道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年02月


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                    当時の大丸藤井 HPより
         
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                   現在の大丸藤井セントラル




人は二人の主に兼事(かねつか)ふること能はず、或は、これを憎み、かれを愛し、或は、これに親しみ、かれを軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事ふること能はず。 
マタイ6:24

遠い昔22歳の若かりし時の証であるが、私にとって忘れることのできない、否、骨身と魂に染みわたっている証がある。

イエス様に救われて2ヵ月後、導かれて教会の仕事をすることになった。丁度父が肺結核で入院してから2年経ち、給料が3分の1カットされた時であったので、報酬は、家計の穴埋めとなり、小遣いとして与えられた1千円は貴重な宝であった。

その時は、自分が牧師になるなどとは夢にも思わず、教会の事務員になり、家を助ける仕事を得て良かったと思い、余暇には好きな絵を描いていたのである。

所が、教会の仕事量が増えていき、少なからず戸惑いを感じていた時に開いた聖書の御言葉が、上記の聖句であった。そこで教会に来られた或る先生に尋ねると、「何事でも神を第一にしなさい」と返事が返ってきたので、自分は神に従い、教会の仕事に進もうと心を定め、画材を全部仕舞い、夢見た画家への道から離れたのである。

それから半年ほど経った或る日、試みの時が来た。教会の用事で札幌の中心街に行き、仕事を終えて電車の停留場に立ったのだが、目当ての電車の姿形は見えず、ふっと思ったのは、すぐ後ろには大丸藤井の展覧会場がある。先ごろまで足繁く通いなれた店である。

すっと2階の会場に入り、絵を2、3点観たところで、神様との約束を思いだし、階段を下りた。

その時、神様からの不思議な取り扱いを受けたのである。

突然体が雲の上に乗ったような感じがし、そして強い力で背中を押されて、店内の何にもぶつかることなく、足早に歩かされて、気が付いた時には店の出入り口立っていた。

風に頬を撫でられて、ふと見ると、目の前には乗るべき電車が停まっているではないか!

慌てて飛び乗って、(今のは何だったのだろう)としきりに考えながら教会に戻った私は、今あったことを牧師のN先生御夫妻に話した。そして「それは、天使ですよ」と教えられたのである。

この経験が、自分は己によってではなく、神によって牧師に選ばれ、立てられているのだという自覚になっている。

ペテロが主イエス様の「我に従い来たれ、さらば人を漁る者となさん」とのお言葉に從った如く、またパウロがダマスコ途上で主の光と御声を聞いて從った如く、主はそれぞれの神の器に持ち給う御計画を為されていくのだと思う。

「人よりに非ず、人に由るにも非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ」 ガラテヤ1:1

その上で、水と霊との全き福音を宣伝える者として歩み、神を第一として歩むならば、主がその人の凡てとなってくださると確信するのである。

まづ神の國と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ[煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。 
マタイ6:33,34






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『・・・然れど汝なにか為し得ば、我らを憐みて助け給へ』 イエス言ひたまふ 『為し得ばと言ふか、信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり』 その子の父ただちに叫びて言ふ『われ信ず、信仰なき我を助け給へ』 マルコ9:22~24

主イエス様が変貌山から弟子たちの許に帰ってみると、大勢の人が集まって論じあっていた。
何事かと問うと、その中の一人が進み寄って答えた。

「先生、息子を連れてきました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊が取りつくと、所かまわず地面に引き倒すので、この子は口から泡を出し、歯ぎしりし、体をこわばらせてしまいます。この霊を追出してくださるようお弟子たちに申しましたが、できませんでした」ということであった。

主は、弟子たちの不甲斐なさを嘆いて「なんという信仰の無さなのか」と言われ、父親に「その子を連れてきなさい」と言われた。そして、主はその父親と前述の会話を交わされたのち、汚れた霊に向い「私の命令だ。この子から出て行け。二度と子の子の中に入るな」と叱られた。すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死人のようになったが、主が手をとって起こされると、立ち上がったのである。

