母親ハンナの信仰により、乳離れして間もなくシロに在るエホバの家にささげられたサムエル、その子の上に主は目をとめれた。そしてある夜のこと、彼の名を呼ばれた。「サムエルよ」、一度、二度・・・・・、彼は、師のエリが自分を呼んだと思って走ってエリの許へ行った。だが、師は呼ばぬという。
ヱホバ三たびめに又サムエルをよびたまへば サムエルおきてエリの許にいたりいひけるは 汝われをよぶ我こゝにありと エリ乃ちエホバの童子(わらべ)をよびたまひしをさとる 故にエリ、サムエルにいひけるは ゆきて寝よ 彼若し汝をよばゞ 僕(しもべ)聴くヱホバ語りたまへといへと サムエル前3:8
神は私たちにご自身がして欲しいことを語って下さる。それに聴き從うことが大切である。自己中心とならず、主の御旨、御心の成らんことを求めて進んで行きたく思う。イエス・キリストが自ら、オリブ山で「この酒杯(さかづき)を我より取り去り給へ。されど我が意(こころ)のままに成さんとにあらず、御意のままを為し給へ」と祈られた如くにである。
私たちには「水と霊」の全き福音を宣伝えよと、大きな使命が与えられている。その役割を少しでも果たしていこうではありませんか。
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2016年も今日で終わります。今年最後の安息日礼拝と聖餐式、そして感謝祭を主イエス・キリストの聖名によって行い、大感謝を献げました。あとは夜の除夜祈祷会をもって終了します。
ブログを訪問されている皆様、1年間ありがとうございました。大聖会などでお会いした方から、思いがけず 「ブログを読んでいますよ」 と声をかけられたりして、大変嬉しく思っています。
来年も、新しい気持ちで続けたいと思いますので、御加祷のほど宜しくお願いいたします。ハレルヤ!
2016年12月
2016年 クリスマス
ハレルヤ! クリスマス、おめでとうございます!!
道央教会の皆さんと、ブログを読んでくださる皆さんへ、クリスマスのお祝詞を申し上げます。
今年のクリスマスの聖言は、
『かれ子を生まん、汝その名をイエスと名づくべし。己が民をその罪より救い給ふ故なり』
マタイ1:21
私たちを罪の中から救い、滅亡(ほろび)から生命(いのち)に入れるために、主イエス・キリストは乙女マリヤによって、この世に生まれて下さいました。
『視よ、処女(をとめ)みごもりて子を生まん。その名はインマヌエルと称へられん』 之を釈けば、神われらと偕に在すといふ意(こころ)なり。 同1:23
『言(ことば)は肉体となりて我らの中に宿り給へり』 ヨハネ1:14
子等はともに血肉を具(そな)ふれば、主もまた同じく之を具へ給うひしなり。 へブル2:14
アダムとエバの原罪以来、人類が犯した罪の払う値として、神の御子イエス・キリストが十字架に釘付けられ、尊い血を流されました。茲に神の人を愛する愛(アガペー)が顕わされています。
私たちは、主の御意を悟り、喜びと感謝をもってクリスマスを祝う者です。
汝その名を イエス と名づくべし。と、
イエスとは、神の名です。力があります、救いがあります。
イエスの名によって、バプテスマを受けて救われ、イエスの名によって何事も祈り、そして聴かれます。凡ての事主イエスの名に由りて為し、彼に由りて神の栄光を顕わすべしとあります。ハレルヤ!
そして、私たちの教会の名は、主が村井スワ先生に幻の中に示してくださったイエス之御霊教会!
