道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年03月

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或る所で主イエス・キリストがお祈りをされた。それが終わったとき、弟子の一人が言った。「主よ、ヨハネがその弟子に教へし如く、祈ることを我らに教へ給へ」と。 ルカ11:1

主は、これに答えて、教えられた。「主の祈り」と言われている祈りである。

「天にいます我らの父よ、願くは、御名の崇められん事を。御国の來らんことを。御意の天のごとく、地にも行はれん事を。我らの日用の糧を今日もあたへ給へえ。我らに負債(おひめ)ある者を我らの免(ゆる)したる如く、我らの負債をも免し給へ。我らを嘗試(こころみ)に遇(あは)せず、悪より救ひ出したまへ」 マタイ6:9~13 ルカ11:2~4

祈りとは、何か?霊なる神との語らいである。単にご利益信仰のように願い事のみを並び立てるのではなく、最初に御名の崇められん事をとある如く、栄光を主に帰し奉る所から祈りは始まるのである。先ず、天地の創造者なる主を崇め奉る、これこそ造られた我らの為すべき事である。

次いで、御国の來らんことを祈れと主は言い給う。今や世界は混沌としている。人の犯した罪の故である。闇の世界の支配者である悪魔の手立てに嵌っている人々の如何に多きことよ。その中より救われる道は唯一つ、水と霊とのバプテスマに与る事のみである。而して主の再臨を待ち望めと主は言い給うのである。

御意が天で行われている如く、地に於いても為されたならば、如何に幸いであろう。教会はそういう所である。天国の雛形のような所である。やがては天国の一員となる、否既に神の子である我らである。主の御霊を受け、一つバプテスマを受けて、主の御名を衣せられ、主の御業を日々味わい、感謝と讃美を捧げつつ歩む、この至福の道を誰が奪い得ようか。

我らの日用の糧を今日もあたへ給へと祈れと主は言い給う。旧約のイスラエルの民は日ごとに降るマナを頂いた。今日の我らはイエス・キリストの御体なるパンと御血なるブドウ汁に与っている。即ち、教会で頂く聖餐である。また、聖書を繙き、御言葉を拝読する。即ち、霊の糧を頂ける。これにより我らの信仰は培われ、霊性は倍増する。そしてまた、凡ての必要を今日も豊かに与えられて行く。生ける神の御力を其処に見る。

負債ある者を免せと主は言われた。ああ、人を赦すことの如何に難きことか。だが、主は「人もし右の頬をうたば、左をも向けよ。下衣を取らんとする者には、上衣をも取らせよ」と言い給う。そして、主は、我ら凡ての者の罪を贖う為に十字架に懸かり、生命の代を払ってくださった。その十字架上で、主は「父よ、彼らを赦し給えへ。その為す所を知らざればなり」と祈られたのである。

我らを嘗試に遇はせず、悪より救ひ出したまへと祈れと主は言い給う。ペテロも斯く勧めている。慎みて目を覚しをれ、汝らの仇なる悪魔、ほゆる獅子のごとく歴廻(へめぐ)りて呑むべきものを尋ぬ。なんぢら信仰を堅うして彼を防禦(ふせ)げ。ペテロ前3:8,9

主の祈りは、言葉の祈りとして最高のものであり、模範を示している。

同時に、人皆顔が違うように、祈りの内容も千差万別であって様々な祈りがあって然るべきである。また言葉の祈りのみに留まらず、御霊の祈り、即ち異言の祈りがある。これは、御霊を受けた者のみが為しうる賜物である。エペソ6:18 我らは常時異言を以て主に祈り、主を崇め、感謝を捧げることができるのだ。
 
「我らは如何に祈るべきかを知らざれども、御霊みづから言ひ難き歎きをもて執成し給ふ」とは、異言の祈りの事である。ロマ8;26

        img031a 2ロトの妻 MountSodo                                           
                      ソドム山にあるロトの妻の岩


アブラハム言ふ わが主怒らずして今一度言しめたまへ 若しかしこに十人看(み)えなば如何 ヱホバ言たまひけるは 我十人のためにほろぼさじ 創世記18:32

カナンの地でアブラムと甥のロトは共に富める人となった。持物の羊や牛など家畜が互に増えたために、双方の牧者の間で争いが起きた。アブラハムはロトに語って、別々の場所で家畜を飼おうと提案した。

ロトが見るに、ヨルダンの低地帯が潤っていたのでこれを選び、別れて行きソドムに住んだ。ソドムの人々は悪しく、神の前に大なる罪人であった。

一方、アブラムは高台に住んだが、神の恵みにより広大な土地と子々孫々に至る祝福を約束されて増々栄えて行った。

或る日、アブラハム(改名)は三人の旅人の来訪を受ける、それは、神ご自身と二人の御使いが人の姿をとって現れたのである。そして神が定めた二つの秘密の計画を啓示してくださった。

第一は、翌年百歳になろうとするアブラハムと九十歳になるサラに男の子を授ける約束である。 第二は、ロトの住む町ソドムの悪が天に達したので、火を降して滅ぼそうと云うのである。  

