道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2016年07月


イエス答へて言ひ給ふ『まことに誠に汝に告ぐ、人あらたに生まれずば、神の國を見ること能はず』  ニコデモ言ふ 『人はや老いぬれば、爭(いか)で生るることを得んや、再び母の胎(たい)に入りて生るることを得んや』
イエス答へ給ふ 『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生れずば、神の國に入ること能はず』
                                         -ヨハネ3:3~5-

ペテロ答ふ 『なんぢら悔改めて、おのおの罪の赦しを得んためにイエス・キリストの名によりてバプテスマを受けよ、然らば聖霊の賜物を受けん』          -使徒行伝2:38-

『なんぢら信者となりしとき聖霊を受けしか』    -同 19:2-

イエス様が願っておられることは、ご自身が命を懸けて設けた救いの道を真の教会に委ね、全世界を巡りて凡ての造られしものに福音を宣伝へよと命じ、その伝道によって全世界の人々が水と霊とのバプテスマを受け、人種や国籍を超えてキリストに在りて一体とされることである。そのために、福音を宣べ伝える労働人が必要である。その労働人とは水と霊を受けた者、即ち真の救いを体験した者でなければならない。

我らの所属するイエス之御霊教会の果たす使命について、初代監督村井じゅん先生は次のように述べられている。

イエス之御霊教会は原始基督教に由る初代教会即ち真の教会の再現の為、主が起し給いし群にして「真のイエスの教会は、東方より出でて全世界に及ぶものなり」との使命観に立脚し、水と霊との全き福音を宣伝うるを以て第一義となす。     
-真の教会 使命-

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                     ユダヤの荒野
  

ピリポ走り寄りて、その預言者イザヤの書を讀むを聴きて言ふ『なんぢ其の讀むところを悟るか』 閹人(えんじん)いふ 『導く者なくば、いかで悟りえん』 -使徒行伝8:30,31-

サマリヤでの実り多き伝道を終えたピリポに主が備えてくださった次の道は、『エルサレムからガザに下る道に往け。そこは荒野なり』 であった。 

主の命に従って行くと、馬車に乗った人に出会った。彼はエチオピア(エチオピア)の女王カンダケの高官で、女王の宝物の全てを管理している閹人(宦官)であった。

閹人は、王や女王に仕え、高級官吏として職務を行う者がいたが、彼もその一人であった。ただ違う所は彼が眞の神を信じていたということである。その彼が暫くの暇を戴いて出かけたのがエルサレムでの礼拝であった。   

イスラエルに眞の神あり、との証が周囲の国々に伝えられ、エチオピアにも神の及んでいた事実を知る。ソロモンの時代にも、シバの女王がソロモンの智慧を聞こうとしてやってきた。

我らの語る水と霊との福音も同様に証となって、広く宣べ伝えられていかねばならない。

彼は馬車のなかで聖書を読んでいたが、誰のことが書かれているのか皆目見当がつかなかった。思案している所に現れたのが神に遣わされたピリポであった。

御霊がピリポに『ゆきて此の馬車に近寄れ』と言われ、走り寄ってみるとイザヤ書53章の聖言を読む声が聞こえた。神の導きは何と素晴らしいものか! 時も所も全て救われるべき人のために備えられている。

『なんぢ其の読むところを悟るか』とのピリポの問いに対して、閹人は答えた『導く者なくば、いかで悟り得ん』 そしてピリポに同席して聖書の解き明かしを求めた。 茲に主イエスの福音が語られ、水と霊とによる救いが語られたのである。

幸いに水のある所に来た。ヱホバエレ!である。閹人が言った『視よ水あり、我がバプテスマを受くるに何の障りかある』 そしてピリポと閹人と二人ともに水に下り、ピリポは閹人にバプテスマを授けた。勿論、主イエス・キリストの名によってである。