イエス様が興し、働いてくださる教会。誠に名は体を表しています。
この教会の中に在って、主の御聖誕を祝うことができて誠に感謝です。
馬槽(まぶね)の中に 生まれ給し
羔羊なる主は 救い主なり
天(あめ)には栄光(みさかえ) 地には平和(おだやか)
人には恩恵(みめぐみ) あれと歌いぬ
霊讃歌6番 クリスマス3節より
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◎ 明石舞子イエス之御霊教会の献堂式の聖言 12月20日
Your mercy, O LORD, endures forever, PSALM 138:8, Reisanka No.133
なんぢの憐憫(あはれみ)は とこしへに たゆることなし 詩篇138:8
嘗て清村信生先生は、日本聖書大学院を卒業した時に、母教会を始め、付近の南西諸島の教会で救われた若人が神戸に出て働くけれど、近くに教会が無いために散っていく姿を嘆き、自分が神戸で伝道してその人たちをまとめて導かねばならない!と決意を表明した事を思いだします。この使命が与えられて開拓伝道をされた清村信生先生、和子先生でした。何度も転居を重ねた上、願いの如く神戸教会が建ちました。そして良く聖書を読む先生でした。今は、ご夫妻共に天に逝かれましたが、然し、播かれた福音の種は実り、更に増えまして新たな教会が誕生しました。その名は、明石舞子イエス之御霊教会。
ご両親の遺産を原資にして、息子さん、娘さん方が一致協力して、築50年の家を買い、リフォームをして立派な教会になったという、麗しいお証を聞きました。
献堂式の聖言は、英語と日本語で併記されていました。世界に向って進む教会である!と天から賜わったであろう意気込みを感じます。大感謝!祝福を祈らせて頂きます!
ラオデキヤ教会時代
その日七人のをんな一人の男にすがりていはん 我儕(われら)おのれの糧をくらひ 己のころもを着るべし ただ我儕になんぢの名をとなふることを許して われらの恥をとりのぞけと イザヤ4:1
預言者イザヤは、いみじくも末の日における現代教会の姿を記している。
七人の女とは、キリストの御霊無き諸教会である。これらの教会は、神の御言葉である聖書をそのままに信ぜず、歪曲して己が教理・神学を生みだし、御霊の活発なる働きを知らず、イエス・キリストの御名による水のバプテスマを受けず、ただ単にキリスト教の看板を掲げているに過ぎない。
ヨハネ黙示録第1章11節に七つの教会があると記され、2章及び3章にその内容が詳述されている。この七つの教会とは、教会史を七つの時代に区分したものであって、教会は初代教会時代から始まって、今は七番目のラオデキヤ教会時代に当たっている。 3:14~22
ここを読むとき、正しく現在の教会の状態と合致すると言わざるを得ない。
『アァメンたる者、忠実なる真なる証人、神の造り給ふものの本源たる者かく言ふ.われ汝の行為(おこなひ)を知る。なんぢは冷(ひやや)かにもあらず熱きにもあらず、我は寧ろ汝が冷かならんか、熱からんかを願ふ。かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬるき)が故に、我なんじを我が口より吐出さん』 14~16節
神は、ご自身に対して冷かな人を嫌われる。当然、熱い心と思いとを以て誠心誠意信仰する人がお好きである。就中、御霊の熱心をもてことに当たる人は大いに喜ばれる。生温いお茶が不味いように、神は微温(ぬる)き信仰はお嫌いだと言われる。白黒どっちつかずで中途半端だからである。このような人や、教会は吐き出すと言われた。我等は、キリストの中に確固として留まるのみならず、用いられるために、常に御霊に満たされて熱心であらねばならない。
『なんぢ、我は富めり、豊なり、乏しき所なしと言ひて、己が悩める者・憐むべき者・貧しき者・盲目なる者・裸なる者たるを知らざれば、我なんぢに勧む、なんぢ我より火にて練りたる金を買ひて富め、白き衣を買ひて身を纏ひ、なんぢの裸體(はだか)の恥を露(あらは)さざれ、眼薬を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ』 15節
茲に、世の見方と神の見方の違いがある。例え地上に巨万の富を蓄え、誇ったとしても、それを以て神からの霊の物を一つだに買うことはできない。例え広々とした土地に壮大な邸宅を構え、金品に欠ける所なく、美食に飽き足りたとしても、神の前に何の意味があろうか。「愚かなる者よ、今宵なんぢの霊魂(たましい)とらるべし」と、一巻の終りではないか。
