道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年04月



御國のこの福音は、もろもろの國人に證をなさんため全世界に宣傳へられん、而して後、終は至るべし     マタイ24:14

オリブ山に坐し給ふとき、弟子たち窃(ひそか)に御許に來りて言ふ 『われらに告げ給へ、これらの事は何時あるか、又なんぢの來り給ふと世の終とには何の兆(しるし)あるか』
イエス答へて言ひ給ふ 『なんぢら人に惑わされぬやうに心せよ。多くの者わが名を冒し來り 「我はキリストなり」と言ひて多くの人を惑さん。又なんぢら戦争(いくさ)と戦争の噂とを聞かん、慎みて懼るな。斯る事はあるべきなり、然れど未だ終にはあらず。
即ち 「民は民に、國は國に逆ひて起たん」また處々に饑饉と地震とあらん、此等はみな産の苦難(くるしみ)の始めなり。・・・』
  マタイ24:3~8

最近我が国の近辺できなくさい臭いが漂っている。己が力を誇示して他を脅そうとする気配を感じる。何か起きるのではないかと不安に思う人も少なくない。

だが、これは今に始まったことではなく、元を糺せば、人類の祖アダムとアバが犯した原罪により、罪の根が人の心を支配し、カインがアベルを殺したことを始めとして、嫉み、妬みなど良からざる思いを懐き、良からざる行動に走り、遂には自らの亡びを招いた歴史の繰り返しを見るのである。

アダムよりノアに至る人類初期の時代は、その罪の故に審かれ、洪水を以て滅んだ。次にはノア以後、現在を含めて将来に至る罪の世もまた審かれ、火を以て焼かれようとしている。 

世の人々は、斯く定められた神の経綸を知らない。或いは知ったとしても信じない。それはノアの時代の人々も同様であった。

神は、人を罪より救うために預言者を遣わし、覚醒させようと努められたが、人は信じようとはせぬゆえに、最後に神、人となり世に現れ、主イエス・キリストに由って救いを与える道を開き給うた。

我らは主イエスを信じ、水と霊のバプテスマを受けて新生し、目覚めて此の経綸を知り、神の側に立つことができるのである。

主イエス・キリストは救主として現れ給うたが、次には審判主として現れ給うのである。これを主の再臨という。その日その時を知る者なし、天の使たちも知らず子も知らず、ただ父のみ知り給うのである。既に来られたという人がいても信ずな、為し得べくば選民をも惑わさんとする故に惑わされるな。その日その時、主が栄光をもて天の雲に乗って降臨するを見、御使いをラッパの声をもって遣わし、我らを携挙してくださる御方こそ主イエス・キリストである。その両手には我らの罪の為に打たれた傷がある。              
マタイ24:23~36参照 ゼカリヤ13:6

我らは何時主が来られても良いように備えせよと勧められている。

新郎を迎える十人の処女(おとめ)の内、五人は愚かで五人は賢かった。愚かな処女は灯火をとったが油を携えず、賢い処女は油を器に入れて灯火とともに携えていた。新郎の到着が遅かったので皆微睡んだ。夜半に「新郎到着!」の知らせで飛び起きた。灯火に油を備えた賢い処女は新郎を迎えることができたが、愚かな処女は油が無く、灯火が消えそうになって新郎を迎えることができず、外の暗黒に追い出され、婚筵に入れなかったとある。 マタイ25:1~13 油とは、聖霊のことである。水と霊とのバプテスマを受けて主の来たり給う日を待とうではないか。






獄守(ひとやもり)言う 『君等(きみたち)よ、われ救はれん為には何をなすべきか』 二人は言ふ 『主イエスを信ぜよ、然らば汝も汝の家族も救はれん』 斯て神の言を獄守とその家に居る凡ての人々とに語れり。この夜、即時に獄守かれらを引取りて、その打傷を洗ひ、遂に己も己に属する者もみなバプテスマを受け、かつ二人を自宅に伴ひて食事をそなへ、全家とともに神を信じて喜べり。 使徒行伝16:30~34