彼等が水から上がると、主の霊がピリポをその場から取り去ったので、閹人はピリポを見ることがなかったが、大いなる喜びに満たされて其の途に進み往けり、とある。

閹人は、本来ならばヱホバの会に入るべからざる者であった。しかし、異邦人も寺人(閹人)も共に神の祈りの家で楽しませると約束してくださった。今は、誠に恵みの時代であることを感謝する。-イザヤ56:2~8ー

証 = 今週も洗礼式、聖霊待望会、身代わり洗礼、家庭集会が行われ感謝でした。

             バトンタッチ

   
ヱホバ、エドムの国の境なるホル山にてモーセに告げて言たまはく、・・・汝アロンとその子エレアザルをひきつれてホル山に登り アロンにその衣服(ころも)を脱がせて これをその子エレアザルに衣せよ アロンは其処に死てその民に列なるべしと モーセすなはちヱホバの命じたまへるごとく為し 相つれだちて全会衆の目の前にてホル山に登れり 而してモーセはアロンにその衣をぬがせて 之をその子エレアザルに衣せたり アロンは其処にて山の巓(いただき)に死ねり 斯くてモーセとエレアザル山よりくだりけるが 会衆みなアロンの死たるを見て三十日のあひだ哀哭(なげき)をなせり イスラエルの家もみな然せり 
-民数記略20:23~29-

世の中古今東西、開闢(かいびゃく)の創より今日に至るまで、あまねくバトンタッチが繰り返されてきた。

家庭にすれば親から子へ、子から孫へ、その先の子孫へとバトンは受け継がれていく。

同様に、会社にすれば代表者である社長も次の世代の役員の中から選ばれて、新旧交代して受け継がれていく。

では、神の国においてはどうなのだろうか?その例の一つが上記の聖言に記されている。

ここに出てくるアロンは、モーセの兄であり、雄弁なるがゆえに齢83歳にしモーセの補佐役として神によって立てられ、その後大祭司となって神に仕えた人である。

凡そ聖職者は神が選び、立てられた器である。己自らがその職に就くこともできなければ、辞めることもできない。事の次第は神によるのである。そしてその間、使命を与えられて神の業を為し、努め励むのである。  

アロンはモーセやスラエルの民とともに荒野にて40年の旅をするのだが、メリバで民が水を求めて呟いた時に、怒ったモーセが、岩に向い水が出よと命ぜよとの神の言葉に從わず、岩を2度叩いた。水が出るには出たが、神の聖(きよき)を顕わさなかったために、モーセとアロンの二人は乳と蜜との流れる約束の地に入ることを許されなかった。 ー民数記略20:8~13-

今、ここに40年の旅路を終えて、約束の地を前にして、先ずアロンはその子エレアザルに後の事を託して死を迎えることになった。

上記の聖言は、アロンがその子エレアザルに大祭司の位を託した場面である。それは神によって命ぜられ、行われたのであった。正に劇的な場面である。人は何を言い得ようか!時にアロンの齢123歳。

その後、モーセとイスラエル人が歩を進めてアバリム山に至った時に、神はモーセの為にヨシュアを選び後継者として下さった。モーセは彼の上に手を按き、神がモーセに与えた尊栄(さかえ)を分かち与えたのである。 -同書27:15~23-

そして愈々モーセが死を迎える時がきた。神はモーセをして約束の地を一望のもとに収めるピスガの巓(いただき)に立たしめ、遥かなる山や谷や原を見さしめたのである。神がモーセを葬られたので、その墓を知る人はいないとある。時にモーセ120歳。その目は朦(かす)まずその気力は衰えなかった。 -申命記34:6,7-

聖書には、多くの世代交代の場面が記されているが、神の教会において福音が連綿と宣教されていくために後継者を求める祈りが必要であり、与えられたならばバトンタッチの時期も神が定めておられるので、何ら思案する必要もない。全て神が為さるのである。誠に一切万事お任せ
していけるので感謝ある。

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それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠(とこしへ)の生命(いのち)を得ん為なり -ヨハネ3:16-   