これを聞いて、アブラハムはロトの生命の救われん事を求めて、心が焼けるようになり、執成しの嘆願を神にするのである。

アブラハムは神に近づき「なんぢは義者をも悪者と俱に滅ぼし給ふや 若し邑(まち)に五十人の義者あるも汝なほ其の処を滅ぼし 其の中の五十人の義者のためにこれを恕(ゆる)したまはざるや なんぢ斯くの如く為して義者と悪者と俱に殺すが如きは是あるまじきことなり・・・。」 神は彼の願いを聞き入れて義者が五十人いるならばソドムを赦すと答えられた。アブラハムは「では、五人欠けて四十五人では如何ですか」と尋ねた。神は「四十五人いれば滅ぼさない」と言われた。「では、四十人では如何でしょう」 「宜しい」 「では、三十人では」 「宜しい」 「ならば、二十人では如何」 「宜しい」 「わが主よ怒らずして今一度言しめたまへ 若し かしこに十人看(み)えなば如何」 「我十人のためにほろぼさじ」 アブラハムの切なる願いを聴きいれて、神は義者が十人いればソドムの町の罪を赦すと言われたのである。

だが、ソドムの町に義者は十人いただろうか。二人の天使がロトの家を訪れると、町中が騒ぎ立ち、二人を出せとロトに詰め寄った。ロトの家族のほかに義者はおらず、救わるべき者はいなかった。斯くてソドムの滅びは決定した。

ソドムの町が滅んだ日、ロトと妻と二人の娘はゾアルの町に逃げた。天使は決して振り返るなと警告しが、天から火が降った瞬間、「ロトの妻は後ろを回顧(かへりみ)たれば塩の柱となりぬ」となった。19:26 「ロトの妻を憶(おも)へ」と主は諭される。 ルカ17:32

神は「ただ一人の亡ぶるをも望み給はず、凡ての人の悔改めに至らん事を望みて、汝らを永く忍び給ふなり。 ペテロ後3:9


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会堂司のヤイロが主イエス様の御許にきて、「いまわの際の娘に手をおいて下さい。そうすれば救われて活きます」とお願いしたので、主は彼と共に行かれ、大勢の群衆もあとに從った。その途上であった出来事を聖書で読もう。

「爰に十二年、血漏を患ひたる女あり。多くの醫者に多く苦しめられ、有るてる物をことごとく費したれだ、何の効なく、反って増々悪しくなりたり。イエスの事をききて、群衆にまじり、後に來りて、御衣にさはる、『その衣にだに触らば救はれん』と自ら謂(い)へり。斯くて血の泉、ただちに乾き、病のいえたりを身に覚えたり。イエス直ちに能力(ちから)の己より出でたるを自ら知り、群衆の中にて、振り返りて言ひたもふ『誰か我の衣に触りしぞ』 弟子たち言ふ『群衆の押迫るを見て、誰が我に触りしぞと言ひ給ふか』 イエスこの事を為しし者を見んとて見回し給ふ。女おそれ戦き、己が身になりし事を知り、來りて御前に平伏し、ありしままを告ぐ。イエス言ひ給ふ『娘よ、なんぢの信仰なんぢを救へり、安らかに往け、病いえて健やかになれ』」 マルコ5:25~34

このご婦人は十二年もの長い間、血漏(ちろう)を患い、二進も三進も行かない状態になった時に、主イエス様に出会ったのである。目の前を通られるイエス様を見て、恥も外聞もなく、救われたい一心で、衣に触れるだけでも好いと自分に言い聞かせ、信仰を込めて手を伸ばして、御衣に触れたのである。その途端に、血の泉が乾き、病が癒やされたのを知った。

一方、主イエス様は、癒やしの力がご自分から出ていくのが分かり、『誰が我の衣に触りしぞ』と言われたのである。イエス様のお体には神の御霊の力が満々と漲っておられた。そこへご婦人の信仰の手が伸ばされた瞬間、堰を切った水の如く、癒やしの力がお体からどっと出ていくのを自ら感じられたというのである。

ペンテコステの日に約束の聖霊を受けた弟子たちは、主より力を受けて癒しの業を行い、福音を宣伝えた。私たちとて同様にイエス之御霊教会の牧師、伝道者は、主から頂いた聖霊の力によって伝道し、病ある者には主イエスの名によって油を塗り、手をおいて祈る時、臨在される主がその場において癒しの御業を為されるのである。

その後、ヤイロの娘の許に向われるのだが、娘ははや亡くなっていた。然し主は泣き叫ぶ家族、親族らを外に出して、両親と弟子たちのうちペテロ、ヤコブ、ヨハネの三人だけを連れて娘の許に行き、その手を執り、『タリタ、クミ』と言われた。「少女よ、我なんぢに言ふ、起きよ」との意である。すると直ちに十二歳の娘は甦えり、歩んだのである。

その後、主は己が郷に行くのだが、その町の人々は、主を木匠(たくみ)としてのみしか見ず、救い主とみる信仰がなかったので、主は、何もできなかったとある。信仰なくして神に喜ばれること能わずとはこういう事である。主は信仰のある人々を喜び給う。主もまた働き易いのである。

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