道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2016年04月


  File0179 エルサレム_e

 

聖書に対照的な二つの山がある。一つはシナイ山であり、もう一つはシオンの山である。

シナイ山で、神はモーセの手に十戒を刻んだ石の板を授けた。その時シナイ山は雷鳴と電光と密雲に包まれ、神のラッパの音が高く響き渡り、イスラエルの民は皆恐怖で震えた。

一方、シオンの山はどうであろうか、ここにエルサレムの都が置かれ、ソロモンが神殿が建て、エホバの基はきよき山にありと称えられた所である。 -詩篇87篇-

へブル書12章18節以下には、これら二つの山が出てくる。

シナイ山では、モーセですら「われ甚く怖れ戦けり」と言っている。これは律法の厳しさ怖さ、神の審判を恐れての言葉に他ならない。

だが一方、シオンの山については「汝らの近づきたるはシオンの山、活ける神の都なる天のエルサレム、千萬(ちよろづ)の御使の集会(あつまり)、天に録(しる)されたる長子どもの教会」とある。これは誠に恵み、恩寵、祝福に他ならない。

更に、「萬民の審判主(さばきぬし)なる神、全うせられたる義人の霊魂(たましひ)、新約の仲保(なかだち)なるイエス、及びアベルの血に勝りて物言ふ灑(そそぎ)の血なり」と続く。

今は、新約の時代と言われて久しい。どっぷりと恩寵に浸っている時であるが、同時に心を引き締めてこの救いの何たるかを弁え知らねばならぬ時である。

道央教会での証をすれば、冬の内から毎週連続で洗礼式が行われている。神様が救わるべき方々を教会に送ってくださっているからである。その人々に聖霊待望会をし、主イエス・キリストの御名によりバプテスマを施し、洗足式をし、身代わり洗礼あらば、これも行い、水と霊、水と霊で明け暮れしている。水が冷たかろうがなんであろうが、受ける人は受け、施す者は施している。これは私たちの為すべき務めなので、感謝している。

シナイ山が、神の声で震えたように、全世界は様々な出来事で震え、動揺している。だが、この世界に止まらず、天まで震われるというのだ。それは神が全てを一新するためである。そうであるならば、人はいずこに立つことができようか。

案ずる勿れ、水と霊を受けて神の国に生れた者は、震われることのない国を受けたのだ。感謝して余りある者である。 我ら救いを受けた者は、常に安泰である。なぜなら神が共にいてくださるからである。愈々「水と霊」の福音のために進もうではないか。 ハレルヤ!

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汝ら主にありて其の大能の勢威(いきほひ)に頼りて強かれ。悪魔の術(てだて)
に向ひて立ち得んために、神の武具をもて鎧(よろ)ふべし 
-エペソ6:11-

旧約時代には、イスラエルの民が他の民族と戦った記録が聖書に記されている。また今も国と国が、民族と民族が反目し、憎悪に満たされて、血で血を洗うような戦いが世界の各地で繰り広げられている。

クリスチャンである我らにも戦いがある。だが、我らの戦いが違うところは、血肉と戦うのではなく、この世の暗黒を掌る悪の霊との戦いである。

霊の戦いには、世の宗教が絡むことが多い。それは、偶像の陰にサタンが潜みこみ、神の業を妨害しようとして働くためだが、悪霊は人の目に見えないので、世の人は騙されて、矛先をクリスチャンに向けてくるからである。つい先頃もそうした事で戦いがあった。

パウロは、エペソ書6章において、神の武具の数々を列記した。

誠を帯とし、正義を胸当てとし、平和の福音を靴として履き、信仰の楯をもって悪しき者の火矢を消し、救いの兜を被り、御霊の剣、すなわち神の言葉を執り、更に祈りと願をささげ、御霊による異言の祈りをし、目を覚まして諸聖徒のために祈れ、またパウロ自身が誰憚らず福音を宣教できるように祈れと記した。

これらは皆、肝要なものなので、身に着ける必要がある。

           ♪ 戦いはげしく 終り近づけど
           主に在りて生くる 我はいと安し
           戦わん戦わん 救いのために
           天の軍勢万軍の主 我らの助け
                   霊讃歌75番 霊の戦い 1節  




イエス答へ給ふ 『わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり』                                                                -ヨハネ5:17-

