道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年05月


           img040 2017-05-27 ヤコブとエサウ


  二つの國民(くにたみ)汝の胎にあり 二つの民汝の腹より出て別れん
  一つの民は一つの民よりも強かるべし (あに)(おとうと)に事(つか)へん

                                                                創世記25:23
    

 ◎ はじめに

イサクとリべカの結婚は、神に導かれ祝福されたすばらしいものであった。ところが子どもが授からず、40歳で結婚したイサクも60歳になろうとしていた。

同じ天幕に住む父のアブラハムは、137歳で10歳年下の妻サラに先立たれたが、ケトラと再婚して六人の子をもうけていた。これではイサク夫婦も焦ろうものを・・・。

そこで主なる神の前で祈願をすると、主はこの願いを聴かれて、遂にリべカはみごもったのだが、子が胎内で押しあったので、リべカが「こんなことでは、わたしはどうなるでしょう」と行って主に尋ねた。すると主が、彼女に言われたのが先の御言葉である。

臨月がきて子が生まれると、双子であった。前に生まれた子は、赤くて全身毛深かったのでエサウ(赤)と名付けられ、後に生まれた子は、エサウの足首を掴んでいたのでヤコブ(推除者おしのくるもの)と名づけられた。後に主によってイスラエルと改名する。

 ◎ 家督の権

エサウは狩猟が得意で、山野を駆け巡り鹿肉をイサクに携えて行ったので父に愛された。一方ヤコブは穏やかな人で天幕に住んでいたので母リベカに愛された。ヤコブは家の事に関心があった。

家督の権=長子の特権は、エサウにあるのだが、彼は鹿を追いかけるに忙しく、家のことは全く無関心であった。ヤコブにとってそれが狙い目であった。そしてエサウは一飯のために長子の特権をヤコブに売るのである。

 ◎ 祝福を受ける

アブラハムが主から受けた祝福はイサクに与えられ、またイサクがエサウを祝福しようとした時に、ヤコブ贔屓の母リベカが察知し、盲目のイサクを欺いて、ヤコブをエサウになり代わらせ、イサクの全ての祝福をヤコブが受けるに至った。その後に父の許に来たエサウに残された祝福は何一つ無かった。正にヤコブはエサウをその名のとおり押し除けたのである。

 ◎ 神の選び

その子いまだ生れず、善も悪もなさぬ間(うち)に神の選の御旨は動かず、行為(おこなひ)によらで召す者によらん為に『兄は次弟(おとうと)に事ふべし』と、レべカに宣給へり。『われヤコブを愛しエサウを憎めり』と録されたるごとし。 ロマ9:10~13

 ◎ 第二の人  ""  になる   コリント前15:42~58

1.第一の人、地より出て、土に属す    第二の人、天より出て、天に属す
2.血気の體、朽ちるもの、死ぬる者   霊の體、朽ちぬもの、死なぬ者
3.初めの人 アダム、             終りのアダム、イエス・キリスト
4.血肉は神の国を嗣ぐこと能わず     水と霊を受けて新生し神の国に入る





           2017-05-20 エステル


王かれに言けるは后エステルよ なんぢ何をもとむるや 汝の願意(ねがひ)は何なるや 國の半分(なかば)にいたるとも汝にあたふべし エステル書5:3

◎ エステル書の主なる登場人物
     アハシュエロス王      王なるキリストの型
     エステル            新嫁なる教会の型
     モルデカイ          聖霊の型
     ハマン             サタンの型
        ワシテ                   ユダヤ人の型
     エステル書の出来事は、王なるキリストと新婦なる教会の救いの型である。

◎  エステル書のあらすじと教訓

 大国ペルシャの王アハシュエロスは、酒宴を開き、后ワシテを呼んで、その美しさを民と牧伯に示そうとしたが、従わなかった故に后の位から落とした。 →肉のイスラエル人が、キリストを拒んだため、神に捨てられて世界中に散らされた。

 代わって新婦が選ばれ、エステルが后になる。  →教会は世の創の前よりキリストの中に選ばれた者である。

 モルデカイ(エステルの従兄で父親代り)が、エステルに知恵を授けた。 →助け主なる真理の御霊。

 ハマンが王に次ぐ地位に就く、傲慢になり、モルデカイとユダヤ人の抹殺を王に進言し、プル(籤)で殺戮の日を定めた。

 モルデカイはエステルに告げた。なんぢ若しこの時にあたりて黙して言ずば 他の處よりして助援(たすけ)と拯救(すくひ)ユダヤ人に興らん されど汝となんぢの父の家は亡ぶべし 汝が后の位を得たるは此(かく)のごとき時のためなりしやも知るべからず 4:14