私達は主イエス・キリストを信ずるにあたり、家族の中で自分一人だけ救われれば良いというのではなく、全家族が救われるのを願って祈り進むのが常道である。私たちが主を信ずれば、全家が救われると、これは約束であるから必ず成就すると信じて伝道するのが良いのである。私の親兄弟も皆救われた後に、親戚への伝道を行った。世の色々な宗教を信ずる人々であったが、次々救われて行ったのである。

主に感謝して止まない事の一つに母方の祖母の救いがある。

祖母が聖霊を受けたのは昭和28年の事で、82歳であった。先祖は奈良の人だが、水害に遭って北海道に移住してきたのである。祖母は生来、琴や華道の師範をしていた人で、花の仕入れなどは祖父がしていたが、既に亡くなっていた。祖母は、自らの事を「吾が身」と呼び、手紙は候文で書き、矍鑠とした明治の女性であった。

宗教的には、普通の日本的信仰をしていたが、若いころ心臓病を患い、人の勧めで願掛けをしたら良くなったので、一代法華で通そうと決心したという。そういう訳で、イエス様の証をしたが、なかなか頑固で聴きいれて貰えなかった。

その年の5月4日、叔父から「母危篤」の急電があり、母が出かけたので、私も後を追った。

行ってみると、祖母は心臓発作で虫の息であった。耳は聞こえるが目は見えず、唇は血の気が無く、紫色のチアノーゼが出ていた。近所の内科の医師が往診に来て、診察の結果もう幾らもないだろうから、何かあったら知らせて欲しいということだった。親戚の人たちが次々見舞いに来たが、どうすることもできず、ただ見守るだけで座ったきり時間が過ぎ、夜になった。

母は一生懸命異言で祈り、私も祈った。御霊を受けていない人たちから見たら異様に感じたことだろう。 コリント前14:23

だが、私は引き下がる訳にはいかない。「このまま亡くなっては滅びだ。主よ是非とも救って下さい」と切なる思いで祈っていると、不思議や心の中から「癒されるぞよ」と云う小さな声が湧いてきた。と思うや、その声は次第に大きくなってきて、遂に聖霊に満たされて大声で「汝らのおばあさんは癒やされるぞよ!」と預言が出た。続いて「十字架の御血潮により、ただ今此処に癒しの御手が伸べられました」と預言させられたのである。皆が唖然としていただろう中で、御霊の取り扱いを受けて「癒されたり、癒されたり」と預言し、祈り続けた。

祈りが静まって、ふと我に返って祖母を見ると、眼を開けているではないか。「おばあさん、見えるの?」と尋ねると、うんと頷く。周囲が驚いて騒がしくなった。と思うや否や、祖母が起きようとし始めた。厠に行きたいというのである。こんな重病人が厠へ?!それは無理だと皆で押し止めようとしたが、這いながら行ったのである。「信仰の力って恐ろしいものだね」と叔母の一人が言った。

祖母が寝床に戻り皆が一安心した時に、御霊が私に福音を語れと命じられたのである。祈ると「それ神はその獨子(ひとりご)を賜ふほどに世を愛し給へり、すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」と聖言が与えられた。 ヨハネ3;16  これを始めとして創世記から十字架に至るまでのことを語ったのである。それから親戚の人たちと言葉を交わし、凡てが終わった時には夜半を過ぎていた。

翌日、内科の医師が具合はどうかと心配して聞きに来られたが、「良くなりました」との返事にまさか?とあっけに取られた感じで帰って行かれた。医学的にも不思議に思われたことであろう。

数日してから祖母を尋ね、イエス様の癒しを話すと頷いて素直に聞いてくれたので、牧師にお願いして聖霊待望をし、受霊したのである。それから、暫く経ってから平安の中に天に召されたのだった。

翌昭和29年9月16日、北海道で最初の身代わり洗礼が鴨々川で行われた。母が祖父、祖母のために受けたのは勿論のことである。それと福音を聞いた親戚の中で救われた人たちもいて、それが今現在も続いているので神の為せる業だと思い、感謝するのである。