主は、『なんぢ我より火にて練たる金を買ひて富め』と言われた。金鉱石を溶鉱炉で溶かして一番底に沈む物は金である。それを精錬して純金にする。聖書の御言葉は正に純金である。神の御口から出でた日よりこのかた、どれ程の試練や迫害を通り抜けて今日に至っていることか。「ヱホバよ みことばは天にてとこしへに定まれり」 詩篇119:89 聖書は、神の言葉であり、真理である。恭しく頂くべきものである。書かれている救いの道をしっかり捉え、神の実子となることが肝要である。
次に主は言い給うた。『白き衣を買ひて身に纏ひ、なんぢの裸體の恥を露さざれ』と。これは主イエス・キリストの御名による水のバプテスマに他ならない。アダムとエバが罪を犯した後、皮衣を衣せられて、裸体の恥が覆われたように、我々も神の羔羊となって贖罪の血を流されたイエスを衣なければならない。
更にまた主は言い給うた。『眼薬を買ひて汝の目に塗り、見ることを得よ』と。これぞ主が我らに賜う約束の聖霊ではないか。パウロもサウロと呼ばれていた時に、主の光を見て盲目になり、その後、主の御告げによりアナ二ヤが彼の許に遣わされ、聖霊を受けた時に、彼の目から鱗(うろこ)のようなものが落ちて見ることができた。そしてバプテスマを受けたのである。使徒9:18 真理の御霊を受ける時、人をして真理をことごとく悟らせてくださるのだ。 ヨハネ16:13
斯く記されている故に、我らは冒頭の聖句の如き名のみの教会の人々のために祈り、水と霊こそ救いなりと、真理に立脚するように勧めるべきである。
※ 改題しました。 旧・主の名を称えることを許せ ⇒ 新・ラオデキヤ教会時代
死人を活かす神
彼はその信じたる所の神、すなはち死人を活し、無きものを有るものの如く呼びたまふ神の前にて我等すべての者の父たるなり。録して 『われ汝を立てて多くの國人の父とせり』 とあるが如し。彼は望むべくもあらぬ時になほ望みて信じたり、 ロマ4:17、18
今日の札幌は昨夜半からの降雪で真っ白になった。大雪で表通りを歩く人影も少なく、外出に二の足を踏むような日である。
そんな中、安息日礼拝に兄弟姉妹が徒歩で、車で集って来られた。車のA姉妹は、途中で戻ろうかなと思ったが、とに角集われたという。私は牧師で信者の皆さんのお出でを待つ身だが、若し私が立場を変えて信者の身だったら、こういう時にはどう対処するだらうと考えることが間々ある。それはともかく、出席者は普段の半数位だが、主が導いて下さった兄弟姉妹方と皆で主を賛美することから始めた。
信仰生活には、試みが付き物だ。心の思いが試される時がある。
私も、先週は伊勢大聖会に3泊4日で行ってきたのだが、往く途中で年のせいか忘れ物をしたのに気が付いた。実は、心臓に持病があるので病院で処方された内服薬と利尿剤を服用しているのだが、利尿剤の方をそっくりそのまま忘れて出かけたのである。
詳しい方にはお分かりだろうが、心臓と腎臓は密接な関係があり、心臓の働きの弱い人が水分を摂り過ぎると、尿は少量しか出ず、余剰水分が血液中や、肺、腸、体内組織に留まってむくみとなり、心臓に負担をかけ、進行すれば心不全を起こす原因になる。その水分を除去するために利尿剤(ラシックス)が処方されている。
今年も、2月に2週間ばかり殆ど休む暇なく過密な教会行事や旅行が続き、疲れも重なった。外食も多かったので、塩分濃度が高く、従がって喉が渇き、水分を摂り過ぎて体重が高止りして減らず、遂に心不全を起こして10日ほど入院する羽目に遭った。
それで話を戻すと、この度利尿剤を忘れて旅に出たのだが、悪夢を思いだすより一瞬早く、「イエス様に頼ろう」と思ったのである。そして大聖会に臨んだ。
結果はどうなったか?というに、3泊4日で水分は体内に蓄積され、体重は3キロ増え、足はパンパンになった。けれども心不全は起らなかった。(症状としては、肺に水が溜まれば水っぽい咳が出るのだが)、それがなかった。ぎりぎりだったかもしれぬがセーフであった。感謝この上なしである!
帰ってから増えた3キロの体重を元に戻すのに6日かかった。今は、快調である。主治医にこの間のデータを見せると(そうすることになっている)驚きもし、喜んでもくださった。
健常者の方には分かりづらいことと思うが、この弱さがある故に、主に拠り恃んでいるともいえる。
今日の安息日礼拝の聖言は、アブラハムの信仰に就いてである。主の語られたことをそのまま信じて、より頼む道に祝福があると思う。