曾て洪水の前ノア方舟(はこぶね)に入る日までは、人々飲み食ひ、娶り嫁がせなどし、洪水の來りて悉とく滅すまでは知らざりき、人の子の來るも然あるべし。 -マタイ24:38,39-
人の悪が満ちた古き時代に、神が世界を一新するために大洪水を起こされた。その時に世継ぎとして選ばれたのがノアであった。ノアは義人であり、完全な人であった。エゼキエル14;14 ノアは、神と偕に歩んだゆえに恵みを得た。
神はノアに命じて大洪水から救われるために、松の木をもって方舟を造らせた。長さ150㍍、幅25㍍、高さ15㍍ほどの大きな舟であった。中は3階建で、窓は上に一つ、扉は各階毎に一つずつ設けられ、内外共にやにを塗って防水をした。
その傍ら、ノアは義の宣伝者として伝道し、人々に罪を悔改め、箱舟に入るよう勧めたが、皆嘲笑って聴きいれようとしなかった。
時が来た。方舟の中に入るのは、ノアと妻、セム、ハム、ヤぺテ三人の息子、及びその妻たちの8人。そして凡ての動物の雄雌一番ずつ、潔い動物は7番ずつであった。人と動物の食料も蓄えた。
すべて整ったところで40日40夜続けて大雨が降り、大地から水が湧き上がって、天下の山々が水没した。こうして生ける物は悉く死に絶えた。
凡そ一年経ち、水が引き、大地が乾いてからノアたちは、箱舟から外に出た。世界は凡て一新されていた。
ノアは清き動物を燔祭として神に献げて感謝し、神も亦彼らを祝福された。
神は、ノアとその子らに告げられ、ノアとその子と子孫、及び凡ての生き物に再び彼らを滅ぼす大洪水を起こさないと契約を立て、その徴として私は雲の中に虹を置くと言われた。私たちは虹を見るたびに神が立てた契約を思い出すのである。
ノアの時代がそうであったように今日も然り。今は末の世である。世界は罪に満ちている。主の御再臨の待たれる時である。その日、その時を知る者はいない。ただ神のみ知り給う。故に聖霊の油を受けて救いを得、目を覚まして、備えせよ!
ペテロ前3:18~23 ペテロ後3:3~13
2016年10月
二つの事を神に求む
我二つの事をなんぢに求めたり 我が死ざる先にこれをたまへ 即ち虚假(うそ)と謊言(いつわり)とを我より離れしめ 我をして貧しからしめず また富ましめず 惟(ただ)なくてならぬ糧をあたへ給へ そは我あきて神を知ずといひ ヱホバは誰なりやと言はんことを恐れ また貧しくして窃盗(ぬすみ)をなし 我が神の名を汚さんことを恐るればなり
-箴言30:7~9-
ヤケの子アグルの言葉なる箴言であり、彼がイテエルとウカルに語った所の言葉である。
彼は言う。「我は人よりも愚かだ、聡明ではなく、智慧もなく、神を悟ることもできない」と。
だがそれに続く彼の問いは高尚だ。曰く「天に昇り、降ったものは誰か。風を手の内に集め、その衣に水を包む者は誰か。地の果てを定めた者は誰か」と、更に「その方の名は何というのか。その子の名は何というのか。あなたは知っているのか」と。 2~4節
こう聞けば、彼は「愚かな者」とは言えない。でも斯く言わしめたのは、信仰からでた深き謙譲なのか、それとも神を知りたいという熱意のこもった飽くなき欲求なのか。
真理の御霊が未だ降らざる旧約時代においても、神を真摯に求めて答えを得た人がいたのだ。彼は信仰の目をもって主イエスを見たのだ。
神の言はみな潔よし 神は彼を頼むものの盾なり 汝その言に加ふること勿れ 恐くは彼なんぢをせめ 又なんぢを謊(いつは)る者となしたまはん 5節、厳粛に信じて受くべき言である。 参照→申命記4:2 12:32 黙示録22:18,19
茲で、前述の7~9節の聖言に戻ろう。 誠に望む所は、神の子どもと称えられるに相応しく、嘘・偽りのない日を送ることと、「日用の糧を今日も与えたまえ」と神に祈り、応えられて受けた物を前にして、感謝して生きていくことが大切だと思う。
富み過ぎることは危険なこと。富みに溺れてお金の価値を忘れたり、傲慢になり、感謝をせぬような人にならぬこと。また貧しすぎてさもしい心を起こし、証にならないような事をせぬように、心の扉の戸締りに気を付けることが大切だと思う。
バプテスマのヨハネが語った言葉に耳を傾けよう。
「二つの下衣(したぎ)をもつ者は、有(も)たぬ者に分け与えよ。食物を有つ者もまた然せよ」 ルカ伝3:11