  我と我家とは共にヱホバに事(つか)へん 
ヨシュア24:15




イエスによる信仰は汝等もろもろの前にて斯る全癒を得させたり。
                            
 使徒行伝3:16


エルサレムの美しの門の傍らに毎日かかれてくる生まれながらの跛者(あしなへ)の人がいた。宮に出入りする人々から施済(ほどこし)を乞うためであった。彼は働くこともできず未来の希望も持てず、自分の身の不幸を嘆くのみだったに違いない。抱えてくる人とて彼に経済的支援をする余裕などなく、この場所へ連れてくるだけで精一杯だったことだろう。その日も彼はいつものように門の傍らに置かれ、宮詣でに来る人々に施しを乞うていた。

主なる神は、この人に目をとめられた。「神は智(かしこ)き者を辱しめんとて世の愚なる者を選び、強き者を辱しめんとて弱き者を選び、有る者を亡さんとて世の卑しきもの軽んぜれるる者、すなはち無きが如き者を選び給へり。これ神の前に人の誇る事のなからん為なり」 とある如く、彼はその場に於いて一番小さく、哀れな存在であった。 コリント前1:27~29

この時、ペテロとヨハネの二人が祈ろうとして宮へやってきた。そして彼に目をとめ、「我らをみよ」と言った。彼は何か受けることができるのかと思い二人を見つめると、ペテロが言った。「金銀は我になし、然れど我に有るものを汝に與ふ、ナザレのイエス・キリストの名によりて歩め」 そして右手を執って起こすと、不思議や奇蹟が起きた。即ち「足の甲と踝骨(くるぶし)とたちどころに強くなりて、躍り立ち、歩み出して、且あゆみ且をどり、神を讃美しつつ彼らと共に宮に入れリ。民みな其の歩み。また神を讃美するを見て、彼が前に乞食(こつじき)にて宮の美麗門に坐しゐたるを知れば、この起りし事に就きて驚駭(驚き)と奇異(あやしみ)とに充ちたり」 使徒3:6~10

この出来事を目撃した多くの人々がソロモンの廊に集まって来た。ペテロとヨハネにとって福音を語り、主イエス・キリストを証する絶好の時が巡ってきた。

ペテロは立ち上がって大胆に民に語った。『汝らは、この聖者・義人を否みて、殺人者(バラバ)を釈さんことを求め、生命の君を殺したれど、、神はこれを死人の中より甦へらせ給へり、我らは其の証人なり。斯くてその御名を信ずるに由りてその御名は、汝らの見るところ識るところの此の人を健(つよ)くしたり。イエスによる信仰は汝等もろもろの前にて斯る全癒を得させたり。・・・』 更に、『神アブラハムに告げ給はく 「なんぢの裔(すゑ)によりて地の諸族はみな祝福せらるべし」 神はその僕を甦へらせ、まづ汝らに遣し給へり、これ汝ら各人(おのおの)を、その罪より呼びかへして祝福せん為なり』 同3:14~26参照

二人が民に語っている時に、祭司長らが近づいてきて、群衆にイエスの事を引いて死人の中より復活したことを宣べるのを憂い、捕えて留置場に入れたが、勝利したのはどちらか? 先刻二人から福音を聞いた人々の中に男の数凡そ五千人が信じたとあるのだ。

教法師達からみれば、無学の凡人(ただびと)に過ぎない使徒たちは語るなと禁じても語り続け、拠り所のない人々をも用いて神は御業を為し遂げ、ご自身の福音を伝えしめ給うた。凄いことではないか。
 
癒やされたこの人も、自分を巡る使徒たちの命がけの伝道と迫害の嵐をつぶさに見て、奮い立ったことだろう。そしてまた自らも5千人の中の一人として主を信じ、聖霊のバプテスマと、主イエスキリストの名による水のバプテスマを受けて確かなる救いを得たことは想像に難くない。

イエスの御名に栄光あれ。ハレルヤ!