と、主に愛された弟子ヨハネは記した。主によって兄のヤコブと共に「雷の子」と名付けられたヨハネであったが、愛の使徒とも呼ばれるだけに、深く主の愛を悟り、神の愛に関わる主イエス・キリストの御言葉を、筆を執って記した人である。

われ新しき誡命(いましめ)を汝らに與ふ、なんぢら相愛すべし。わが汝らを愛せしごとく、汝らも相愛すべし。互に相愛する事をせば、之によりて人みな汝らの我が弟子たるを知らん -13:34,35-

弟子たちが、また我ら主を信ずる者が「クリスチャン」と呼ばれるようになったのは、アンテオケより始まったとある。それはアンテオケ教会の聖徒らがキリストに從う者になったからである。 -使徒行伝12:26-

ヨハネは、またヨハネ第一書で、神の愛の如何ばかりなるかを説いた。

視よ、父の我らに賜ひし愛の如何に大なるかを。我ら神の子と称へらる。既に神の子たり、世の我らを知らぬは、父を知らぬによりてなり。愛する者よ、我等いま神の子たり、後いかん、未だ顕れず、主の現れたまふ時われら之に肖(に)んことを知る。我らその眞の状(さま)を見るべければなり。 -3:1,2-

主は我らの為に生命を捨てたまへり、之によりて愛といふことを知りたり、我等もまた兄弟のために生命を捨つべきなり。世の財宝(たから)をもちて兄弟の窮乏(ともしき)を見、反って憐憫(あはれみ)の心を閉ずるる者は、いかで神の愛その衷(うち)にあらんや。 -3:16,17-

更に、同書4章7節以下には、我らの罪のために十字架にかかり、宥(なだめ)の供物となられ神の愛を示された主イエス・キリストに倣い、神の愛をもって互に相愛すべきことを教えている。

繰り返して読み、己がものとしたい章節である。

我らに対する神の愛を我ら既に知り、かつ信ず、神は愛なり。 -4:16上半句-

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我イスラエルに対しては露のごとくならん 彼は百合花(ゆり)のごとく花さき レバノンのごとく根をはらん その枝は茂りひろがり 其の美麗(うるはしさ)は橄欖(かんらん)の樹のごとく その芬芳(かうばしさ)はレバノンのごとくならん その蔭(かげ)に住む者かへり來らん かれらは穀物の如く活きかへり 葡萄樹(ぶだうのき)のごとく花さき その馨香(かうばしさ)はレバノンの酒のごとくなるべし 
-ホセヤ14:5~7-

この聖句は、主イエス様の教会に対する愛の広さ・長さ・高さ・深さの如何許りなるかを表している。

冒頭のイスラエルとは、言うまでもなく霊のイスラエル即ち教会を指す言葉である。

主は、教会に対して宛も露のように恵みを注いでくださる。人は大雨や嵐は好まない。適度な潤いのある雨を願うものだ。主は教会に御霊を注ぎ、水の洗いをもて言(ことば)によりて潔め、祝福を受けるに足るものとしてくださった。

その麗しさは百合に譬えられ、雅歌では「われはシャロンの野花 谷の百合花(ゆり)なり」と詠われ、主なる神、王に愛される存在である。 -2:1-

またその福音を宣伝える栄と勢いは、レバノンの香柏のごとく深く根をはり、オリーブのように枝を伸ばし、世界の面に満ちていく -イザヤ27:6-

キリストの花嫁なる教会は、オリーブの樹のように麗しく、レバノンの香柏の森のごとく芳しいとある。香柏と言えば、嘗てこの樹はレバノンに繁栄をもたらした。建築に造船に引く手数多であったからである。今日もレバノン国旗の中央にはシンボルとして、この樹が描かれている。  

罪の捕囚となっていた人たちは、今や、救われて神に立ち帰り、主の御許にあって讃美と感謝の歌を歌い、喜びをもって誉め称えている。

復活の主を崇め、御霊の花を咲かせ、実を結び、キリストの芳ばしき香りを放つ者とされていく。 感謝! ハレルヤである!

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