「定まりたるものの外、なにをも促(はた)るな」 13
「人を劫(おびや)かし、また誣(し)ひ訴ふな、己が給料をもて足れりとせよ」 14
カインとアベル
新約の仲保(なかだち)なるイエス、及びアベルの血に勝りて物言ふ灌(そゝぎ)の血なり -へブル12:24-
アダムとエバの間に、カインとアベルの兄弟が生まれた。カインは土を耕す農夫となり、アベルは羊の牧者となった。
日を経てのち、二人は神に供え物を献げた。カインは地よりの産物を、アベルは羊の初子と肥えた羊を献げた。神はアベルの捧げものを眷顧(かえり)みられたが、カインの捧げものは眷顧みられなかった。羊は神の羔キリストの型であり、贖罪の血を流すために必要な動物であった。アベルの信仰を主は義とされたのである。
カインの心は嫉妬に満ち、甚だしく怒って顔を挙げようとしなかった。神はいち早く察知し、カインに言われた「なぜ怒るのか、なぜ顔を伏せるのか、もしお前が正しければ顔を挙げられるはずではないか。正しくなければ、罪は門口で待っていて、お前を慕っている。お前はそれを治めねばならない」
だが、カインはアベルを野原に連れ出して殺してしまった。
神がカインに「アベルはどこにいるか」と聞かれると、彼は「知らない、私は彼の番人んではない」と答えた。世界で最初の嘘であった。
だが、神の目は凡てが見え、その耳は凡てが聞こえた。アベルの血が大地に呑みこまれ、神に向って叫んだからである。
カインは呪われる者となり、大地は彼のために産物を生ぜず、地上をさ迷う流離い人となったのである。
ここにおいてカインは罪の払う値の如何に大であるかを知った。この土地から追放され、当て所もなくさ迷う者となってしまえば、誰彼となく自分を殺すだろうと恐怖を感じた。彼は、思う所を主に言った。
主は、彼に答えて「然らず、凡そカインを殺す者は七倍の罰を受けん」と言われ、彼に遭う者が彼を撃つことのないように印を付けてくださった。
普通であれば、罰を受けて当然であり、このような保証は無い筈である。だが、神は度量が大きく、憐みも慈悲も深いお方である。彼を撃つ者がいたら七倍の罰を受けると言われて、彼を擁護してくださった。 ”七” とは神の完全数である。故に、完璧に保証せれる者としてくださった。罪の底に沈んで初めて知る神の愛であった。
カインは、その身に ”印” を付けられた。どのような印なのかは明らかでないが、聖書から推測してみよう。
イスラエルは過越しの血を塗って、滅びから救われ、遊女ラハブは赤い紐を窓に付けて、エリコの落城から逃れた。これらは救いの為に必要であった。
翻って新約聖書をみるに、罪の赦しのために水のバプテスマがあり、そして「神はまた我らに印し、保証として御霊を我らの心に賜へり」 コリント後1:22 「彼を信じて約束の聖霊にて印せられたり」 エペソ1:13 「汝らは贖罪(あがなひ)の日のために聖霊にて印せられたるなり」 エペソ4:30 と聖霊こそ印であると記している。故に水と霊のバプテスマを受けることが必要である。
我ら斯のごとき大なる救を等閑にして爭(いか)でか遁るることを得ん -へブル2:3-
神の像の如くに人を造る
神言給けるは我儕(われら)に象(かたどり)て我儕の像(かたち)の如くに我儕人を造り・・・・・神其像の如くに人を創造(つくり)たまへり 即ち神の像の如くに之を創造(つくり) 之を男と女に創造たまへり ー創世記-1:27-
「元始(はじめ)に神天地を創造たまへり」 の聖言(みことば)から始まる壮大な創造の物語が記述された創世記。その六日目に ”人” の創造が記されている。
創造の神が意図されているのは、人を神の像の如く創造することである。
ここで神が、我儕と言われているのは、「へブル語の文法の規定によれば、物の偉大さ・神の尊厳さを表わすに、複数形を使用する慣例がある」 (村井じゅん師著「聖書神学」) 故である。
神は、土(アダマ)の塵をもって人(アダム)を造り、人獨(ひとり)なるは善らず我彼に適ふ助者(たすけ)を彼のために造らんとて、彼を眠らせ、その肋骨を一つ取り、これを以て女を成(つく)られた。アダムはその名をエバと名付けた。
だが、二人は神の御心に反し、蛇の誘惑にかかり罪を犯してエデンの園から追放された。