             17-04-08 エリヤ昇天 


エリシャいひけるは なんぢの霊の二(ふたつ)の分の我にをらんことを願ふ 
                                                   列王下2:9

エリシャの師であるエリヤは、北王国イスラエルの預言者であった。時の王アハブは、シドン人の娘イゼベルを妻に娶り、その感化によりバアルに仕え、これを拝み、またアシラ像を祀つり神の怒りをかった。

預言者エリヤは敢然と王に立ち向かい、真の神を信ぜよと語り、そうでなければ数年雨露が降らないと迫った。これを王が拒否したので、3年6か月の旱魃が始まった。

そして後、カルメル山頂でエリヤ一人対 偶像教の預言者850人の祈り比べが行われ、天からヱホバの火が降ってエリヤの大勝利となった。

だが、エリヤはイゼベルの復讐を恐れ、逃げて神の山ホレブに到った。神はエリヤを励まし、後継者としてエリシャに膏を注ぎ、預言者とならしめよと命じられた。

エリヤがエリシャに遇った時、彼は12軛の牛の後ろにいて、畑を耕していた。エリヤは近寄って彼に外套をかけた。(我がものとなれ)の意である。エリシャは牛を棄て、両親と土地の人々に別れを告げた後、エリヤに從い事えた。かの12使徒が主イエス・キリストに從った如くである。 列王上19:19~21 やがてアハブも死に、その子アハジヤが王となった。

エリヤが使命を終え、エリシャに後を託し、大風をもて天に昇る日が来た。ギルガルを出て、ベテルに行くとき、エリヤはエリシャに「ここに止まれ、私はベテルに行く」と言ったが、エリシャは「ヱホバは活く 汝の霊魂は活く 我なんぢを離れじ」 と言って共にベテルに行った。

ベテルの預言者の徒(ともがら)は、エリヤが昇天することを知っていて、エリシャに「あなたは知っているか」と尋ねた。「然り  われ知れり  汝等黙すべし」 と彼は答えた。

エリヤは、エリシャに「神が私をエリコに遣わすからここに止まれ」と言ったが、彼は「離れずに行く」と言って偕にエリコに行った。

エリコの預言者の徒も同じくエリヤの昇天を知っていて、エリシャに「知っているか」と尋ねた。「然り  われ知れり  汝等黙すべし」 とエリシャが答えた。

エリヤはエリシャに「ここに止まれ、神は私をヨルダンに遣わし給う」と言ったが、エリシャは「離れずに行く」と言って從った。師の行く所は、いずこにも行かんとは、弟子の心であり、主の教える所である。

既に人の状にて現れ、己を卑うして死に至るまで、十字架の死に至るまで順ひ給えり。 ピリピ2:8  

遂に二人はヨルダン川に着いた。エリヤが外套を巻いて川面を叩くと、水は二つに分かれて道ができ、難なく対岸に立った。預言者の徒50人程がその様子を見ていた。

エリヤが分かれるに際して「何か願い事があるか」と尋ねると、エリシャは「あなたの霊の二つの分を私に下さい」と言った。思うにエリヤが去った後、自分に同じことができるだろうか彼には自信がなかった。エリヤの霊が共にいてくれたらどれ程心強いことかと、察して余りある。

エリヤは「汝難き事を求む」と言い、「汝もしわが取られてなんぢを離るゝを見ばこの事なんぢにならんしからずば此の事なんぢにならじ」と答えた。

復活の主イエスもまた「聖霊を受けよ」と言い、「わが去るは汝らの益なり。我さらずば助主なんぢらに来らじ、我ゆかば之を汝等に遣さん」と言われ、「汝らは日ならずして聖霊にてバプテスマを施されん」と言い給うた。そしてその日より弟子たちは能力を得て主の証人となったのである。

エリヤとエリシャが語っていうとき、天から火の馬と火の車とが現れ、二人を隔てた。と思う間もなくエリヤは大風に乗って天に飛び去った。エリシャがエリヤの名を呼び、「わが父 わが父 イスラエルの兵車よ その騎兵よ」と叫んだが、はや姿は見えなくなっていた。

エリシャが落ちてきたエリヤの外套を巻いてヨルダンの川面を叩くと、水が左右に分かれて、乾ける道を通って戻ってきた。これを見た預言者の徒は「エリヤの霊がエリシャの上にとゞまる」と驚き、エリシャを迎えに来て、その前に平伏したのである。

変貌山の頂で、主イエス・キリストはモーセとエリヤと共に逝去の事を語りあった。主の再臨の日に、モーセは復活に与る者として、エリヤは死せずして栄光体に化せられる者として主と共に在ることを弟子たちは目の当たりにしたのである。ハレルヤ!



