道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2016年06月

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視よ我天の使いをつかはして汝に先立たせ 途にて汝を守らせ 汝をわが備へし處に導かしめん
汝等の神ヱホバに事(つか)へよ 然ばヱホバ汝らのパンと水を祝し 汝らの中より疾病(やまひ)を除きたまはん 汝の國の中には流産する者なく 妊(はらま)ざる者なかるべし 我汝の日の數(かず)を盈(みた)さん
                                -出エジプト23:20,25,26-

主なる神ヱホバはイスラエルの民をエジプトの奴隷たる様から解放し、先祖の地、乳と密の流れる地を目指して進ませ給うた。即ち主は彼らの前に往きたまひ、晝は雲の柱をもて彼らを導き夜は火の柱をもて彼らを照して晝夜往き進ませ給うた。

紅海をわたる時は、海の水を左右に分けて、海の中の乾ける所を往かしめた。

エジプトのパロの軍勢が追いついてきたときには、イスラエルの陣営の前に行ける神の使者が後ろに移って行った。すると雲の柱が前を離れて後ろに立ち、イスラエルの陣営とエジプトの陣営の間に立ったのである。そしてエジプトの陣営には雲となり闇となり、イスラエルの陣営には夜を照らしたのである。

我らが主に遣わされて行く所には、何時、如何なる時も、また何処にもあれ御使いが偕なり、守り給うのである。

そして、我らが神に仕えて行くならば、主は我らを祝福して食物、衣服、住居などあらゆる物を与えてくださり、また病も取り去ってくださるのである。

持病を抱えている方、高齢になって足腰の弱きを覚える方、など、肉を持つ故に病むこと悩むこともあろうが、主はみな取り去って下さるのである。

主の導きに与って歩む道は楽しみ多からん。喜びもまた多からん。

与えられた生命の限り全生涯を祝福に満たされ、使命を果たすために勇み励んでいくことができるのである。

           競走


我等は斯く多くの証人に雲のごとく囲まれたれば、凡ての重荷と纏へる罪とを除け、忍耐をもて我らの前に置かれたる馳場をはしり、信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。彼はその前に置かれたる歓喜(よろこび)のために、恥をも厭はずして十字架をしのび、遂に神の御座(みくら)の右に坐し給り。なんぢら倦み疲れて心を喪(うしな)ふこと莫(なか)らんために、罪人らの斯く己に逆ひしことを忍び給へる者をおもへ。 
-へブル12:1~3-

陸上競技がたけなわの時節がやってきた。 全力で懸命に競技をする者と、周囲で固唾を飲んで声援する者とが、一喜一憂し、やがて歓喜の声が挙がる。

我等の信仰生活も同様だと聖書は言う。 今、馳場を走る我らを多くの信仰の証人たちが雲のごとく取囲んで見ているのである。

その証人とは、へブル書11章に記された、綺羅星の如くに輝く旧約聖書中の信仰者たちである。

アベル、エノク、ノア、アブラハム、更にイサク、ヤコブ、ヨセフ・・・と続く。

彼らはみな信仰を懐きて死にたり、未だ約束の物を受けざりしが、とある。-13節- 約束の物とは何か?これ即ち約束の御霊でなくして何であろうか。  

彼等はみな信仰に由りて証せられたれども約束のものを得ざりき。これ神は我らの為に勝りたるものを備へ給ひし故に、彼らも我らと偕ならざれば、全うせらるる事なきなり。 -39,40節-

新約の時代に生まれ合わせ、而も末の世の後の雨として聖霊降臨の豊かなる時代に生き、主イエス・キリストの招きに与って救われた我らは何と幸せであろうか。

更にまた、多くの人々がこの救いに与るように伝道し、導いて行かねばならない。    

我らは、水と霊との全き救いを得て、置かれたる所の馳場を走り、善き戦闘を戦い、勝利者として歓喜し、義の冠・生命の冠を頭上に戴かなければならない。

主イエス・キリストが善きお手本である。信仰の導師また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。

       24 015 
                  駒ヶ岳・大沼国定公園
       
  
子をその道に從ひて教へよ 然らばその老たる時も之を離れじ
 -箴言22:6-

報道で周知のごとく、函館の近くの七飯町の七歳の男の子が5月28日に行方不明になった事件が大きく報じられた。

家族で隣町の鹿部町へ遊びに行った際に、この子が石を拾って人や車に投げつけるのを父親が見て、お仕置きとして帰路の山道で車から下ろして置き去りにし、後に探しに戻ったがいなかったというのが始まりであった。

警察、消防に自衛隊が加わって山中で連日大掛かりな捜索が行なわれたが見つからず、安否の程が案じられたが、6月3日に至って思いがけなくも、行方不明になった地点から5㎞離れた、捜索範囲外の鹿部町の陸上自衛隊の駒ヶ岳演習場の建物の中にいるのが発見された。

6日間何も食物はなく、水だけ飲んで生きていたという奇蹟に近いような出来事だ、それももさりながら、「やり過ぎだった」という父親の反省の弁も聞きいた。「ごめんな」と息子にあやまったという。何はともあれ、見つかって良かったなと云う気持がする。 親の子どもに対する躾けに就いていろいろな論議を生んだ事件であった。

翻って、「人の振り見て、わが振り直せ」の諺に倣い、クリスチャンとして子どもの教育はどうあるべきかを考えると、聖書がその鍵を握っていると思うのである。

先ずもって、親が神第一の信仰生活を実践し、模範を示してゆかなければあらない。子供は親の背中を見て育つ者だからである。その信仰の曩(さき)に汝の祖母ロイス及び母ユニケに宿りしおとく、汝にも然るを確信す-テモテ後1:5-とある如くである。

子どもには、環境の変化などにより、我が民はともすれば我にはなれんとする心あり-ホセア11:7-という時期があるかも知れぬ。けれども、その時こそ親の信仰と祈りと教えと諭しをもって子どもを助け、自立した信仰生活の歩みをするように導くことが大切だと思う。

今日は、箴言3:1~11を開いて学んだ。各々聖書を開いて、含蓄せられんことを!

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