ヨハネ伝福音書第5章を開きましょう。

ここには、癒やしと安息日問題、そしてイエス・キリストの神性に就いて記されています。

エルサレムの羊の門のほとりにぺテスダ(恵みの意)という池がありました。それに沿って五つの廊があり、その内に大勢の病める人たちが伏して、水が動くのを待っていました。 それは、時々御使いが天から降りてきて水を動かし、その時一番先に水に入った人は、どんな病でも癒やされたからだとあります。

そこに38年もの長い間、病で悩む人が置かれていました。

ユダヤ人の祭があって、エルサレムに上られたイエス様がこの場所にやってこられて、この人に目をとめ、「あなたは、癒えんことを願いますか」と声をかけられました。

「主よ、水が動くとき、私を水に入れる人はおりません。私が入ろうとしている間に他の人が先に入ってしまうのです」と、その人は言いました。

すると、イエス様は 「起きよ、床を取りあげて歩め」 と言われました。すると、彼はすぐに癒やされて、床を取り上げて歩いたのです。

素晴らしい奇蹟がおきました。彼は小躍りせんばかりに喜んび、周囲の人たちも唖然としてこの光景を眺めました。

ところが、その日は安息日だったので、頭の固いユダヤ人が、癒やされた人に向い 「今日は安息日だぞ、床を取り上げるべきではない」 と言いました。彼が「床を取り上げて歩めという人がいたので、その通りにしたら癒えたのです」と答えると、「誰だ、その人とは」と、彼らは犯人探しのように言いました。だが彼は、イエス様がさっとその場を立ち去ったので、自分を癒やした人が誰なのか知らなかったのです。

ユダヤ人の律法主義者たちは、モーセの律法を戒律と考え、これを破る者は、みな犯罪者だと定めていました。そこには、慈悲もなく、情けもなく、愛の欠片すらなかったのです。

イエス様は、パリサイ人に譬えをもって語り 「安息日に羊が穴に落ちたら、取り上げないのか、人は羊より勝ること如何ばかりか。さらば安息日に善をなすはよし」と言われました。 
-マタイ12:11,12-

その後、イエス様は、かの癒やされた人に偶って、御自身を表したので、彼はユダヤ人に行って、自分を癒やしたのは主イエスであると告げました。ここでユダヤ人は主に詰め寄って、安息日に癒しを為すとは何事かと言って責めました。

その時の主の答えが「わが父は今にいたるまで働き給う、我もまた働くなり」でした。

主なる神、イエス・キリストは、昔も今も変わりなく、昼夜を問わず、御前に祈りを捧げる選民の為に働いておられます。この丸い地球のあらゆる所で捧げられる祈りの声に耳を傾け、主は休むことなくそれに応えておられます。

主が、神を「わが父」と言い、ご自身を神と等しい者になされたことは、ユダヤ人にとって神を冒瀆する言葉と受け取られ、「生かしておけぬ」と憎悪の対象となったのです。これが後に、十字架にかけられる理由となったのです。

しかし、主が言われた言葉は真実であって、「我をおくり給ひし父も、我につきて證し給へり」と言われた通りです。 
-37節- そしてまた、私たちの上に為されている祝福の如何に大なることか、これ皆、神の御業、イエス様の御業と言わずして何と言えるでしょうか。

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我ヱホバの前に何をもちて高き神を拝せん 燔祭の物および當歳の犢(こうし)をもてその御前にいたるべきか  ヱホバ数千の牡羊萬流の油を悦びたまはんか 我愆(とが)のためにわが長子を献げんか 我霊魂(たましい)の罪のために我実の産を献げんか 人よ彼さきに善事の何なるを汝に告たり ヱホバの汝に求めたまふ事は唯正義を行ひ憐憫を愛し謙遜りて汝の神とともに歩む事ならずや 
-ミカ6:6~8-

神に近づき神を喜ばせる一番良い方法は、どのようにすれば良いのだろうか、何を献げれば喜んで頂けるのだろうか。それに解答を与える御言葉である。

サムエル前書8章を読むと、サムエルの許にイスラエルの民がきて「他の国のように王を立てて欲しい」と再三言ったと記されている。サムエルが「イスラエルの王は神であるから、人の王はいらない」と答えた。そして神に祈ると「民は神を棄てたのだ、だから深く諌めて王を立てよ」とのお告げであった。こうして、神と民とに選ばれたサウルが、サムエルによって油注がれイスラエルの王となった。

