道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2016年05月

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神の人・・・枝を切り落として其処に投入れてその斧を浮かしめ 汝これを取れと言ければ その人手を伸べてこれを取れり 
-列王下6:1~7-

預言者の生徒がエリシヤの許に来て言った。「ごらんください。私たちの住む所は、私たちにとって狭くなりました。そこでお願いがあるのですが、私たちをヨルダンに往かせて、そこの材木を取って、そこに私たちの住むべき建物を建てさせてください」と、エリシヤが 「行きなさい」 と答えると、一人が 「先生も一緒に行ってください」 と頼んだので、「では、私も行こう」 と言って同行した。

ヨルダン川の辺は、肥沃な土地で、樹木が沢山あった。預言者たちは銘々用意した道具をもって木を切り倒した。

所が、そのうちの一人が、木を切り倒そうとした弾みに、手にしていた斧がすっぽ抜けて、ヨルダン川の中に落ちてしまった。彼は大声で 「大変だ!あゝ主よ、これは借り物です!」 と叫んだ。

エリシヤが 「斧はどこに落ちたのか?」 と尋ねると、彼は 「あの辺です」 と指差した。 川は濁っていて底は見えなかった。

だが、エリシヤが、一本の木の枝を切り取って、川の中に投入れると、不思議や斧が浮かび上がってきたではないか。奇蹟だ!あの重い鉄の斧が水面に浮いたのである。 「さあ、取りなさい」と 言うと、彼は手を伸ばして斧を取った。 神のお蔭で一件落着となった。感謝!!

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これに似た出来事が、出エジプト記16:22~25に書かれている。

シュルの荒野を歩いていたイスラエルの民は、三日間水がなかった。もう限界だと思った時、水があった。しかしその水は苦くて飲めなかった。そこでその地はメラ(苦い)と名付けられた。

民はモーセに何を飲ませるのかと迫った。モーセが神に呼ばわると、一本の木が示されたので、これを水に投げれると、なんと甘くなったのである。

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その木とは何か? いな誰か? 言うまでもなくイエス・キリストであり、十字架である。 人には為し能わねど、神には全てのこと為し得らるるなりと、どれ程難しい問題であっても、私たちの内にイエス・キリストが入って下されば、解決されぬことはなく、為し得ぬことは一つもないのである。救いと信仰が大切な訳がここにある。

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我は努めて他人の置(す)ゑたる基礎(もとい)の上に建てじとて未だキリストの御名の称へられぬところにのみ福音を宣伝へたり。録して 『未だ彼のことを伝へられざりし者は見、いまだ聞かざりし者は悟るべし』 とあるが如し。 -ロマ15:20,21-

世界は広く、まだイエス・キリストの福音が伝えられていないところは多い。そこには、様々な問題で悩み苦しんでいる人たちが大勢いることだと思う。

異邦人伝道の使徒パウロが、アテネを訪ねて伝道したとき、ギリシャ神話と哲学に満ちたこの町を見て憤りを感じ、福音を語った。 -使徒行伝17章-

町の人たちから「この囀る(さへず)る者何を言はんとするか」と言われ、「かれは異なる神々を伝ふる者の如し」とも言われた。それはパウロが、イエスと復活を語ったゆえである。遂には彼をアレオパゴスに連れて行き、この新しい教えの何たるかを聞こうとした。

福音を語るチャンスが巡ってきた。パウロは眞の神について語り、主の復活により救いの保証として御霊が与えられると証をし、その結果、主イエスを篤く信ずる者が出てきたという。

私たち道央教会も、未伝道地であるロシア語圏の国に水と霊の福音を宣伝える使命を感じ、祈りの中に準備を始めました。御加祷を御願いする次第です。

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感謝!

ハレルヤ
陽子副牧師の姉である、大地教会国本照子牧師が5月8日に札幌の病院で主の御許に召されました。
6年前に。四国の高松で脳内出血で倒れ、札幌に搬送し、手厚い看護を受けてきました。
告別式は、5月10日に監督三戸先生の司式によって道央教会で行われました。多くの先生方のお祈りと弔辞、弔電を賜りましたことを感謝申し上げます。

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我等はキリストの賜物の量(はかり)に随ひて、おのおの恩恵(めぐみ)を賜はりたり。 -エペソ4:7-

我等の神は、個人においても、教会においても恵み給う神であります。 天に蓄えてある霊の豊かな富を、祈り求める時に、惜しみなく与えて下さいますから感謝です。

天性の才能を持ち合わせている方もおります。それも神の前に捧げる時、聖別されて尊きに用いられてまいります。

キリストの賜物の量とあります。主が御自身の栄光を顕わすために、個人に対し、或いは教会に対して「これこれの事をせよ」と示される時、それに応じて必要なものを添えて与えてくださいます。そこに神からの証というものが生じてまいります。

神の御霊をうけている我等は、人よりの物ではなく、神よりの物を頂かなければ、満足致しません。正しく上からの霊の物を戴けるのは最高の事です。

活かすものは霊なり、肉は益する所なし、わが汝らに語りし言(こと)は、霊なり生命なり。
 -ヨハネ6:63-

また、受けるのみではなく、「汝ら去りて肥たる者を食ひ甘き者を飲め 而してその備をなし得ざる者に分ちおくれ」と、周囲の方々に、この恵みを伝えることは、我等の使命であります。
 -ネヘミヤ8:10-

日々、命の糧である聖書の御言葉を戴き、異言の祈りを捧げ、霊讃歌を以て讃美し、主を称えるは楽しきかな。善き信仰生活を味わうのは、誠に楽しいことです。

御霊なる神が我らに与えてくださった賜物を活かし、福音のために活き、進んで行こうではありませんか。

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