 エステルは死を覚悟して王に接見を求めた。王は金圭を伸べて恩恵を与え、且問うた「后エステルなんぢ何をもとむるやなんぢの願意は何なるや國の半分にいたるとも汝にあたうべし」と。我らが霊と真を以て祈り得るのは、水と霊を受けて救われ、キリストの花嫁なる教会に入れられ、神に愛され恵みを与えられているからに他ならない。
 汝等のすべて父に求むる者をば、我が名によりて賜うべし。なんぢら今までは何をも我が名によりて求めたることなし、求めよ、然らば受けん、而して汝らの喜悦(よろこび)みたさるべし。 ヨハネ16:23,24

 エステルが王にハマンの悪計を告げたので、ハマンはモルデカイを殺さんとして己が立てた木に懸けられて処刑され、モルデカイとユダヤ人は救われた。
 ユダヤ人には光輝あり喜悦あり快楽あり尊榮ありき 8:16
 プルによって定められたユダヤ人殺戮の日は逆転し、仇なる人々の滅亡の日となった。斯くてその日はプリムと名付けられて、ユダヤ人の間で記念の日と定められた。

これらの出来事は、サタンが、神に敵し、教会を責め苦しめたとしても、最終的には教会が勝利することを語っている。

私達の祈りの中で、周囲の人々が救われるように祈ることが大切であると教えているのが此の書である。




          
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 わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり

                                      ヨハネ5:18

この後ユダヤ人の祭ありて、イエス、エルサレムに上り給ふ。
エルサレムにある羊の門のほとりにヘブル語にてベテスダという池があり、之にそひて五つの廊あり。その内に病める者・盲人・跛者(あしなへ)・痩せ衰へたる者ども夥多(おびただ)しく伏しゐたり。(水の動くを待てるなり。それは御使のをりをり降りて水を動かすことあれば、その動きたるのち最先に池にいる者は、如何なる病にても癒ゆる故なり) ヨハネ5:1~4

ベテスダとは、へブル語で「恵みの家」の意である。その名の如く多くの病人がここに連れられてきて、御使いによって癒される恵みの場所となっていた。集まった者は皆、癒されたい一心で水面が動くのを見逃すまいと目を見張り固唾を飲んでいたことだろう。そして水が動くや否や、我先に池に飛び込んだ。とにもかくにも一番先に入った者が癒やされたのである。故に病人の中でも比較的に元気な者、動ける者が先に癒やされてここを去り、弱い者、重い者がいつまでも取り残されることになった。

主が、ベテスダの池に来られた時、一人の病人に目をとめられた。

爰に三十八年、病になやむ人ありしが、イエスその伏し居るを見、かつその病の久しきを知り、之に 『なんぢ癒えんことを願ふか』 と言ひ給へば、『主よ、水の動くとき、我を池に入るる者なし、我が往くほどに他の人、さきだち下るなり』 5~8

数多くいる病人の中で主に目を留められるとは何と幸いなことか。これこそ世の創の前より主に選ばれた者ではないか。そして 「なんぢ癒えんことを願ふか」 と問うて下さるとは、ありがたき幸せの極みである。

主は命じて言われた 『起きよ、床を取りあげて歩め』 この人ただちに癒え、床を取りあげて歩めり。 9節 ハレルヤ!

だが、話はまだ半ばである。

その日は安息日に當りたれば、ユダヤ人、癒やされたる人にいふ 『安息日なり、床をあぐるは宜しからず』 答ふ 『われを癒しし人 「床を取りあげて歩め」 と云へり』 かれら問ふ 『「取りあげて歩め」と言ひし人は誰なるか』 されどその人は、その誰なるを知らざりき、そこに群衆ゐたればイエス退き給ひしに因る。 10~13

この後イエス宮にて彼に遇ひて言ひたまふ(宮で遇ったとは、彼が信仰者となったことを意味していると思うに難くない) 『視よ、なんぢ癒えたり。再び罪を犯すな、恐らくは更に大なる悪しきこと汝に起らん』 14  病と罪との関係を主は言われている。原罪がある故に病がある。また悪事や不摂生によって齎される病もある。後者は人為的なものであるから心せねばならぬと思う。

頭の固いユダヤ人にとってモーセによって与えられた律法を守る事は死活問題であった。安息日に業を行う事は律法に違反し、石打の刑に処すべきものであり、從ってイエスが為す業は死に価するものと考えられた。

この人ゆきてユダヤ人に、おのれを癒したる者のイエスなるを告ぐ。ここにユダヤ人かかる事を安息日になすとて、イエスを責めたれば、イエス答へ給ふ
『わが父は今にいたるまで働き給ふ、我もまた働くなり』

此に由りてユダヤ人いよいよイエスを殺さんと思ふ。それは安息日を破るのみならず、神を我が父といひて己を神と等しき者になし給ひし故なり。 15~18

「それ人の子は安息日の主たるなり」 マタイ12:8 と仰せになるイエス様は、私たちに安息を与えるために働いてくださった、十字架に架かり罪の払う値を支払ってくださった。此の事を感謝して、周りの人々にイエス様の福音を伝え、水と霊の救いに導こうではないか。




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