道央イエス之御霊教会ブログ

安息日礼拝で開かれた聖書の御言葉を始め、折々に導かれた御言葉を取り上げ、証などを交え掲載しています。皆様の訪問をお待ちしています。   -管理人-

2017年06月

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汝らの父は求めぬ前(さき)に、なんぢらの必要なる物を知りたまふ。
 マタイ6:8

先日の午後のこと、表に出ていると、駐車場である車庫にスカイブルー色の綺麗な車がスゥーッと入ってきた。突然の来客である。

「アッ、先生!これ持ってきました」 運転してきた姉妹が車を停めると手に紙包をもって降りてきた。どうやら私をご存じであるらしい。

ともかく会堂にお連れして、席に着いていただいた。

お話を聞くと、札幌出身の方で、東北のA教会で水と霊の救いを受け、今は関東のB教会を紹介されて礼拝に通っておられるとのこと。

このたびは、実家に来ていて親戚の方々とお墓詣りに行くことになっていて、姉妹はクリスチャンなので手を合わせることは無いのだけれども、花をもって行こうと思い、スーパーで500円の花を買ったら、籤引きがありますと言われ、籤を引いたら大当たりで、鶏の卵6ケースと、鶉(うずら)の卵6個入り6ケースと、レトルト食品2個が当たり、紙袋に一杯入っているのを貰ったので、籤に外れた人ふたりにに鶏の卵を1ケースづつ上げたら喜こばれたとのこと。

その後、札幌の友達に会ったので次々プレゼントし、それでもまだ余っている上、これから飛行機で帰るのに、たまごを持っては乗れないので、どうしようかと思ったら、教会があることを思いだし、持って行ってお捧げしようと思い、自分の教会に事の次第を伝えようとしたが、携帯は充電切れになりそうだったので連絡もできず、道央教会は大聖会で来たことがあり、札幌は住み慣れた所でもあるので、レンタカーのナビを頼りにしてやって来たとのお話。

籤は良く当たるそうですし、しょっちゅうお米や食べ物を頂いたり、ミカンが食べたいなとか、アレが食べたいなと思ったらアチコチから持ってくる人がいるし、感謝だなあといつも思っているとおっしゃる。

色々な証を楽しく聞かせていただき、イエス様に愛されているな、祝福されている姉妹だなと思い、更なる祝福があるように共に祈りました。

ひょっと思ったのは、この姉妹は自分では意識しておられないかもしれないが、人に与えることを喜びとしているのではないか、だから神様も豊かに与えてくださっているのではなかろうかということでした。

『人に與(あた)へよ。然らば與へられん。人は量(はかり)をよくし、押し入れ、揺(ゆす)り入れ溢るるまでにして、汝らの懐中(ふところ)に入れん、汝等おのが量る量りにて量らるべし』 ルカ6:38

『主イエスの自ら言ひ給ひし「與ふるは受くるよりも幸福(さいはひ)なり」との御言(みことば)を記憶すべきなり』 使徒20:35下




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肉にしたがふ者は肉の事をおもひ、霊にしたがふ者は霊の事をおもふ。肉の念(おもひ)は死なり、霊の念は生命(いのち)なり、平安なり。肉の念は神に逆ふ、それは神の律法(おきて)に服(したが)はず、否したがふこと能はず、また肉に居る者は神を悦ばすこと能はざるなり。されど神の御霊なんぢらの中に宿り給はば、汝らは肉に居らで霊に居らん、キリストの御霊なく者はキリストに属する者にあらず。 ロマ8:5~9

アダム以来、人は肉を持つ者故に罪の支配下に置かれ、悩み苦しんできた。律法が与えられたが、それによって罪はいよいよ鮮明になり、人の救わるべき道は絶え果てたかと思われた時に、主イエス・キリストが来たり給い、十字架に懸かり 「罪の払う値は死なり」 と定められた報酬を払って、私達を死と滅びの定めより救ってくださった。ハレルヤ、感謝である!