アダムはエバによってカインとアベルを得るが、カインがアベルを殺し、罪が芽を吹いた。アベルに代わってセツが生まれたが、神の像ではなく、アダムは其の像に循い己に象り子を生んだとある。 同書5:3
神の人類創造の業は失敗に終わったのだろうか、否、そうではない。
見得べからざる神が、受肉せる神、救主イエス・キリストとなって世に顕れ、人をして新生せしめる道を開いてくださったのである。 ヨハネ1:14 コロサイ1:15 へブル1:2,3
子等はともに血肉を具(そな)ふれば、主もまた同じく之を具へ給いしなり。これは死の権能(ちから)をもつもの、即ち悪魔を死によりて亡ぼし、へブル1:14 と、罪の中に死せる人を活かしてくださった。水と霊による全き福音をもて新たに生まれしめ、神の子と為してくださったことを感謝する。
神の御霊を受けた者は、愛・喜悦・平和・寛容・仁慈・善良・忠信・柔和・節制など善き実を結ぶ。 ガラテヤ5:22
神の御霊を受けた者は、地上に在っても土に属する者ではなく、天に属する者とされている故に、血肉は神の国を嗣ぐこと能わず、朽つるものは朽ちぬものを嗣ぐことなし コリント前15:50 と常に上を仰ぎ望み、主と共に歩んで御再臨の日を迎えたいと思うのである。
我らはみな面帕(かほおほひ)なくして鏡に映るごとく、主の栄光を見、栄光より栄光にすすみ、主たる御霊によりて主と同じ像に化するなり。 コリント後3:18
神を畏るゝことは智慧のもとなり
ヱホバを畏るゝことは智慧の根本(もと)なり 聖者(きよきもの)を知るは聡明(さとり)
なり -箴言9:10-
外国で日本語補習授業校の講師を勤める姉妹から証が記されたメールが送られてきました。
今年の12月に同校で講師の研修会が開かれることになり、文部科学省から過去に海外の補習校で校長を歴任された方が研修のために派遣されてきて、指導方法の助言や、模擬授業をして下さることになったというのです。
そして、「日頃課題に思っていることを知らせてください」とメールがあったので、少しでも助言して頂ければと思い、自分が受け持つ幼児クラスの授業方法を書いて送りました。
その中には、楽しく授業をするための導入歌、童謡、紙芝居、語彙カードでカルタ取り、暗唱など創意工夫した授業風景や、日本語が全く分からない子が一学期の最後の授業でひとこと日本語で語りかけてくれた時の驚きと、それを保護者に伝え、共に喜んだ体験も記されていました。
間もなく返信があって、「大変すばらしく、申し分ありません」と評価されました。
姉妹が証をして言われるのは、「これはやはりイエス様が私に知恵を与えてくださったおかげで、このような言葉をいただいたものと確信しております。イエス様が私に教えて下さらなければ、子どもの状況を把握できない何の価値もない一講師にすぎなかったことでしょう。しかしイエス様が子ども達の状況を感じさせてくれ、同時に親の状況も見せてくれ、それを踏まえての指導に対するカリキュラムを教えてくださるので、この仕事はイエス様なしでは考えられません」とありました。
このように、栄光を神に帰すことは素晴らしいことですし、いよいよ栄えて行くことでしょう。
聖書には、先の御言葉のように「神を畏れることは、智慧のもとである」とあります。
特に聖霊を受けた方は、神の霊が内住するゆえに豊かに智慧が与えられるとあります。また聖書の御言葉を重んずるゆえに賢くなるとあります。
幾つかの御言葉を列記します。
・助主、即ちわが名によりて父の遣したまふ聖霊は、汝らに萬の事をしへ、又すべて我が汝らに言ひしことを思ひ出さしむべし。 ヨハネ14:26
・なんぢらの衷には、主より注がれた油とどまる故に、人の汝らに物を教ふる要なし。此の油は汝らに凡ての事を教へ、かつ眞にして虚偽(いつはり)なし ヨハネ一2:27
・我はなんぢの証詞をふかくおもふが故にわがすべての師にまさりて智慧おほし 我はなんぢの訓諭(さとし)をまもるがゆえに老たる者にまさりて事をわきまふるなり 詩篇119:99,100
・その上にヱホバの霊とゞまらん これ智慧聡明の霊 謀略才能の霊 知識の霊 ヱホバをおそるゝの霊なり イザヤ11:2
皆様が神の御霊に満ちて、祝福されていきますようにお祈り致します。 ハレルヤ!