当時の大丸藤井 HPより
現在の大丸藤井セントラル
人は二人の主に兼事(かねつか)ふること能はず、或は、これを憎み、かれを愛し、或は、これに親しみ、かれを軽しむべければなり。汝ら神と富とに兼事ふること能はず。
マタイ6:24
遠い昔22歳の若かりし時の証であるが、私にとって忘れることのできない、否、骨身と魂に染みわたっている証がある。
イエス様に救われて2ヵ月後、導かれて教会の仕事をすることになった。丁度父が肺結核で入院してから2年経ち、給料が3分の1カットされた時であったので、報酬は、家計の穴埋めとなり、小遣いとして与えられた1千円は貴重な宝であった。
その時は、自分が牧師になるなどとは夢にも思わず、教会の事務員になり、家を助ける仕事を得て良かったと思い、余暇には好きな絵を描いていたのである。
所が、教会の仕事量が増えていき、少なからず戸惑いを感じていた時に開いた聖書の御言葉が、上記の聖句であった。そこで教会に来られた或る先生に尋ねると、「何事でも神を第一にしなさい」と返事が返ってきたので、自分は神に従い、教会の仕事に進もうと心を定め、画材を全部仕舞い、夢見た画家への道から離れたのである。
それから半年ほど経った或る日、試みの時が来た。教会の用事で札幌の中心街に行き、仕事を終えて電車の停留場に立ったのだが、目当ての電車の姿形は見えず、ふっと思ったのは、すぐ後ろには大丸藤井の展覧会場がある。先ごろまで足繁く通いなれた店である。
すっと2階の会場に入り、絵を2、3点観たところで、神様との約束を思いだし、階段を下りた。
その時、神様からの不思議な取り扱いを受けたのである。
突然体が雲の上に乗ったような感じがし、そして強い力で背中を押されて、店内の何にもぶつかることなく、足早に歩かされて、気が付いた時には店の出入り口立っていた。
風に頬を撫でられて、ふと見ると、目の前には乗るべき電車が停まっているではないか!
慌てて飛び乗って、(今のは何だったのだろう)としきりに考えながら教会に戻った私は、今あったことを牧師のN先生御夫妻に話した。そして「それは、天使ですよ」と教えられたのである。
この経験が、自分は己によってではなく、神によって牧師に選ばれ、立てられているのだという自覚になっている。
ペテロが主イエス様の「我に従い来たれ、さらば人を漁る者となさん」とのお言葉に從った如く、またパウロがダマスコ途上で主の光と御声を聞いて從った如く、主はそれぞれの神の器に持ち給う御計画を為されていくのだと思う。
「人よりに非ず、人に由るにも非ず、イエス・キリスト及び之を死人の中より甦へらせ給ひし父なる神に由りて使徒となれるパウロ」 ガラテヤ1:1
その上で、水と霊との全き福音を宣伝える者として歩み、神を第一として歩むならば、主がその人の凡てとなってくださると確信するのである。
まづ神の國と神の義とを求めよ、然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし。この故に明日のことを思ひ煩ふな、明日は明日みづから思ひ[煩はん。一日の苦労は一日にて足れり。
マタイ6:33,34