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祭の終の大なる日にイエス立ちて呼はりて言いたまふ 『人もし渇かば我に來りて飲め、我を信ずる者は、聖書に云へるごとく、その腹より活ける水、川となりて流れ出づべし』 これは彼を信ずる者の受けんとする御霊を指して言ひ給ひしなり。イエス未だ栄光を受け給はざれば、御霊いまだ降らざりしなり。 ヨハネ7:37~39

祭とは、同書6:4に記されている過越しの祭である。モーセの時代以来、イスラエルの人々が営々として守ってきた祭りである。彼らは、羔羊を屠ってその血を塗り、贖いの徴となし、七日の間、酵なしパンを食べて祝った。

その年の過越しの祭にも、世界の各地から来た多くのユダヤ人でエルサレムの町は溢れていた。その最終日に主イエスは立ち上がって、活ける水である御霊を受けよと叫ばれたのである。過越し、即ち十字架の延長上に聖霊降臨があるのだ。

御霊の注ぎに就いては、預言者たちも予め語っていた。

イザヤは言う。噫(あゝ)なんぢら渇ける者ことごとく水にきたれ 金なき者もきたるべし 汝等きたりてかひ 求めてくらへ きたれ金なく價なくして葡萄酒と乳とをかへ イザヤ55:1

エゼキエルも言う。「凡そ此河の往ところには諸々の動くところの生物(いきもの)みな生ん 又甚だ衆多(おほく)の魚あるべし 此水到るところにて醫(いや)すことをなせばなり 此河のいたる處にては物みな生べきなり」 エゼキエル47:9

先駆者バプテスマのヨハネも「我は汝らの悔改のために、水にてバプテスマを施す。されど我より後にきたる者は、我よりも能力あり、我はその鞋をとるにも足らず、彼は聖霊と火とにて汝らにバプテスマを施さん。・・・」と言った。 マタイ3:11

主イエスも自らサマリヤの女に、ヤコブの泉の傍らで 「すべて此の水をのむ者は、また渇かん。然れど我があたふる水を飲む者は、永遠に渇くことなし。わが與ふる水は彼の中にて泉となり、永遠の生命の水湧きいづべし」と言い給うた。 ヨハネ4:13,14

イスラエルに於いては、雨季と乾季とがあり、雨季は待たれる時期であった。「視よ、農夫は地の貴き實を、前と後との雨を得るまで耐忍びて待つなり」とヤコブ5:7あるが、教会に於いては前の雨は、初代教会におけるペンテコステの聖霊降臨であり、後の雨は、20世紀になってからの聖霊降臨であって、今やその真っ只中に置かれているのである。正に恵みの雨の時代である。

我なんぢらの地の雨を秋の雨春の雨ともに時に随いて降し 汝らをしてその穀物を収入(とりいれ)しめ 且酒と油を獲せしめ 申命記11:14 とある。

シオンの子等よ 汝らの神ヱホバによりて楽しめ喜べ ヱホバは秋の雨を適當(ほどよく)なんぢらに賜ひ また前のごとく秋の雨と春の雨とを汝らの上に降せたまふ ヨエル2:23 と預言されている所である。


我らもまた、主より約束の御霊を受けて、生命の水を得た証人となった。我らの内には神の御霊が脈々と息づいている。ハレルヤ!感謝である。

我らの教会は、イエス之御霊教会教団に所属する教会であり、天に連なる教会である。主もまた偕にあって大いに働き給う教会である。

今願う事は、「ペンテコステの日に弟子に加わりたる者、おほよそ三千人」と記されたる如く、主の御手によって救いの御業が為され、聖霊の大雨が降り、大いなるリバイバルの起らんことを!である。
アアメン、ハレルヤ!












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