私の体験でこういうことがあった。夜の集会中に小学生の男の子が居眠りを始めた。サタンはそこに居る者の中で一番弱い者を狙うようである。すると、その子の口から大人のような低音声の唸り声がでた。明らかにサタンが集会を妨害しに来たのが分かったので、側に行き、その子の頭に手を置いて祈った。するとその子に取りついている霊が私に向って抵抗するのを感じた。だが、構わず異言で祈り、心の中で「主イエス・キリストの御名によってサタンよ去れ!」と強く命じた。すると、たちどころに霊が去り、その子がパッと目を開けて正気に戻ったのである。

弟子たちがひそかに「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねると、イエス様は「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。

イエス様には祈りによる権威と力が常に持っておられた。私たち牧師にも、神の教会を預かる者としてイエス・キリストによる権威が授けられている。 マタイ18:18~20参照

「信ずる者には此等の徴、ともなはん。即ち我が名によりて悪鬼を追ひいだし、新しき言(ことば)をかたり、蛇を握るとも、毒を飲むとも、害を受けず、病める者に手をつけなば瘉(い)えん」 
マルコ16:17,18




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シモン・ペテロ答ふ
『主よ、われら誰にゆかん、永遠の(とこしへ)の生命(いのち)の言(ことば)は汝にあり。又われらは信じ、かつ知る、なんぢは神の聖者(しゃうじゃ)なり』 ヨハネ6:68,69

清純にして潔い言葉だ。 使徒シモン・ペテロの主イエス・キリストに対する信仰告白である。

この言葉がペテロの口から発せられる経緯(いきさつ)がヨハネ伝6章に書かれている。

主イエス・キリストが五つのパンと二つの魚をもって5千人に分け与え、その余りが十二の籠に満ちた奇蹟である。

翌日、主と群衆との間でカぺナウムの会堂でパンの事に就いて問答が交わされた。

主は 『われは生命のパンなり』 と言われた。そして更に 『我は天より降りし活けるパンなり、人このパンを食はば永遠に活くべし。我が與ふるパンは我が肉なり、世の生命のために之を與へん』 と言われた。

群衆には、主の語る 『我が與ふるパンは我が肉なり』 という言葉の意味が分からなかった。彼らにはパンと言えば、常日頃食べるパンか、昨日食べた奇蹟のパンのことしか思い当たらなかったのである。そこで互に争論になった。

主は皆を静めて更に言われた。

『まことに誠に、なんぢらに告ぐ、人の子の肉を食はず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。わが肉をくらひ、わが血をのむ者は永遠の生命をもつ、われ終りの日にこれを甦へらすべし。夫れわが肉は眞の食物、わが血は眞の飲物なり。・・・ 』

多くの俄か弟子たちは、これを聞いていよいよ分からなくなって「この人を食べよとは、どういうことか」と口々に呟いて言った。

主は、彼らの躓いたことを知って言われた。『活かすものは霊なり、肉は益する所なし、わが汝らに語りし言(こと)は霊なり生命なり』  と。

これを聞いて俄か弟子たちの多くはかえり去って、再び主と共に歩まなかった。

主も寂しく感じられたのか、弟子たちに向って 『なんぢらも去らんとするか』 と問われた。

ペテロは、代表し決然として言った。

『主よ、われら誰にゆかん、永遠の生命の言は汝にあり。又われらは信じ、かつ知る、なんぢは神の聖者なり』

誠に主は十字架に架り、神の羔羊となって御体を裂き、贖いの血を流してくださった。この事実を信じ、水と霊とのバプテスマを受ける者は皆救われる。神の子とされ、永遠の生命を約束されるのである。

『まことに誠に汝に告ぐ、人は水と霊とによりて生れずば、神の國に入ること能はず』
ヨハネ3:5

神の御霊を受け、真理を悟った者は皆同じく アアメンと言おう。



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