に甦へらせられ、天の所に坐せしめてくださった者であります。

「この大いなる恩恵の富を、来たらんする後の世々に顕わさんとてなり」 と6節にありますが、この「後の世々」とは、私たちにとっては遠い未来を指しているのではありません。パウロの時代から見て「後の世々」なのであって、それから2000年を経た今日、今や後の雨としての聖霊降臨時代、即ち、真の教会が存在する現在、正に今日、私たちは、目の前に顕わされた神の恵みを見、味わい、感謝しているのです。

私たちは、主の救いを恩恵により、かつ信仰に由って与えられました。故に己に由るにあらず、神の賜物である言う事ができます。行為の業によるのではありませんから、誇ることはありません。ただ感謝するのみです。

私たちは、主の福音により、水と霊とのバプテスマを受けて新生した者ですから、それに相応しく、常に喜び、絶えず祈り、凡てのこと感謝し、安息日礼拝を守り、霊讃歌を歌い、聖書の御言葉を読みかつ学び、これを行う者となり、与えられた物の什一を神にお返しし、感謝の捧げ物を捧げ、神の備えてくださった善き業を行い、神を喜ばせ、主の救いを証して、伝道することを第一にして歩むべきであります。
 
主と偕に歩む皆様の上に、主イエス・キリストの恵みと祝福が豊かにありますように。

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「主よ、なんぢ我に五タラントを預けたりしが、視よ、他に五タラントを贏(まう)けたり」 主人いふ「宜いかな、善かつ忠なる僕、なんぢは僅かなる物に忠なりき、我なんぢに多くの物を掌(つかさ)どらせん、汝の主人の歓喜(よろこび)に入れ」 -マタイ25:20,21-

或る富める人が遠くへ旅立ちするに際し、三人の僕を呼んで、己が所有(もちもの)を各々の能力(ちから)に応じて預けました。ある人には五タラントを、或る人には二タラントを、またある人には一タラントを預けて出かけました。

三人は、それぞれ主人から預かったタラントに付いて考え、行動しました。

五タラントを預かった僕は、それを元手にして働き、他に五タラントを儲け、合計十タラントにしました。

二タラントを預かった僕は、それを働かせて、他に二タラントを儲け、四タラントにしました。

しかし、一タラントを預かった僕は、地面に穴を掘って、その銀を隠したのです。

暫くして、主人が旅を終えて帰ってきました。そこで僕たちは、それぞれ預かったタラントを持って主人の許へ来て、精算をしました。

五タラントを預かった人は、儲けの五タラントを合わせて、十タラントを主人に差出し、これは全て主人のタラントです、と言いました。 主人は、大層喜びました。

二タラントを預かった人も、儲けた二タラントを合わせて、四タラントを主人に渡して、これは全て主人のタラントです、と言いました。 主人は、大層喜びました。

最後に、一タラントを預かった人が、地面を掘り起こして、出てきた銀を差し出して、これは主人のタラントですと言いました。

「なぜ、一タラントなのか」 と主人が問うと、「ご主人は厳しい人なので、懼れて地に隠しておきました。これは元々主人のタラントですから、お返しします」と答えました。

主人は、大変に怒って 「悪しく、怠れる僕。それなら、お前に預けず、銀行に預けた方が、利子もついてよかった。無益な僕よ出て行け」 と言いました。

彼の一タラントは、十タラントを儲けた人に与えられました。「すべて有(も)てる人は、与えられて愈々豊ならん。然れど有たぬ者は、その有てる物をも取らるべし」 と主は言われました。 

この富める人とは、主イエス様です。 主は私たち教会に属する者にタラントを与えておられます。 御霊の九つの賜物を与え、働きを為さしめてくださいます。 また福音を宣伝えて、多くの人を救いに導くためにも用いてくださいます。 教会を建設することも然りです。 一人々々に役割を与え、使命を与えてくださっています。 私たちは、喜んで主に仕え、働きたいと思います。

やがて、主が再臨される時に、私たちの働きの業に応じて、報いを受けることになります。

もしもお褒めの言葉をいただいたなら、こう答えることにしましょう。 「われらは無益なる僕なり、爲すべき事を爲したるのみ」と。 -ルカ17:10-

小事に忠なる者は、大事にも忠なり。小事に不忠なる者は、大事にも不忠なり。然らば汝等もし不義の富に忠ならずば、誰か眞の富を汝らに任すべき。また汝等もし人のものに忠ならずば、誰か汝等のものを汝等に與ふべき。 
-ルカ16:10,11-

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おのが富をたのみ財(たから)おほきを誇るもの たれ一人おのが兄弟(はらから)をあがなふことあたはず 之がために贖價(あがなひしろ)を神にさゝげ 之をとこしへに生存(いきながら)へしめて 朽ざらしむることあたはず(霊魂(たましひ)をあがなふには費(つひえ)いとおほくして 此事をとこしへに捨置ざるを得ざればなり) -詩篇46:6~9-

なんじらが先祖より傳はりたる虚しき行状より贖はれしは、銀や金のごとき朽つる物に由るにあらず、瑕なく汚點(しみ)なきキリストの貴き血に由ることを知ればなり 
-ペテロ前1:18,19-

ルツ記には、モアブ生まれの異邦人であるルツが、夫の死後、義母ナオミに「汝の民はわが民汝の神はわが神なり」と信仰を言い表して、ユダの地へ行くところが記されています。

ルツは、そこで生活の糧を得るために、落穂拾いをしようと思い立ち、義母に告げて出かけます。ルツの行った先は、思わず知らず、義父エリメレクの親族であり、贖人の一人であるボアズの麦畑に導かれました。そしてボアズの情けを受けて、多くの落穂を拾って帰ります。

この事を知ったナオミはルツに智慧を授けます。それに從ってルツは、ボアズに贖い人になってくれるように懇願します。ボアズは自分よりも近い贖人がいると告げます。日を経てのち、ボアズはルツの意向を汲む決心をし、そして行動に移しました。

ボアズが贖人を連れて、民の長老たちの立ち会いのもとに話し合いをしました。その結果、相手の人が贖いをキャンセルしましたので、ボアズが贖い人となり、エリメレクの土地や財産を買戻し、ルツを妻に迎えて、家系が絶えないようにしました。

ボアズはキリストの型で、ルツは教会の型です。

イエス・キリストが、私たちのために贖いの代を払ってくださいました。それは金や銀ではなく、はるかに高価な生命を代価として払ってくださったのです。

贖い主なるイエス様に感謝しましょう。讃美しましょう。 ハレルヤ! ハレルヤ!

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