サムエルは、7日後にギルガルで王国を祝い、燔祭と酬恩祭を行うと言った。サウロと民は一足早くギルガルへ行った。その間にぺリシテ人の大軍がイスラエルに戦いを挑んできた。イスラエルに武器はなく、サウロとヨナタンのみ剣を持っていた。戦いは苦戦となり、民は逃げまどい散っていった。

サウルは、サムエルがまだ来ず、戦況が捗々しくなかったので、神に取り入ろうとして自ら燔祭を献げた。これは祭司のなすべきことであって、王の為すことではなく、彼は神聖な領域に踏み込む越権行為を行ったのである。

サウルが燔祭を献げ終わった直後に、サムエルがギルガルに到着した。サムエルは事の次第を知って烈火のごとくに怒り、サウロに言った。「汝おろかなることをなせり 汝その神ヱホバのなんぢに命じたまひし命令を守らざりしなり 若し守りしならばヱホバ、イスラエルををさむる位を永く汝に定めたまひしならん 然どもいま汝の位たもたざるべし ヱホバ其心に適ふ人を求めてヱホバ之に其民の長を命じたまへり 汝がエホバの命ぜしことを守らざりしによる」と。 -13:13,14- こうして、サウルは王の器にあらずとして棄てられ、王位は後にダビデに移ることになった。

その後、サムエルはサウルに言った。「今ゆきてアマレクを撃て」と。その昔、アマレク人は、モーセとイスラエル人に敵して、エジプトからの進軍を妨げたのである。それ故に「アマレク人の持てる物をことごとく滅ぼし尽せ、男女、大人・子供の区別なく、人も牛も羊も駱駝もロバも皆殺せ」と命じた。

サウルは出て行ってアマレクと戦い、滅ぼしたが、アガク王を生け捕りにし、家畜のうち最も良い物を選んで連れ帰り、彼の判断で勝利品として神に献げようとしたのである。神は怒り、その言葉がサムエルに臨んだ。

ヱホバはその言(ことば)にしたがふ事を善(よみ)したまふごとく燔祭と犠牲(いえにへ)とを善したまふや 夫れ順ふ事は犠牲にまさり 聴く事は牡羔(をひつじ)の脂にまさるなり そは違逆(そむくこと)は魔術の罪のごとく 抗戻(さからふこと)は虚しき物につかふる如く 偶像につかふるがごとし 汝ヱホバの言を棄てたるによりて ヱホバもまた汝をすてゝ王たらざらしめたまふ と  
-15:22,23-

神の御命令には、即従うことが大切である。
初代監督 村井じゅん先生は、「私は従うことにかけては 天下一品」 と言っておられた。
そして、私たちにも主に従うところに祝福があると身を以て教えてくださった。
この道を歩む者は幸いである。

       ♪ 從うことは 羔羊の 脂に優って喜ばる
        ハレルヤ歌いつ祈りつつ 導かるるまま進み行かん
        昇れよ上れよ鷲のごと 翼を張りて舞い翔けらん
        ハレルヤハレルヤ エルの神 御国の空は晴れ渡る
                                                         =霊讃歌156番 3節=

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兄弟よ、なんぢらはイサクのごとく約束の子なり。然るに其の時、肉によりて生れし者、御霊によりて生れし者を責めしごとく今なほ然り。されど聖書は何と云へるか 『婢女(はしため)とその子とを逐ひいだせ、婢女の子は自主の女の子と共に業を嗣ぐべからず』 とあり。されば兄弟よ、われらは婢女の子ならず、自主の女の子なり。 
-ガラテヤ4:28~31-

アブラハムに二人の子がいた。一人は婢女ハガルより生れたイシマエルであり、もう一人は自主の女サラから生まれたイサクである。婢女の女の子は肉によって生まれ、自主の女の子は約束によって生れた。

この中に譬えがあり、二人の女は二つの契約であって、その一つはシナイ山から出た律法であり、罪の奴隷を生んだ。これがハガルであり、今のエルサレムにあたる。

もう一つの契約は、主イエス・キリストによって与えられた新しい契約であり、上なるエルサレムである。これは自主であり、約束の子を多く生んだ。

我らは、約束の御霊を受けて神の子とされ「アバ父」と呼ばしめられる身となったのである。

これアブラハムの受けたる祝福のイエス・キリストによりて異邦人におよび、且われらが信仰に由りて約束の御霊を受けん為なり。
 -3:14-

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