聖書に対照的な二つの山がある。一つはシナイ山であり、もう一つはシオンの山である。
シナイ山で、神はモーセの手に十戒を刻んだ石の板を授けた。その時シナイ山は雷鳴と電光と密雲に包まれ、神のラッパの音が高く響き渡り、イスラエルの民は皆恐怖で震えた。
一方、シオンの山はどうであろうか、ここにエルサレムの都が置かれ、ソロモンが神殿が建て、エホバの基はきよき山にありと称えられた所である。 -詩篇87篇-
へブル書12章18節以下には、これら二つの山が出てくる。
シナイ山では、モーセですら「われ甚く怖れ戦けり」と言っている。これは律法の厳しさ怖さ、神の審判を恐れての言葉に他ならない。
だが一方、シオンの山については「汝らの近づきたるはシオンの山、活ける神の都なる天のエルサレム、千萬(ちよろづ)の御使の集会(あつまり)、天に録(しる)されたる長子どもの教会」とある。これは誠に恵み、恩寵、祝福に他ならない。
更に、「萬民の審判主(さばきぬし)なる神、全うせられたる義人の霊魂(たましひ)、新約の仲保(なかだち)なるイエス、及びアベルの血に勝りて物言ふ灑(そそぎ)の血なり」と続く。
今は、新約の時代と言われて久しい。どっぷりと恩寵に浸っている時であるが、同時に心を引き締めてこの救いの何たるかを弁え知らねばならぬ時である。
道央教会での証をすれば、冬の内から毎週連続で洗礼式が行われている。神様が救わるべき方々を教会に送ってくださっているからである。その人々に聖霊待望会をし、主イエス・キリストの御名によりバプテスマを施し、洗足式をし、身代わり洗礼あらば、これも行い、水と霊、水と霊で明け暮れしている。水が冷たかろうがなんであろうが、受ける人は受け、施す者は施している。これは私たちの為すべき務めなので、感謝している。
シナイ山が、神の声で震えたように、全世界は様々な出来事で震え、動揺している。だが、この世界に止まらず、天まで震われるというのだ。それは神が全てを一新するためである。そうであるならば、人はいずこに立つことができようか。
案ずる勿れ、水と霊を受けて神の国に生れた者は、震われることのない国を受けたのだ。感謝して余りある者である。 我ら救いを受けた者は、常に安泰である。なぜなら神が共にいてくださるからである。愈々「水と霊」の福音のために進もうではないか。 ハレルヤ!