この救いは人のみに非ず、造られたるもの全てが待ち望む救いである。万物は今に至るまで共に歎き、ともに苦しんでいる。彼らは神の子たちの現れる日、即ち主の再臨の日を待っているのだ。私たちとて然り、更に勝って主の再臨を待ち望んでいる。今は御霊の始めの實をもっているが、肉体の贖いを受けるのはその日だからである。

重ねて言う。私達は、主が為し給うた救いの御業を信じ、水のバプテスマと相まって、救いの保証として約束の御霊を受けて神の実子とされたことを感謝してやまない。

斯くの如く、私たち水と霊を受けた者は、救われ贖われた者であり、霊において義とされた者、信仰者であるが、一方、世に在る限り肉体を持つ者であって、肉と霊との戦いの中に置かれていることも事実である。

從って、霊の念(おもい)と肉の念の戦いの中に置かれてはいるが、常に勝利して行けるのは、主の御霊が私たちの内に宿り、御言葉によって信仰の盾を与え、心を照らし、勇気を与え、励ましを与え、祈りの応答として数々の証を与え、御使いを遣わして守り支え、神の喜び給う善き方へと導いて下さるからである。

私たちはエペソ書6:10~18に記されているように 「誠の帯、正義の胸当、平和の福音の備え、信仰の盾、救いの兜、御霊の剣即ち神の言葉」など、様々な神の武具が与えられている。これをもて常に勝利し、前進することができるのだ。

また、祈りという大きな武器を持っている。祈りは見える所を変えるものである。また御霊によりて祈れとある。異言による御霊の執成しの祈りは、私たちの思いと願いを遥かに超えた大きな働きを為してくださるのである。そして輝くばかりの神の栄光を拝さしめてくださる故に主に向って大感謝を捧げるのである。 ハレルヤ!



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兄弟よ、我なんぢらが之を知らぬを好まず。即ち我らの先祖はみな雲の下にあり、みな海をとほり、みな雲と海とにてバプテスマを受けてモーセにつけり。而して皆おなじく霊なる食物(くひもの)を食し、みな同じく霊なる飲物を飲めり。これ彼らに随ひし霊なる岩より飲みたるなり、その岩は即ちキリストなりき。 コリント前10:1~4

出エジプト記には、モーセに率いられたイスラエルの民が、エジプトの王パロの手を脱して紅海の曠野(あれの)の道を進む様が記されている。

その時、主なる神はかれらの前に往きたまい、昼は雲の柱をもてかれらを導き、夜は火の柱をもて彼らを照らして昼夜往きすすましめ給うた。民の前に昼は雲の柱を除き給わず、夜は火の柱をのぞきたまはず、とある。 出エジプト13:21,22

雲の柱、火の柱とは何か? 神の御霊が臨在の輝きを以って顕れ給うているのである。イスラエルの民は、この時から始まる40年間の曠野の旅の間、昼夜を分かたず、雲の柱、火の柱に導かれてて進んだのである。

我らも同様に、「なんぢら信者となりしとき聖霊を受けしか」と、聖霊のバプテスマを受けて、信仰生活が始まるのでる。すべて神の御霊に導かるる者は、これ神の子なり。ロマ8:14 御霊によりて歩め、さらば肉の欲を遂げさるべし。ガラテヤ5:16

私は21歳の時に、村井じゅん先生が講師として招かれた伝道会に導かれ、先生の口から「私は大正7年9月8日、岡山の児島湾、小蒸気船の上で『捨てよ』と言う天からの声を聞き『はい』と答えると、口から異言が出て、聖霊を戴いた」という証を聞いて、「私も救われたい。ぜひ、その聖霊を受けたい」と心の中で思ったのだが、先生は説教を終えるや直ちに「今晩、聖霊を受けたい人は手を挙げてください」と言われ、更に「ハレルヤと言ってお祈りしてください」の勧められ、聖霊待望会をしてくださったのである。私も「ハレルヤ、ハレルヤ・・・」と祈るうちに間もなく受霊したのであった。その後、暫く教会に通ううちに、ある日礼拝の祈りの時に、御霊の取り扱いを受け、圧倒的な勢いで異言を語らされ、キリストの内住を体験したのである。

さて、紅海に近づいたイスラエルの民の背後に、エジプトの王パロが追いかけてきた。絶対絶命の民の前で海が左右に分かれ、開かれた道を進むことができた。パロの支配から完全に脱却することができたのである。これが水のバプテスマの型であって、我らは主イエス・キリストの御名による水のバプテスマを受けて、悪魔の支配から出て、神のものとされ、イエス・キリストに属す者とされるのである。私も聖霊を受けて4日後に豊平川で洗礼を受けて救われたのである。

更に、彼らイスラエルの民は、日ごとにマナを食べ、岩より出る水を飲んで生きることができた。だが、その生命は地上で生きるだけのものであり、永遠に続く物ではなかった。主イエス様がユダヤ人に「まことに誠に、なんぢらに告ぐ、人の子の肉を食はず、その血を飲まずば、汝らに生命なし。わが肉をくらひ、我が血をのむ者は永遠の生命をもつ、われ終の日にこれを甦へらすべし。夫わが肉は眞の食物、わが血は眞の飲物なり。・・・」 ヨハネ6:53~55 と言われた如く、イエス様ご自身をこの身に頂くことが必要である。

イスラエルの民は、それから、40年の間曠野の旅をするが、これは我らの信仰生活に例えることができる。決して平易な道ではないが、コリント前10:5~12に訓戒として記されている如き横道に反れることなく、正しき信仰を持って、主を見上げつつ進むことが大切だと思う。

汝らが遭ひし試練(こころみ)はひとの常ならぬはなし。神は眞實(まこと)なれば、汝らを耐へ忍ぶこと能はぬほどの試練に遭はせ給はず、汝らが試練を耐へ忍ぶことを得んために、之と共に遁(のが)るべき道を備へ給はん。 コリント前10:13



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  人は天より與へられずば、何をも受くること能はず。
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ヨハネはアイノンでバプテスマを施していた。そこは水が多くあるゆえであった。人々はつどい来てバプテスマを受けた。

一方、主イエス様はヨルダンの地にゆき、そこに留まってバプテスマを施しておられた (その実、主が自らバプテスマを施したのではなく、その弟子たちであった)。そしてその数がヨハネよりも多くなった。

そのことがヨハネの弟子の耳に入ったので、彼らはヨハネの許に行き、言った。『ラビ、視よ、汝とともにヨルダンの彼方にありし者、なんぢが證せし者、バプテスマを施し、人みなその許に往くなり』

その時ヨハネは答えて言った。『人は天より與へられずば、何をも受くること能はず。「我はキリストにあらず」 惟「その前に遣わされたる者なり」と我が言ひしことに就きて證する者は、汝らなり。新婦(はなよめ)をもつ者は新郎(はなむこ)なり、新郎の友は、立ちて新郎の聲をきくとき、大に喜ぶ、この歓喜(よろこび)いま満ちたり。彼は必ず盛になり、我は衰ふべし』 3:22~30 4:1,2参照 
{新婦=教会、新郎=キリスト、新郎の友=ヨハネ、と読替えて頂ければ良かろうと思う}

ヨハネの紹介により、ヨハネの許を去り主の弟子になる者もいた。ヨハネは真実を公平に見る目を持っていた、世の人とは異なり、邪心なく、率直にして忠実な神の人であった。自分が預言者によって預言された先駆者であり、キリストにバプテスマを授ければ自分の役割が終わることを御霊によって示されていたのである。そして主イエス・キリストが現れ、その伝道が拡大され、多くの人々が主の許へ行くのを見て歓喜したのである。

その後、ヨハネは無実の罪でヘロデに捕えられ、牢獄に繋がれる身となるが、獄中から弟子3人を主の許に遣わし、主がキリストなることの確かなる證を得た。

彼らがヨハネの許に帰って行った後、主イエス様は、あたかも雄弁な文学者のごとく詠嘆してヨハネの事を語られた。「われ汝らに告ぐ、女の産みたる者の中、ヨハネより大なる者はなし。然れど神の國にて小き者も、彼よりは大なり」 主は、ヨハネを最大の預言者であると言われた。アブラハム、ヤコブ、モーセ、エリヤなど綺羅星のように輝く預言者よりも上だといわれた。なぜなら神の子イエスにバプテスマを授けたのは、他ならぬヨハネであったからである。

けれども、更に上があると主が言われた。それは誰か、新約の今日に真の教会に在って生きる我ら即ち、水と霊のバプテスマを受けて救われ、神の御霊を宿す我らである。勿体ない!忝(かたじけな)い!ありがたい!感謝の極みである! 唯々イエス様の愛と憐みのお蔭である。

このことに思いを致して、更に福音を宣伝え、貴い務めを果たしたく願うのである。ハレルヤ!

凡ての善き賜物と凡ての全き賜物とは、上より、もろもろの光の父より降るなり。父は變ることなく、また回転の影もなき者なり。その造り給へる物の中にて我らを初穂のごとき者たらしめんとて、御旨のままに、真理の言(ことば)をもて我らを生み給へり。 ヤコブ1:17,18

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